イタリア Lezione

主にイタリアに関する読み物です。

芸術

[ リスト | 詳細 ]

芸術の領域に関する記事です。
記事検索
検索

sodomia

イメージ 1

イメージ 2

 Firenze における 「 作品群 」 を、注意深く見詰めていると、時折、妙な気分になる事があります。



 ルネサンス期における Firenze が、「 男色 」 華やかりし街であった事は、良く知られています。
 「 花の都 」 たる芳香は、あらぬ香りをも充分に湛えていました。現存する文献を広く紐解かなくとも、G. Vasari 等、Firenze 芸術を概観する上で欠かす事の出来ない 「 基本テキスト 」 に目を通すだけで、その事は遠からず伺えるものと思います。Leonardo , Michelangelo, Botticelli といった 「 有名どころ 」 は勿論の事、Donatello ,
Verrocchio , Cellini ・・・ と、所謂、時代に名を刻む 「 芸術家 」 に限っても、明確に 「 その気 」 があった人物は、枚挙に暇がありません。さながら、Firenze におけるルネサンス史は、homosexual が有力なキーワードの 1 つであると言っても、決して過言ではありません。


 Firenze のルネサンスと言えば、新プラトン主義を除いて語る事は出来ません。
 新プラトン主義の重要な用語に 「 真実の愛 」 というものがありますが、人間らしい愛情の形には、その対象のタブーは皆無のようで、むしろ、homosexual の下地を形成するに充分な 「 後ろ盾 」 であったとも言えるでしょう。表向き、男色行為は、法的な制裁を受ける対象であったようですが、「 真実の愛 」 は、なかなかに、その欲求抑え難く、恋人達は、半ば公然と、その伴侶を求め合いました。


 Firenze における、芸術家達の sodomic な背景。
 それは、何も新プラトン主義という、小難しい理屈を付けなくとも、助長するべく充分な背景が幾つか存在したものと思われます。例えば、Freud は、精神分析的側面から、Leonardo の homosexual について興味深い考察を丹念に行っています。この考察の殆どは、その後、美術史家の有力な反証が数多く出された為、現在では完全に論破されたと言えますが、あの Freud の感心をそそったという一事を取り上げても、非常に面白いと思います。10 代の初め、徒弟制度的な工房に、否が応でも弟子入りせざるを得なかった美少年達 ・・・ 当時、Firenze における芸術家達が辿った 「 標準的な 」 思春期の過程を想像しても、おぼろげながら sodomic な匂いが漂います。男ばかりの工房で、24 時間、先輩職人と過ごした幾年もの歳月は、男色的な背景を醸成するに充分な理由であった筈です。





 homosexual という目線で、Firenze 芸術家達の作品を眺めるのも一興です。
 現代の文学、芸術領域では、homosexual は、それ程、異常な概念ではありません。むしろ、かなり 「 研究が進んだ領域 」 であるとも言えるでしょう。また、homosexual の目線で作品を観るのは、現代の美学領域でも 「 普通に 」 行われますから、全く特別な事ではありません。


 同じ homosexual でも、芸術家によって、その固執対象は異なるようです。
 Michelangelo のように、「 筋肉ムキムキ男性 」 の作品を見ると、彼の 「 興味 」 が、何処にあったのか伺う事が出来、ある意味、面白いと思います。その逆に、男性を極限まで 「 美しい 」 対象として捉える作品も数多くあります。私は、男性よりも、と言うより、明確に、女性に対して並々ならぬ興味がありますが、この 「 美しい男性 」 を顕現化した作品の方が好みです。Firenze で、美術館巡りをしていると、到る所で、この 「 美しい男性 」 達に会う事が出来ますが、時には、ドキッとさせられる事もあります。


 「 美しい男性 」 にご興味のある方は、Donatello と Botticelli が、「 お薦め 」 です。
 この 2 人が創り出す、「 美少年 」 達は、男性である私でさえ、時間を忘れて眺め入る程です。究極の 「 男性美 」 と言いますか、男の美しい部分だけを抽出した 「 理想美 」 は、少しだけ、同姓の胸を熱くします。こういう作品を観ていると、やはり、Firenze における sodomic な土壌は、決して無視する事の出来ない、芸術的範疇である事に改めて気付かされると思います。





 Firenze における、もう 1 つの芸術史。
 Firenze にお出掛けの際は、数多待ち受ける、究極の 「 美少年、美青年 」 達に、ご注目下さい。

naturale

イメージ 1

 13 世紀における Giotto の出現は、イタリア美術史にとって、奇跡的な幸運です。



 イタリア美術史における Giotto の出現は、些か唐突です。
 この 「 巨人 」 を、時間軸に沿って振り返る時、第一感、時代における 「 特異性 」 に眼を向ける必要があるでしょう。美術書等を紐解きますと、ルネサンスへの橋渡し的役割を Giotto に背負わせた記述が圧倒的に目立ちます。この事は、確かに万人を納得させるものではありますが、それでは、ルネサンス以前に、イタリア絵画に何があったのかという視点で見ると、改めて Giotto の唐突な出現と、時代における特異性が分ります。


 13 世紀以前のイタリア絵画を概観すると、如何にも Byzantine 的な特徴が多く見られます。
 遠近法のない平板な画面に、人物は切り絵のパーツのように配置され、良く言えば、信仰場面の直接的描写、悪く言えば、無機質で人間的感情を欠く造形でした。それら 13 世紀以前に製作された絵画と、15 世紀、すなわち、ルネサンスが花開こうとする時期に描かれた絵画を比べますと、似て非なるもの、隔世の感のみが湧き上がります。この 2 つの時代の間に、何か線的な美術史上の流れを見出そうとしても、なかなか上手く行きません。其処に突如として出現した Giotto は、ルネサンスの先駆けという地位は無論の事、中近世における、イタリア絵画史の決定的な流れを一息に創り上げた、非常に特殊な存在であると言えるでしょう。Giotto の出現によって、低木のみが茂るイタリア絵画の世界は、大小様々な緑が繁茂する、豊かでみずみずしい平野となりました。





 Giotto の技法で目に付くのは、その描写力です。
 芸術上の師である Cimabue が、幼い少年であった Giotto に初めて出会った時、既に素描に関する生来の傾向を看て取ったと言われます。平面で無表情な人物描写ではなく、地に足をしっかりと付け( 地面の上に人物を立たせる事が出来ず、宙に浮いたような描写になるのが、Byzantine 的な特徴の 1 つです )、自然な表情で人間を描く技量は、生得的な 「 術 」 であったようです。正確な素描の技術と、人間らしい自然な表情を持つ描写は、
Giotto によってもたらされ、それまでにない造形絵画の領域を形成したと思われます。人物も動物も建物も、画面の中で、非常に現実的に描かれるようになりました。


 ルネサンスの芸術家で、伝記作家としても知られる G. Vasari が面白い記述を残しています。
 Vasari が Michelangelo の作品を評す際に、terribile という形容詞を盛んに用いている事は、芸術史的領域で良く知られています。terribile は、英語の terrible に相当する言葉で、「 作品が持つ圧倒的な力感 」 を象徴するものですが、眺めていて 「 恐ろしい・禍々しい・おどろおどろしい 」 という本来の語義も含意します。事実、
Michelangelo の作品は、それが絵画であっても彫刻であっても、何処となく緊張感を孕んだ、大模様を張るような感を受けます。自分が持つ技術、力を存分に作品に込め、それが観る者に、如実に伝わるような迫力と言えば良いでしょうか。良くも悪くも、Michelangelo の作品に対峙する時は、肩に力が入り、圧倒される思いをします。


 それと対照的な記述を、Vasari は Giotto に対して残しています。
 Michelangelo が terribile であるのに対して、Giotto には、naturale という形容詞を盛んに用いて賛を与えています。naturale は、もちろん、英語の natural に当たる言葉です。Giotto の作品は、芸術史上のエポックとして、その技法が先行して語られる事が、非常に多いと思います。しかし、やはり私は、この naturale を、Giotto の大きな魅力として考えます。作品のどれを観ても、肩の力が抜けたというか、自己の芸術技量を誇示するところが無い、ごくごく素朴な印象を受けます。それは、正に naturale であり、非常に澄んだ透明感で、観る者の目に 「 自然に 」 入り込んで来ます。喜び、悲しみ、怒り、といった人間の感情が、奇抜なく現れる Giotto の画面に、不思議な臨場感と一体感を持ちます。作品に正対した時、画中の人物が発する、生々しい感情に、「 自然に 」 支配される様です。


 もちろん、芸術作品には、各々の役割というものがあります。
 時の為政者が発注する、時代的な大作には、Michelangelo の様に、圧倒的な力を持った terribile が相応しいと思います。しかし、それと対照的に、例えば、こじんまりとした教会の祭壇や、静かで涼しげなチャペルの壁面には、Giotto の naturale が似合います。Michelangelo のみならず、ルネサンス期( 特に Firenze )の作品群を概観する際に、重要なキーワードとなる terribile が、圧倒的な魅力を湛える一方で、その先駆となった Giotto の
naturale は、多くの人に静かな感慨を与え続けています。


 限りなく人を惹き付けるイタリア絵画。
 ルネサンス的作品に圧倒され、心を躍らせる一方で、それらの礎となった Giotto の静かな魅力を 「 自然に 」 感じ取るのも一興です。










Fu ed e Giotto tra i pittori il piu sommo della medesima citta di Firenze.

・・・ Dante : La Divina Commedia

風景画

イメージ 1

 風景画に、心動かされる事があります。



 難しい事は、いざしらず、私にとって風景画の魅力は、やはり 「 癒し 」 であると思います。
 仕事で時折、少々 「 挑戦的な 」 絵画作品を見る機会がありますが、個人的趣味の観点から 「 好き・嫌い 」 を問われると、いささか逡巡します。奇抜が故に頭を使って理屈を考えなければならない造形対象は、正直、「 面倒くさい 」 と思う事は確かです。少なくとも、疲れている時に、難しい小理屈を付けて、その存在意義を見出さなければならない作品に付き合うのは、苦痛とまでは言わないまでも、進んで眼前に置くには、かなりの労力を要する事と言えなくもありません。そう考えると、眼にも心にも優しい風景画は、一義的に 「 癒し 」 を求める事が出来る造形対象です。





 19 世紀のイギリスと言えば、風景画の黄金期です。
 「 自然に還れ 」 を合言葉とした「 ロマン主義 」 の潮流は、人間の眼に再び野山の美しさを映し出しました。
W. Wordsworth や S. Coleridge を頂点に戴く詩壇の魔術師達は、ペンから溢れ出る泉の流れで 「 自然美 」 を謡いあげました。彼らが用いる韻律の妙は、湖水地方の冷涼な風であれ、西部の海岸に打ち付ける荒々しい波であれ、遙か遠いイギリスの 「 自然 」 を想起させるに充分な魅力を湛えます。


 ロマン主義が、絵画の世界に J. Constable を生み出したのは、全くの幸運です。
 画家その人自身、もはや、風景画の icon とも言うべき、巨人 Constable は、W. Turner と並んで、その余りにも大きな足跡を、此の領域に刻んでいます。Constable の自然、否、田舎の風景には、その確かな筆致と対照的に、誰もが持つ、何処か 「 懐かしい 」 心情が含まれていると思います。


 日常とは異なる 「 自然の(田舎の) 」 風景。
 それを観て、「 癒し 」 を感じるのは、実に面白い心の振幅ですが、ロマン主義以来、自然の風景は、人間が否応無く求める、先天的な 「 心の風景 」 なのかも知れません。そして、Constable の絵は、「 心の風景 」 そのものです。





 少し疲れた時に、「 自然に還る 」 のも悪くありません。

 雨が降る週末など、 Constable が観たいなと、時折思います。





I wandered lonely as a cloud
That floats on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host of golden daffodils,
Beside the lake, beneath the trees,
Fluttering and dancing in the breeze.


The Daffodils : William Wordsworth

あの人

イメージ 1

 London を訪れる機会があると、必ず「あの人」に会いに行きます。





 中心部 Trafalgar Square に面した一隅に、欧州絵画の殿堂、 National Gallery が建っています。
 私は、この美術館に来ると、真っ先に、ある1枚の絵を観に向かいます。正面の玄関を入って右手に進み、印象派の絵画に暫く囲まれつつ歩を進めると、奥端の角部屋に1枚の大振りな絵が掛けられています。
The Execution of Lady Jane Grey 『 ジェーン・グレイの処刑 』 と名付けられた、この巨大な1枚の前を通る人は、その余りにも劇的な英国史の瞬間を描いた構図の為か、必ず足を止めて暫くの間、眺め入ります。10年以上前、初めてこの絵の前に立った時、暗い画面の中央に薄い光を纏いながら跪く、1人の若い女性の姿が、私の心を強く捉えました。





 英国史に少なからず興味をお持ちの方であれば、Jane Grey の名と、その悲劇的な運命に、1度は想いを馳せる事でしょう。16世紀中葉、混沌とした王位継承争いの末、Tudor 朝の末裔である若き Jane Grey は、自分の意志とは無関係に英国の玉座を占めました。しかし、王位とその周辺にまつわる種々の陰謀、欲望は、彼女に僅か10日余り「女王」の地位を与えた後、奇しくも同じ女帝 Mary に「禅譲」を強要します。政争に敗れた Jane を取り巻く一派は、悉く捉えられ、断頭台の露と消えて行きました。やがて、Jane 自身も身柄をロンドン塔に幽閉され、
17歳の短い生涯を、最も相応しくない「処刑」という形で閉じる事になります。





 件の絵は、Jane が断頭される直前の場面を劇的に描いたものです。
 その理由も分からぬまま、王位継承に伴う政争に担ぎ出された Jane は、目隠しをされ、斧が振り下ろされる、その刹那まで、自らの運命を理解する事が出来なかったに違いありません。玉座に着いた時と同様、「導かれるまま」に、何ら抵抗することなく断頭台に跪こうとする Jane の姿は、人生の最後を迎える瞬間が、今正に到来している事を予期していないかのようです。絶望して打ちひしがれる女官達、全てを悟りつつ職務を遂行しようとする処刑人の遣る瀬無い表情が、若い Jane の美しさと余りにも対照的で、悲劇的な場面を一層際立たせています。


 P. Delaroche は、ロマン派特有の筆致を駆使するが為に、やや細部を強調し過ぎる傾向があります。
 しかし、その欠点でさえも、この絵の圧倒的な迫力、そして Jane の持つ「悲劇的」な美しさの前に霧散する事でしょう。



 私は、この Jane 以上に、絵画の中の女性に心を動かされた事はありません。
 それは、その悲劇的な最後を一緒に目撃する慟哭というよりも、絵画の中で、その余りにも「悲劇的」な美しさを永遠に保ち続ける Jane の姿に、否応なく惹かれると言った方が良いかも知れません。この絵の前に立つ度に、1人の女性の悲劇的な最後が胸に去来すると同時に、自らの眼の前で、永遠の美しさを放ち続ける Jane Grey その人に言い知れない魅力を感じます。それは私にとって、「生きている」女性との対話、そのものでもあるのです。


 時折、London の事が頭に浮かぶと、「あの人」は、どうしているだろうと思います。
 Delaroche の絵画に描かれた Jane は、私にとって、常に、1人の美しい生きた女性です。「生きた」Jane との静かな対話は、London を再訪する大きな動機です。





 私が London で、「あの人」と呼ぶ事の出来る女性は、National Gallery の Jane Grey だけです。
 この冬、「あの人」に会いに、久し振りに London を訪れようと思っています。










追記:

 「英文学者」である夏目漱石が、London 官費留学中に、この絵を観て、やはり少なからず心を動かされた事実は、ご案内の通りです。小品『倫敦塔』に記された Jane に関する記述は、漱石が交わした「生きた」彼女との対話でもあるのでしょう。

目隠し

イメージ 1

 ローマのボルゲーゼ美術館に、Tiziano によって描かれた「キューピッド」の絵があります。


 『キューピッドに目隠しをするヴィーナス( Venere che benda Amore )』という題が付けられたこの絵は、文字通り、キューピッドが「目隠し」をされるという、一見するとコミカルな場面が描かれているためか、否応なく人目を引きます。もちろん、画家が Tiziano ですから、そこに意図された「図像上」の「企み」にも興味がありますが、純粋にじっと目を凝らして眺めているだけで、充分に楽しむ事が出来る絵だと思います。










 ご存知の通り、キューピッドの弓矢に射抜かれた人間は、たちまち「恋(愛)に落ちる」とされます。
 キューピッドは、ギリシア神話の主要な登場人物として世に出て以来、様々な姿形で描かれてきました。今日定着している、「翼の生えた子供」をキューピッドの姿として描くようになったのは、ゴシック期とされていますが、正確な初出は分かりません。少なくともイタリアでは、13・14世紀頃とされています。


 「翼の生えた子供」のキューピッドは、主として2通りに描かれます。
 1つは「目隠しをした」姿、もう1つは「目隠しを外した」姿です。キューピッドは「愛」の象徴ですから、この「目隠し」には「愛のあり方」が図像として暗喩されます。


 「愛」のあり方には、古来より2種類があるとされます。
 1つは、「理性を失った盲目的な愛」です。この「愛」は、身を焦がすような狂おしい情熱をもたらしますが、一方で肉欲的な「快楽」が表出するものです。「愛」と「快楽」は、表裏一体の関係ですし、突き詰めて考えていけば、この手の「愛」が少なくとも嫌いという方はいない筈?ですから、より人間的な「愛」のあり方と言えなくもありません。


 もう1つは、「精神的な繋がりを一義的に考える理性的な愛」です。15世紀にフィレンツェで花開いた、新プラトン主義を基調とした「人文主義思想」では、この「理性的な愛」のあり方が見直されるようになりました。すなわち、人間の育む「愛」のあり方は、他の動物と異なり、先ず持って、「精神的」な繋がりを重視するものであるべきだという考え方です。なるほど、確かに「精神的(理性的)な愛のあり方」を考える事は重要です。肉体の快楽よりも、精神的に深い繋がりを共有する相手と育んでこそ、より高次元の愛情を獲得する事が出来ると言えるかも知れませんし、少なくともそういう「愛」のあり方は、人間のみが可能とする愛情概念であるのでしょう。こういう「愛」、俗な言葉で言うところの「清らかなお付き合い」は、「プラトニック・ラブ(プラトン的愛)」として、現代の「愛」のあり方としても充分に共感を呼ぶと思われます。
(新プラトン主義を根底に置く人文主義思想は、決して「快楽」そのものを否定しているわけではありません。精神的な深い繋がりが、やがて「快楽」に昇華する、すなわち「肉体的快楽の前に、先ず精神ありき」という考え方です。逆に言えば、必然として「快楽」を伴う「愛」に何とか「清らかな」理屈を付けようといったところでしょうか。)


 「目隠しをした」、或いは「外した」キューピッドは、伝統的に次の様に解釈されてきました。
 「目隠しをした」キューピッドは、正常な判断力に著しい影響を及ぼす視覚を奪われた存在です。従って、「愛」に対しては盲目的で理性的な行動を取る事が出来ません。その逆に、「目隠しを外した」キューピッド」は、理性的な判断を下す事が出来る「愛」の象徴です。「目隠しをした」キューピッドは、「目隠しを外した」キューピッドよりも劣る存在として作画表現される例は、L. Cranachを代表として、イタリア以外では、ルネサンス期以降もかなりの数に登ります。


 冒頭の Tiziano によって描かれたキューピッドを見てみます。
 この絵には『キューピッドに目隠しをするヴィーナス』という題が付けられていますが、何か不可解な感じがします。右側の2人のニンフは、キューピッドの弓矢を持って待機しています。このことからも間違いなく、このキューピッドが、自らの「武器」である「愛」の弓矢を持たされて、これから人間世界に送り込まれようという場面である事は容易に見て取れます。そして母親であるヴィーナスは、より高次元の「愛」性をキューピッドに持たせるために、「目隠しを外して」いるとしなければならない筈です。しかし、こうなると絵に付けられた「目隠しをする」という文言と矛盾する事になります。


 既に記した通り、15世紀にイタリア、特にフィレンツェを中心に花開いた人文主義思想は、「愛」についての思索を新たな観点で深めました。その影響は、S. Botticelli をはじめとする同時代の画家に強い影響を与えました。当時の人文主義思想家は、当然の如く「愛」の象徴として伝統的に描かれるキューピッドの「目隠し」についても言及しています。


 フィレンツェを代表する人文主義思想家 Pico della Miarndola は、「愛は、知性を超える存在である故に眼を必要としない」という言葉を残しています。すなわち、理性的に物事を判断するための眼は、裏を返すと「愛」を「目に見える外的な要因」で眺める事を誘発する。「愛」は、「心の眼」で判断してはじめてより深い理解を得る事が出来るから、むしろ文字通りの「眼」は必要ない筈だというのです。こうなると、「目隠しをする」事は、「外される」事よりも、肯定的に作用し始めます。「愛」を見つめる方策も、時代や場所を異にすると、全く変わるものです。余計な視覚を遮断して「心眼」で「愛」を見るためには、確かに「眼」は必要ないというよりも「邪魔」になるでしょうから、「目隠しをする」方が、むしろ好都合でしょう。Botticelli も「目隠しをした」キューピッドを象徴的に描いていますから、当時の人文主義思想における「愛」のあり方について、進んで先取していたと言えます。


 現在、冒頭のTiziano の絵は、「目隠しをする」という表題が示すように、当時の人文主義思想の影響を色濃く受けていると判断する見方が体勢的です。しかし、やはりこれは「目隠しを外している」場面を描いているものだという見方も根強く存在します。個人的には、画中に見られる他の図像的現象を加味すると、圧倒的に前者、すなわち「目隠しをする」キューピッドを描いているという論を支持しますが、「目隠しをする・外す」という論争に積極的に参加して考えを巡らそうとは思いません。


 15世紀の「愛」も、現代の「愛」も、「解釈」はどうあれ、その「本質」は変わらない筈です。
「愛」の本質を考える事と、図像上の「目隠し」を論議する事は、やはり異なると思います。Tiziano の絵を見て思うのは、普段何となく「照れ臭い」と感じる「愛」を、たまには少しだけ頭を使って考えてみようかなという事でしょうか。


 「愛」とは、どのような形をしているのでしょう。
 もしかしたら、その答えは、1人1人に向かって、今正に矢を射ようとしているキューピッドだけが知っているような気がします。


 皆様の「キューピッド」は、目隠しをしているでしょうか、それとも外しているのでしょうか?










Love looks not with the eyes, but with the mind,
And therefore is winged Cupid painted blind.
Nor hath Love's mind of any judgement taste,
Wings and no eyes figure unheedy haste.

・・・W. Shakespeare : A Midsummer Night's Dream


.
アバター
naoki
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

過去の記事一覧

検索 検索

ブログバナー

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事