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夏の日差しも、その密度を増し、季節の色は容赦なく濃くなって行きます。
その存在を強烈に主張する 「夏」 は、眩しい光一つとっても、他の季節とは圧倒的に風情を異にします。
肌に突き刺さる夏の光を他所に、空調の効いた静かな研究室に閉じ篭り、日がな1日、ああでもないこうでもないと 「哲学」 をしていると、時には印象派の画家のように、画架と絵具を持って、「夏の色」 を写し取るべく、外に出て行きたい衝動に駆られます。もっとも、印象派のように絵心のない私は、画架と絵具の代わりに、ミネラルウォーターのペットボトルと、汗を拭う小さなタオルを手にして大学の周囲を散策します。
夏の日差しは、その眩しさに負けて眼を閉じても、痛いほど降り注ぎます。
圧倒的な 「夏の光」 を感じるだけなら、照り返す都会の照射に閉口するよりも、むしろじっと眼を閉じて、 「光」 そのものを感じるべく神経を研ぎ澄ませ、胸の内で夏の 「光景」 を思い浮かべる方が良いのかも知れません。じりじりと刺さる 「光」 を受けつつ眼を閉じると、突然、A. Sisley の絵、否、「風景」 を思い出しました。
Sisley 程、「印象派」 という冠が相応しい画家も居ないでしょう。
私は、Sisley が大好きです。哲学者、それも芸術哲学の研究を生業とする人間が、印象派、それも Sisley を好むなど 「素人」「俗物」 と言って、知己の立派な学者先生は冷笑しますが、その嘲笑を甘んじて受けるだけの魅力を、私は Sisley の画中に見出します。「見出す」 というよりも、「感じる」 と云った方が正確かも知れません。特に 「夏」 を描く Sisley には、この季節が持つあらゆる要素を、そこかしこに「感じる」事が出来ます。それは、強烈な 「夏の光」 を受けながら、じっと閉じた眼の裏側に浮かぶ光景と、寸の相違なく重なる 「印象」 です。
誰もが持つ 「夏」 の風景。
橋のたもとに出来た影で涼を取る恋人達、むせ返るような匂いを発しながら青々と茂る土手の草、時間の経過と共に夕立を誘うであろう白い雲、麦藁帽子を被って川の水に手を差し伸べる舟遊びの姉妹、降り注ぐ光を跳ね返す家の白壁・・・そして、それらを全て映し出しては揺らめく、穏やかな川面。
いつの日か、何所かで観たような 「風景」 は、眼を閉じてこそ「感じる」事が出来る「夏の断片」かも知れません。
「夏の光」 に、そっと眼を閉じて「感じる」夏の風景。
Sisley の 「夏」 は、「印象」 という名を負った画家に相応しい色合いです。
再び開いた眼に、夏の強烈な日差しが蘇り、午後の仕事をするべく研究室へ歩を返しました。
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