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その1からの続きです。 お雇い外国人の建築家と言うよりは“技術者”のブリジェンス(米)とウォートルス(英)。 彼らに続くのが、カペルレッティ(伊)とボアンヴィル(仏)です。 両者とも建築家としての力量はあり、きちんとした様式の作品を残しています。 オーダー(柱)の様式も3種類(ドリス式、イオニア式、コリント式)を順番に使うのが正式、 ということは初めて知りました。 カペルレッティは、参謀本部(1879)、遊就館(1881)等を設計、 ボアンヴィルは、印刷局(1876)、工部大学校講堂(1877)、外務省(1881)等を設計。 また、ボアンヴィルは工部大学校(東京大学工学部の前身)の教授もしていましたが、 日本のことを低く見るような価値観、母国語ではない英語は聴きとりにくく、 辰野金吾、片山東熊らの生徒たちには不評だったようでした。 後任のコンドル(英)先生は、温順で懇切な教育(曾禰達蔵による)で、 生徒たちの信頼を得ていた…ということで、次回は、ジョサイア・コンドルについて。 約1カ月後の2回目が楽しみでなりません。 この公開講座のパンフは、旧岩崎邸(コンドル設計)に置かれていたものです。 貰って帰ってすぐにFAXで申し込みました。なにか縁があったのでしょう。 ※写真は、日本の建築[明治大正昭和]第1巻開化のかたち 三省堂P140〜141より。
こうしたページは、いくら見ていても飽きません。 |
建築
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自由学園での公開講座は「日本近代建築の造り手たち〜外国人建築家編〜」。 1回目は、明治初期のお雇い外国人たち。 明治初期のお雇い外国人のブリジェンス(アメリカ)と ウォートルス(イギリス)を中心にしたお話でした。 長崎や横浜の外国人が多い場所に明治初期に建てられた建物は、 施工は日本人というものも多く、不燃のための壁面=蔵造りのなまこ壁が多く観られます。 ブリジェンスは築地ホテル館(1868)、新橋と横浜停車場(1872)、横浜税関(1873)、 横浜のグランドホテル(1873)等を設計。 シンメトリーな2つの建物を繋ぐ形が多く見られます。 ウォートルスは泉布観(1871)、造幣寮(1871)、竹橋陣営(1873)、銀座煉瓦街(1873)等を設計。 この2人は建築技術者の色合いが強く、正規の建築教育を受けていなかった様子。 “なんでも屋”さんのような逞しさが文明開化の“勢い”にマッチしていたのかもしれません。 以下、その2に続く。 ※この講座の翌日が、劇団四季「キャッツ」記念日でした。
観劇後に横浜で「西洋館(べーリックホール)」を見学し、 買い求めた冊子(写真)に、講座のテキストにあった写真をいくつも発見。 24時間以内に再会するなんて…不思議な繋がりを感じました。 |
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先月、ここで行われた公開講座に行ってきました。「明日館」=みょうにちかん、と読みます。 |
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4月25日(日)、「キャッツ」マチネの後に訪れたのは「エリスマン邸」と、 この「べーリックホール」の2か所でした。 もともとは3月の「キャッツ」の時に来るつもりでしたが、 あの日は強風で、徒歩で山手の坂を登ることを断念。 「横浜人形の家」だけにして、ゆっくりとお茶を飲み、 ホテルニューグランドのロビーを見たりしていました。 今回は幸いマチネ公演、今度こそ“セイラ(セーラ)のロケ地に行こう”、と わくわくしながら坂道を登りました。 昨年TBSテレビで放映されていた「小公女セイラ」は、娘のお気に入りの番組でした。 門を見ただけで、記憶がよみがえったようです。 ホールではピアノの演奏も聞こえ、10年ほど前まで寄宿舎として使われていたという この建物は、ドラマに出てきたような制服に白いエプロンの少女たちが今にも 現れそうな清楚な佇まいでした。 竣工は1930年、設計はJ・H・モーガン。 先日訪れた朝香宮邸(東京都庭園美術館=1933年)と似た、 モノトーンの市松模様の床タイルがアール・デコの雰囲気です。 ご子息の寝室、奥さまの部屋のサンルームもゆったりとスペースを取り、 書斎にはタイプライター、インターナショナルスクールの資料、 サッカーチームの優勝カップなどが展示されていました。 地下には創建当初の水タンク、ドアノブや建具の一部も保管されていました。
戦前の横浜西洋館にも思いが及び、受付で小冊子「山手の丘の物語」を求めて帰りました。 山手西洋館群は他にも建物があるので、機会を作って行ってみたいと思っています。 |
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日曜日、劇団四季の「キャッツ」観劇の後に訪れたのがここでした。 |




