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 今回の横浜「キャッツ」のお供は、
コルビュジエと聞いて迷わず“日本郵船歴史博物館”へ。

 1月の「歴史的建物を観て歩く〜日本近代建築史〜」(米山勇先生)で、
ル・コルビュジエ設計の国立西洋美術館や
お向かいの(彼の一番弟子)=前川國男設計の東京文化会館も“船に見える”と聞いたばかり。
今回の展示で、その“船への思い入れ”の強さを更に知る事が出来ました。

 コルビュジエが活躍を始めた1920年代後半、船も技術革新が進み、
その形、機能は最近技術の宝庫となり、建築家たちも注目していました。

 船の“流線形”は視界確保と空気抵抗を抑えるためのものでしたが、
建物の造形にも流線形は取り入れられています。
 大型客船の合理的な空間利用は、そのまま集合住宅(マルセイユのユニテダビタシオン)の
プランに採用され、1つの住宅に都市機能を盛り込むことへと繋がっていきました。
 さらに船の甲板、屋上デッキも、住宅の屋上利用に応用、日差しを浴びる庭園などとして
活かされていました。

 煙突と真っ白な外観も、船を連想させる大きな要素で、“サヴォア邸”然り、
“東京文化会館”もまさしく船に見えました。
 船の丸窓は水圧を分散させるための円形なのですが、これも当時の建築に多く
取り入れられて飾り窓風になっていたりします。
展示された3cm厚のガラスは、流石に重量感がありました。
 そして手すりや階段は船のタラップを連想…国立西洋美術館入り口の隣にも
階段がありました。

 “ただの箱っぽくて面白くない〜”なんて、最近まであまり関心がなかった近代建築も、
ちょっと気をつけてみると『見どころ』がいっぱいある事がわかった、興味深い展示でした。

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 今日は「立春」。ちょっと時間が経ってしまいましたが、
先日見学した“飛鳥山3つの博物館”のうち、「北区立飛鳥山博物館」は、
自然科学系の展示が主で、貝塚の遺跡模型が目を奪い、
中でも、竪穴式住所、昔の道具がある土間などを再現した場所は見応え十分。

 一番楽しめたのは「名所 王子・滝野川・飛鳥山」のゾーン。
飛鳥山は都内随一のお花見の名所ということで、当時の「お花見弁当」も再現され、
何重にもなった重箱に、ぎっしりとご馳走が入っていました。
 よく見ると、現在食べられているものとは微妙に違いますが、
木の芽や野菜をふんだんに使って、ヘルシーで美味しそう!
 当時はこれがとても贅沢な、年に一度の楽しみだったことでしょう。

 博物館のある“飛鳥山”の児童公園には、
きちんと整備され、屋根まで付いた『D51(蒸気機関車)』があり、
引退して子どもたちの“友”になるSL…小学生のころ教科書に載っていた
「きかんしゃやえもん」(阿川弘之)を思い出しました。
 また同じように整備された『都電』もあります。

 今年のお花見には、ぜひここにまた来てみたくなりました。

※記念館の入口にある象徴展示「豊島郡衙の正倉」。
 人物は実物大で、音声解説も付いていてリアルです。
 「正倉」は、律令時代、米を収めた倉のことだそうです。

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 北区飛鳥山には「紙の博物館」「渋沢史料館」「飛鳥山記念館」の3つが並んでいます。
行った目的はここの“青淵文庫・晩香蘆”の重要文化財建物見学でしたが、
もちろん博物館も、全部回ってきました。
 この「渋沢史料館」は、渋沢栄一に関する展示物が満載。順路が分かりやすく、
見学シート(説明書)も随所に置かれ、とても見易い印象を受けました。

 渋沢栄一の生まれは、武蔵国榛沢郡血洗島=現在の埼玉県深谷市。
青年時代は尊王攘夷運動に参加〜徳川慶喜に使え、幕府派遣でパリへ視察に赴き、
帰国したら明治維新という激動の真っ只中。
 早速、銀行や大蔵省の基礎を作ることに奔走するも、政府の役人はすぐに辞して、
民間の立場を貫きながら、多くの企業の創立に参画。

 実業人として絶大な力を持ちながら、商工会議所を組織し、労働組合の支援も行い、
最晩年には、「アメリカとの人形交流(青い目の人形使節)」も…。

 業績はとても書ききれないくらいのマルチ人間、世界平和を願っていた栄一は
1931(昭和6)年に91歳の生涯を閉じましたが、その頃、日本は戦争へ向かっていた…
 
 展示を見終えると、今まで漠然と「偉人」として捉えていた栄一の
全ての階層、世界全部を視野に入れた“おおきな人間像”を
くっきりと描くことができました。

※青い目の人形と渋沢栄一翁=当時のアサヒグラフ・表紙用写真
(埼玉県平和資料館特別企画展「青い目の人形と渋沢栄一」図録より)

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 先日訪れた「紙の博物館」では、“模造紙”という言葉に意味を初めて知りました。
何を“模造”したのでしょうか?真っ白で大きい紙なのに…。

 長年の疑問は、もちろん“模造する元”があったことの説明から解けていきました。
日本の製紙技術で漉かれた「三椏(みつまた)」の和紙(紙幣用)は
1878年のパリ万博で特別賞を受賞し、大人気に。
 これを真似た木材パルプを原料としたオーストリア製品が日本に輸出され、
日本が対抗して同じく木材パルプで三椏紙を模造した=「模造紙」を発売し、
外国製品を駆逐したという経緯でした。

 模造紙は、もともと“紙幣用の和紙を模造したもの”だったのですね。
今では学校などで大きな掲示物を作ったり、研究発表に使ったりする「大きな紙」
という認識です。
 一方、模造された本家“三椏紙”は、今でも日本の紙幣用として使用されています。

 同じ頃、「金唐革紙(きんからかわし)」=厚手の手漉き和紙にロールで文様を浮き出させ、
乾燥させた後に漆や顔料塗料を塗り、彩色・金箔を施し、
仕上げに再び漆(耐水塗料)という手の込んだものが、輸出されていました。
 1873年ウイーン万博で好評を博し、バッキンガム宮殿の壁紙として採用され、
当時作られた「鹿鳴館」、「岩崎邸」にも使われていました。

 この博物館、本当に見ごたえたっぷりで、また行きたくなりました。

※懐かしい、「紙の博物館」の建物。空襲で焼け残った変電室を利用したそうです。
 この建物のうちに、行っておけばよかったですね…。

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 昔の「紙の博物館」の建物は、小さい頃京浜東北線の電車から見えて、気になっていました。

 そして…。立替え・移転後ですが、今回初めて中に入る事となりました。
気にはなっていたものの、足を運ぶまで何十年かかったのでしょう(笑)。

 企画展示「時代紙万華〜60年ごとに見る江戸から平成〜」では、
1830〜2010年までを60年ごとに区切って、時代を反映する紙製品を展示してありました。
 明治初期は日本の和紙は世界に誇れる品質で、輸出も盛んにされていました。
和紙〜洋紙への転換を図る頃、最初の「製紙工場」が作られたのが、この王子の地。
 
 この展示は、その時代に使われた生活用品も多く、
江戸時代の紙製の着物、布団は、木綿や麻が高価だったための代用品だったとか。
紙製の布団というかブランケットは、ぺたんこで、あんまり暖かそうじゃないです…。

 同じように布が不足した1940年代の紙製のベスト、戦争中の“灯火管制用の黒い紙”を見ると、
その耐乏生活ぶりを想像し、ちょっと胸が痛みました。
 戦後のものは幼児雑誌やメンコ、最近の超高級ティッシュ、牛乳などの紙パック、
形が工夫された段ボールなど、多彩な展示物に見入ってしまいました。

 『紙』は、本当に生活に密着したもので、如実に時代を映すもの、
記憶を呼び覚ますものだと、改めて認識した楽しい展示でした。

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