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太平洋戦争時当時、旧帝国海軍の戦艦は12隻でした。
戦艦長門と瀬戸内海で自爆した陸奥を除き上記の戦艦は皆米軍に沈めらました。 (戦艦陸奥のみ瀬戸内海で火薬庫からの出火か?謎の爆沈事故) 私は1944年10月のレイテ島沖海戦で沈んだ扶桑型戦艦 扶桑・山城の2隻の生存者数が異常に少なすぎるという点に 最近興味を持ちました。 この両艦は同級で極めて不遇かつ似た運命を辿った戦艦です。 どのくらい扶桑・山城の生存者が少ないか他の戦艦と比較してみます。 乗組員 生存者 生存率 備考 普通に考えると当時の戦艦といえば皆3万トン以上の巨艦で 装甲や外板の鉄板も分厚く防御力にも優れていますし、艦が 大きいだけに予備浮力もあり、浸水し傾き沈む間にもある程度の乗員は 脱出できるのが普通と思われます。 つまり1000トン以下の小型艦(船)より一万トン以上の大型艦の方が 転覆とかでもない限り生存者数や率は高まりそうに思えます。 山城・扶桑の沈没状況 実は扶桑級のこの2艦は日本の戦艦の中では不良な艦として有名で カタログスペックの実現も困難で速度は出ない舵を切れば遅くなる 主砲を発射すれば艦橋に被害が出る。 中心部の3番4番宝塔は艦橋や煙突が邪魔で運用が困難とさんざんで 完成後も改装に次ぐ改装で太平洋戦争がはじまると戦争に使えないと 判断され開戦後は2艦とも練習艦に格下げされた使い物にならない 軍艦を切羽詰ったレイテ湾への乾坤一擲の反撃作戦に用いられたのでした。 山城 1944年10月25日午前3時ごろより スリガオ海峡にて米駆逐艦の魚雷2発と米戦艦及び巡洋艦より 4000発もの砲弾を発射され数十発以上が命中し 弾薬庫が爆発、午前4時15分頃艦長は「総員脱出」を 命じるものの僅か2.3分で転覆し沈没。 生存者 2名〜10名。 扶桑 山城と行動をともにしており同日、午前3時過ぎに米駆逐艦の 魚雷攻撃を受け魚雷4本が命中、(1本〜2本の命中説も)し 弾薬庫に引火爆発船体が真っ二つに割れ艦首部が午前4時20分頃 沈み、艦尾部分が午前5時31分まで浮いていたらしい。 生存者ゼロ。 注 西村艦隊は山城、扶桑の他重巡最上、駆逐艦3隻が沈没しており 4000名前後が戦死し30数名〜80名前後が米海軍の捕虜に もなってるようですが。。 こうしてみると山城の場合最後は転覆でもあるので生存者が少ない 理由は理解できるのですが扶桑の場合の生存者ゼロは納得いきません。 魚雷が当り艦が真っ二つに割れても前部・後部ともに1時間以上は 海上に浮いたままだったのでしょう? ゼロっておかしくないですか? とにかく扶桑については証言も全くありません。 つまり山城と扶桑には2600人以上が乗艦しており生存者は 2名?〜10名?前後なんて世界の海戦史上ありえませんね。 もちろん艦から海に投げ出された人も数百人はいたでしょうか。 一説によると海戦が終わって米艦が救助しようとしても日本の 水兵達は拒み自沈したとか、この海域は鮫や鱶が多かったとか 陸地に泳ぎ着いた乗員はフィリピンゲリラの殺されたとか? 最終的に上陸後から終戦の間に餓死(病死)されたとか様々な 憶測も飛び交います。 フィリピンは陸戦でも日本人が一番死んだ戦場ではありましたが。 でも米艦は波間に漂う日本海軍将兵に銃撃をくわえなかったでしょうか? ただ1艦だけ地獄の戦場から脱出できた駆逐艦時雨は行きも帰りも 扶桑の波間に漂う扶桑の乗員を見なかったのでしょうか? 全滅した西村部隊の後に扶桑・山城が炎上中の戦場に到達し自信喪失で Uターンした志摩艦隊は西村部隊の溺れた水兵らを連れ出す事は不可能 だったでしょうか? ともかく山城・扶桑を除く日本の9戦艦の生存者率が34%であるのに たいし、山城・扶桑の生存者率は0.3%と100倍も低いのです。 山城の2〜10名とされる生存者も殆どが米艦に救い上げられた 捕虜の方のようでその意味合いからも証言は少ないものと思えますが。。 山城・扶桑両艦の将兵がそれ程、死に淡白であったとも思えないのです。 本当に扶桑は生存者は皆無なのでしょうか? 誰かこの謎を説明した書物やネット記事、山城の2名〜10名とされる 生き残り経験者達の手記などご存知な方がいらっしゃるなら匿名でも 構いませんのでコメント欄に教授願えませんでしょうか? ブログ村の「近代 明治 大正 昭和」にエントリーしております。 https://history.blogmura.com/his_meiji/index.html |

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追伸、、、自分の曾祖父は扶桑に乗ってたそうです。
2017/4/21(金) 午後 11:32 [ たくやん ]
> たくやんさん
おはようございます。
全然無問題です。
いつでも書き込みはご自由です。
曾祖父様は運もよく心身も鍛えぬかれて
いたからこそ生還できたのでしょうね。
コメントありがとうございました。
2017/4/22(土) 午前 8:07
naomoe3さん、曾祖父がさっき亡くなったのですが、最後にもう一つ語ってくれました、魚雷が数本命中したとき船体に亀裂が入っただけで折れなかったみたいです、、、
でも、史実上折れたと書いてありますね…実は船体が折れたのは自滅だったと言っていました。
亀裂が入って砲撃長?が「おい、○○ちょっと見てこい」と言ったので見に行ったそうです。 そして曾祖父は亀裂を確認し、砲撃長に報告しようと思い甲板から持ち場へ戻ろうとしたとき、アメリカの駆逐艦の砲撃が前方甲板に命中、碇固定装置が破壊され、碇が落ちたそうです。そして激しい揺れとガンッ!!と言う音と共に船体が真っ二つに折れたそうです。 この事を認識できた乗組員は少なかったと思います。
最後に曾祖父が残した言葉は、、、「扶桑、私の誇りだった船、○○(俺の名前)この事を忘れんでくれ、、、」その後数秒の沈黙の後、亡くなりました…
追伸、、、なぜ曾祖父が持ち場を離れる事が出来たのは腕を痛めて装填手を交代していたからだそうです。
2017/4/22(土) 午後 8:38 [ たくやん ]
> たくやんさん
おはようございます。
私も扶桑は真っ二つ、山城は大爆発と叢書の内容を
信じていた時期がありましたが微妙に違うようですね。
戦場から脱出した駆逐艦時雨の艦長や乗員の見た都合の良い
記憶を元に真っ二つ説が通説となったのかもしれません。
曾祖父様のご冥福をお祈りいたします。
2017/4/24(月) 午前 7:13
初めまして。ヤフーブログでのコメントが初めてで勝手がわからず、何度もコメントが届いてしまいましたらすみません。
数年前訪問でお会いした方に、扶桑に乗っていたというおじいちゃんがおられました。
当時もう90代になられてましたが、お元気で健脚、また非常に記憶力が良かった事を覚えています。
二番砲塔での装填手をしていらっしゃったのと、エピソードが酷似しているため、(船は二つに折れてない)もしかしてたくやんさんの曾祖父様と同じ方では?と思い、コメントしました。
曾祖父様のご冥福をお祈りいたします。
2017/4/27(木) 午後 7:54 [ kinoko ]
> kinokoさん
コメントありがとうございます。
たしかに生き残りの方は少ない
ですから重複されてるかもしれませんね。
2017/4/29(土) 午後 2:48
たくやんです。あれから戦艦扶桑以下西村艦隊の事について資料館であさって来ました(三重県伊勢市)
そこに書いてあった情報を書かせて頂きます。(この情報は生存者三名と当時のアメリカ駆逐艦の乗員の記録らしいです)
山城、単縦陣にて先頭を航行中、依然として電探に感なし。 数秒後、対水上戦闘の放送、アメリカ駆逐艦「ルーズヴェルト ロッキーズ」の主砲弾(アーマーピアシング弾)五発が第六砲塔、および第二砲塔に命中いずれも貫通し、装填された弾薬に引火、以下砲塔爆発四散。
扶桑、上の出来事で砲弾および魚雷多数命中。船体亀裂により崩壊。第三および第四砲塔付近で折れた。
という記録が残っているっぽいですね。
長文失礼しました。情報のお力に添えれれば光栄です。
kinokoさんの言っている事について、自分の曾祖父と交代をした方では?
それか、弾丸と火薬の装填手ということも予想できます。
自分はこれにて失礼します。
二回目ですが、長文失礼しました。お力になれれば嬉しいです!
2017/6/29(木) 午後 10:29 [ たくやん ]
> たくやんさん
こんにちは
調査いただきありがとう
ございます。
米駆逐艦の魚雷以外にも豆鉄砲で
粉砕されたとは口惜しさがつのりますね。
2017/7/2(日) 午後 1:19
どうも。
いくら不良艦とはいえ、確かにおかしい生存率ですね。生存者0は信じ難いです。
自分の祖父は軽空母に乗っていたらしいですが、詳しいことは分かりません。戦争を生き延びて、自分の生まれる少し前(1990年くらい?自分は2002年生まれ)に糖尿病で亡くなったらしいです。左右どちらかの脚を大怪我しながら帰ってきたそうです。今ではなかなか信じ難いことも、あの太平洋戦争のことです、やはりあの頃は有り得たのでしょうかね…。最近、スリガオ海峡で「山城」「扶桑」「最上」他旧日本海軍艦艇が海底で見つかったらしいですが、追悼の気持ちを送るくらいしか、自分にはできないと…。
やはり、平成生まれの高校一年にはちょっと難しいです。未だに戦争の発端も完全には理解しきれてないですし、先の戦争のこともあまり詳しくありません。
でも、後の日本にこの戦争のことを忘れさせないよう、あなたのように自分も調べていきたいと思っています。
2017/12/7(木) 午前 8:31 [ sta***** ]
> sta*****さん
はじめまして
お若い方からコメント貰えてうれしいです。
先の戦争の原因は難しく単に近衛や東条英機が
悪すぎた等では納まりませんし、様々な事が複雑に
絡み合って戦争に突入していきますが、政治家主導でなく
官僚任せの無責任さではじめて負けてしまった戦争である
ような気がしております。
最近のニュースの2戦艦の艦内には御遺骨が
たくさん残ってるのでしょうね。
国家として国に命を捧げた人の遺骨を艦内から
帰国させて欲しいと願います。
2017/12/8(金) 午前 7:35
午前 7:38の内緒さん
はじめまして
コメントありがとうございます。
コメントありがとうございます。
他の方からのコメントにも生存者の事が
よくかかれています。
実際には2戦艦の生存者は10名以上は
存在するんでしょうね。
捕虜とかになると生存者として日本側で
カウントされてなかったのかもしれませんね。
2018/2/8(木) 午後 6:54
亡くなった父から聞いた話です。父の兄は扶桑とともに沈んだのですが、この時の状況を父は扶桑の生存者の方から聞く機会があったようで、父の兄は助からないような場所にいたという詳しい状況を聞かされたという話をしていました。彼の母親である私の祖母が亡くなった後に聞かされた話だったので戦後かなり過ぎてからのことになります。
2018/8/3(金) 午前 2:19 [ mik*k*92*1 ]
> mik*k*92*1さん
叔父様は扶桑に乗艦されており
本海戦で艦ととも沈まれたのですね。
叔父様の配置が判りませんが
艦の底の機関や弾薬庫付近の配置ですと
艦からの脱出は困難なんでしょうね。
コメントありがとうございました。
2018/8/3(金) 午前 7:03
今日、戦艦『比叡』が海底で見つかった事がニュースで放送されているのを聞き、『比叡』と言う京都の地名に連想して、そう言えば、半世紀近く前の大昔に大学の同級生から戦艦『山城』か『扶桑』に父親が乗っていて撃沈されて運良く助かった話を聞いた事を思い出した。当時、戦記に関心を持っている私に彼が話してくれたのだが、戦艦『山城』だか『扶桑』だか聞いても知識不足でピンと来なかった事を覚えている。
今日改めて調べて見ると、両戦艦は有名なレイテ沖海戦に絡んで参戦して、戦艦『武蔵』がシブヤン海で撃沈された翌日に、揃って撃沈されており、私の同級生と同じ姓の方が『扶桑』での戦記を残しているので、多分、彼のお父上だと非常に驚いている。そして1,300人で僅か数人程度の生き残りの一人だった事も驚きであり、生還をして後に私の同級生を世に送り出した事は奇跡だと今感慨に耽っていところである。
2019/2/7(木) 午前 0:32 [ GAO ]
> GAOさん
はじめまして
私も昨日ニュースで発見された事をしりました。
艦内には御遺骨が多数眠られてるでしょうね。
はやく引き上げて欲しいですね。
コメントありがとうございました。
2019/2/7(木) 午前 8:06
戦艦 山城 砲手 で耳が 遠かった。
ラバウルで終戦・戦後2年で帰還
ラバウルで 大変だったでしょうと聞くとバラバラと
音を立てて涙を・・穴ばかり掘っていたと!爆撃から逃れるためと、戦友を弔うためと!私はそれ以上聞くことが出来ず、年の暮れに、亡くなりました。私31歳の時です
私はそれ以上聞けませんでした
2019/7/5(金) 午後 2:30 [ りっちゃん ]
追伸 父は 海軍 下士官 戦艦山城 戦後警察予備隊から、厚遇で何度も勧誘されたそうですが、頑として断り
母はこぼしていました。父の出撃の時は、極秘なので、
母に手を引かれて 横須賀のトンネルあるく後ろ姿ずーと見てました。山城乗艦した父がラバウルで終戦。聞きたかった。
2019/7/5(金) 午後 2:51 [ りっちゃん ]
> りっちゃんさん
コメントありがとうございます。
お父上様も砲手やラバウルの守備や地下道堀
でご苦労されたんですね。
何故山城から陸上に移ったのか謎ですね。
このブログは本年12月でyahooさんの都合で削除されますが
どこかに移転いたしますので宜しくお願い致します。
2019/7/5(金) 午後 6:06
> たくやんさん
私の曾祖父も扶桑に乗っていたそうです。生き残りだとか、、、
2019/8/22(木) 午後 11:10 [ あめちゃん ]
> たくやんさん
私の曾祖父も扶桑に乗っていたそうです。生き残りだとか、、、
2019/8/22(木) 午後 11:11 [ あめちゃん ]