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歴史学習妄想的メモの31話となりますが、今回は
10年前に書いた記事の焼き直しの投稿です。
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日本での近代登山の父は19世紀に来日した宣教師Wウエストン(英国人)
と多くの書物で紹介されている。
たしかにウエストンは明治21年(1888年)から15年間日本に滞在し
勝手に日本アルプスと命名したり南北に区分けしたり、穂高、槍ヶ岳、等にも
初登頂した。
しかし槍ヶ岳は江戸時代1824年に日本人僧の播隆が宗教的情熱から粗末な
登山装備ながら初登頂を成し遂げていたのである。
ウエストンの来日時期に困難で登頂できなかった代表的な山が北アルプスの
剱岳(つるぎだけ)である。
ウエストンが去った20世紀に入っても剱岳は地元でも未登峰とされていた。
この当時一番先鋭な山登りをしていたのが陸軍参謀本部陸地測量部
(以下陸軍測量部と記す)であった。
登山目的は地形図作成(もちろん戦争目的)に必要な三角点の高所への設置が主であった。
陸軍測量部内でも剣岳(2.999M)登頂は困難と思われており実際に
三角点を設置しても雲より高すぎて視界が得にくく測量の実用性のない
場所とされていた。
剱岳 (徳島の剣岳とは違います)
しかし民間団体の、日本山岳会の発足で状況が変わる。
日本山岳会は陸軍測量部が登り残していた「剱岳」の初登頂を会の
目標にかかげ陸軍測量部に果敢に挑戦してきたのである。
陸軍参謀本部も日本山岳会に先を越されては「軍の面目丸つぶれ」と熱くなり
ベテランの柴崎測量官を隊長にかつぎ、山岳会と登頂を競いあった。
どちらも中々登頂できなかったが1907年7月に残雪を上手く利用して
陸軍測量部が初登頂に成功した。
しかし、喜びも一瞬で頂上には大昔のものと思われる錆付いた鉄剣と銅製の
錫杖が置かれていた。
また古い焚き火跡もあったという。
つまり、柴崎芳太郎らが初登頂ではなく、大昔(8世紀頃)山岳密教の関係者
達により登られ「開山」していたようなのである。
この貴重な2点の遺物は立山博物館に今でも展示されているらしい。
実は8世紀の日本は空海らによる山岳密教が最も盛んで、当時世界でも最大かつ
空前の登山ブームであった。
しかも登山隊が1グループでは無く数グループ以上が存在したようである。
槍ヶ岳、北岳、富士山らの高山だけでなく英彦山、大山、大峯、鳥海山、
等100名山クラスの見晴らしのよい山は登られて開山していたのである。
そう考えれば戦国時代の佐々成正の北アルプス越えも先人の伝承等を利用
できれば納得もいくのである。
余談だが私も1992年夏に剣岳に登頂し本峰南面のカニのタテ這い・ヨコ這い
と呼ばれる難所である鎖場でかなり苦労したのであった。
(日本百名山の「剱岳」を目指す方は年齢の若いうちに登られたほうが良いと
思います。)
尚、山岳関係者によると「つるぎだけ」は「剣岳」は駄目で「剱岳」らしい。
私はそこまで山岳会が言うのなら北アルプスとか言わずに「飛騨山脈」
「木曽山脈」と呼称してほしいと思うのでありますが。
洋風かぶれの山岳会には問題意識はない様子です。
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