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1943年(昭和18年)6月8日、瀬戸内海柱島泊地で戦艦陸奥が爆発沈没した。
乗員1121名が犠牲となった。
当時、ちょうどアッツ島(アリュ−シャン列島の一部)で初めての玉砕と時をおなじく
したため 国民の士気の低下にかかわるとして戦艦陸奥の沈没は極秘とされた。
爆発原因は、今も謎だが、一瞬の爆発轟沈から火薬庫の爆発と推定された。
しかし海軍の調査や実験の結果、自然発火説は消えた。
嫌疑は、艦内で度々発生した盗難事件の容疑者であるある1水兵にむけられた。
その水兵の分隊長(水兵の上司)が盗難事件の調査結果を副長に報告し、
後の取り調べを鎮守府法務部にゆだねるために上陸中に爆沈事故がおこった。
この水兵の死体だけは、どうしても発見できなかった。
この説が真相であるならば、事件を起こした水兵の罪は、とてつもなく大きな罪であるが、
根本原因は、火薬庫の管理不備や軍艦という巨大な密室内での極端な身分差別?
にもあったのではなかろうか?
陸軍の士官候補生は兵の階級から一歩を踏み出す。
しかし海軍兵学校の生徒は入学したときから下士官の上位、に位置づけられる。
つまり海軍将校は、出だしから下士官、兵と無縁なのである。
この身分的差別の構造をもった巨大な密室の中で、陸軍にまさるともおとらない残虐な
私刑を伝統とする軍紀(風紀)の重圧に押しひしがれた下士官、兵のただひとつの
最後の抵抗が、火薬庫への放火による艦との無理心中であったかもしれない。
(エースパイロットの坂井三郎氏や羽切末男氏も水兵時代に制裁(リンチ)を受け
それが厭で堪らずパイロットを志したという。)
ともかく期待された戦艦陸奥は戦局急なときに敵に一発の砲弾も放つことなく周防灘に沈んだ。
事実、日本海軍では過去にも戦艦三笠(日本海海戦の旗艦)は2回(1905年と1912年)
の爆発事故を起こした。
1回目は、上陸を許されなかった古参水兵が、盗み出したアルコ−ル容器を弾薬庫で倒し、
流れ出たアルコ−ルに火がはいったのが原因という(沈没着底後後引揚上て修理)。
2回目は照準器を紛失した1水兵が処罰をおそれて火薬に点火したのだった。
1917年には、国産初の巡洋戦艦筑波も爆沈。
(上官の制裁を怨んだ1水兵が火薬庫の鍵を盗んで放火)。
1918年戦艦河内が爆沈(職務上の失策をした下士官が火薬庫に放火)。
このように昭和19年までは、戦闘で沈んだ戦艦より、
乗員の放火による爆沈のほうが多いことが判明してくるのである。
(昭和18年9月時点で戦争で沈んだ戦艦は、比叡、霧島の2艦のみ)
海軍は、装甲板を厚くする等の防御力向上よりも、水兵らによる
火薬庫爆破を防ぐための対策や人事マニュアルを策定すべきであった。
尚、日本海軍には酷な話になるが米海軍は平時も戦時も航海中は水兵にも
士官にも酒は飲ませないようにしている。
戦艦陸奥は、大和級(6万4千t)に次ぐ長門級(4万3千t)の2番艦と
して大いに期待されたが、戦局重大なこのような時期にこのような疑惑に
包まれた沈みかたをしたことに、日本海軍がある意味内面からも自壊しつつ
あった事を知ることができる。
当時大和級戦艦は、国民には全く知らされておらず、長門級の長門と陸奥の
両艦が国民に一番知名度のある軍艦であった。
残った1番艦の長門は、レイテ島沖海戦でも活躍し、その後呉軍港で防空砲台として活躍,
無事に終戦を迎えたが、戦後ビキニ諸島での米国核実験により被爆沈没した。
沈没した陸奥は戦後(爆沈より27年後)引き上げられ陸奥資料館が
平成6年山口県周防大島に開設された。
平成8年10月私は山口県周防大島の陸奥記念館を訪ねた。
観光客も少なく、館員もやる気が見えず、館内資料も思いのほか少なく
20分ほどで早々に退散した。
写真 当時の陸奥絵葉書と現在の陸奥資料館
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