|
中部太平洋トラック島とパラオ島のちょうど中間にあるメレヨン島は、
米軍がパラオのペリュリュ−島に上陸(1944年6 月)して以後、戦線の背後にとりのこされた。
海抜0.5−3メ−トルの珊瑚島10数個からなる環礁で、地下水は、塩分を含み、
デング熱等の伝染病が多発した。
ここに、海軍は、コンクリ−ト舗装の滑走路を持つ飛行場を建設した。
メレヨン駐留部隊は、陸軍が北村勝三少将を長とする独立混成第50旅団の3205人、海軍が宮田嘉
信大佐が司令を兼ねた第44警備隊と第216設営隊を中心に3221人、合計6426人であった。
補給が絶えた孤島の珊瑚礁で自活のための農耕さえままならず、とてもこれだけの人員が食べて
いく方法が無かった。
敵にも味方にも見捨てられたこの島は、終戦時に生き残って日本の土を踏んだものは、
軍786人、海軍840人、合計わずか1626人、死亡率、実に75%であった。
陸海軍合計で約4.800人が死亡したことになる。
空襲等による戦死者は、307人(死者の7%弱)であったが、栄養失調、伝染病等に倒れた死者は、
4493人(死者の93%)にも達した。
味方から食料の補給も受けることができず、敵に降伏する事も許されない現地部隊に罪はあったろうか。
敵への降伏、脱出、救助、補給等何も命令を出さなかった軍中央の責任であろう。
海軍側には、正確な記録はないが、陸軍の北村旅団については、階級別の内訳がわかっいる。
将校 188人中 戦死5人 戦病死57人 生還者126人 死亡率33%
下士官 554人中 戦死20人 戦病死319人 生還者215人 死亡率61%
兵 2463人中 戦死107人戦病死2018人生還者445人 死亡率82%
この数字は、飢えは、兵に厳しく、将校に甘いことを示しているのだろうか?
しかしこの島では、将校が、特権的に食料を占めたわけでも、労力的に楽をしていたわけでもない
という。
全員、栄養失調なのに、米軍への降伏にあたって米軍側が感心したほどの整然とした行動をとり、
復員して九州に上陸したのちも最後まできちんと事務処理をすませ、復員部隊の模範とされた。
詳しい統計資料が残されているのもそのためであるらしい。
この生き残り数字がしめす階級差としかもなお部下の信頼と上官に対する献身的な態度
(終戦時、上官に逆らう部下が多く出た)を最後迄ゆるがせなかった北村少将の統帥との矛盾を
どう理解すればよいのだろうか。(ニューギニア第18軍の安達中将に似ている)
復員業務、部下の遺族への弔と報告などを終えた北村少将は、1947年8月15日
(終戦より丸2年目)部下の死の責任をとって自決した。
1945年8月15日の終戦から一月の間に、自決した指揮官は、かなりいるが、2年も経過して
自決とは、常人ではない精神力と思う。
普通の人間なら一時は、死のうと考えても、2年も経過し世の中平和になってくれば本人の気も
変わるであろう。
何故、2年後の8月15日に自決したかはは、他の責任を取らなかった高級軍人に対する批判もあった
とものと思われる。
尚、海軍の宮田大佐も1946年7月18日に自決していた。
もしかして北村少将は宮田大佐が自決した事を風評で聞き自決の決心を強めたのだろうか?
本来、責任は、現地の部隊指揮官よりも事前調査もろくにせず部隊配置後の補給、孤島化したときの自
給体制等を策定すべきであった大本営参謀達にあった。
メレヨン島以外にも日本軍は、太平洋の無数の島々に多数の守備隊を異常なほどに配置した。
(人的資源は無限と考えたのか)
おもなところで
守備隊人数 備考
ニュ−ブリテン島 約10万人 昭和19年以降米軍素通り、遊兵化 生存約9万人
ソロモン諸島 約 6万人 昭和19年以降米軍素通り、遊兵化 生存約2万人
ニュ−ギニア 約15万人 米、豪軍に敗れ、内陸部で自活 生存約1万人
フィリピン諸島 約52万人 米、比ゲリラに敗れ山中で自活 生存約4万人
アッツ、キスカ島 約 9千人 アッツ島玉砕、キスカ島撤退 生存約6千人
千島列島 約 3万人 昭和20年8月ソ連と戦闘 生存約2万人
マ−シャル諸島 約 3万人 昭和19年米軍上陸、玉砕 生存約1千人
マリアナ諸島 約 7万人 昭和19年米軍上陸、玉砕 生存約2千人
パラオ、メレヨン 約3万人 米軍上陸なし 餓死者多 生存約4千人
小笠原、硫黄島 約4万人 昭和20年硫黄島玉砕 生存約1万人
インドネシア 約10万人 米、英軍上陸せず 生存約9万人
台湾 約15万人 米軍上陸せず 遊兵化 生存約14万人
沖縄 約7万人 昭和20年米軍上陸、玉砕 生存約1万人
小計約 配置合計134万人 生存合計約44万人
上記の守備隊を配置したが、実に恐ろしくなる配置者数と生存者数である。
守備隊配置数から生存者数を引いた残りの数が死者数とみてほぼ間違い無い。
(ガ島、キスカの撤退は昭和18年前期のことで19年以降の計画的撤退は無い。)
上記の主な離島に130万人以上の兵士を配置し1−2年して終戦を迎えた時には、
約44万人(殆ど栄養失調や病人)しか残らなかったのである。
約90万人が死んだが戦死、戦病死は、3分1で3分の2は、飢え死、や病死である。
(私の、母方の祖父もフィリピンのルソン島で行方不明終戦後、戦死と認定された。)
部隊をかくも配置していた理由は殆どの場合、飛行場の防衛の為であった。
攻める米軍、豪(オ−ストラリア)軍は、合わせても50万人程の陸上兵力しかなかったが、
日本軍の分散配置の弱い処にいつも兵力を集中して占領する事が可能であった。
(ラバウル、インドネシア等の日本軍守備隊の強大な島には、上陸してこなかった。)
よく、日本軍は、米軍の物量に負けたと聞かされるが、兵士の数においては太平洋正面では
米軍の2倍以上あった。
しかし分散配置しすぎ、補給も続かず各個撃破され敗れたと見ることができる。
後知恵だが、ニュ−ギニア、ニュ−ブリテン、フィリピンには、あれほどの大兵力を置く
必要はなかった。
特にフィリピンは、石油等の資源もなく占領する意味もなく、早く独立を認めて飛行場、
軍港だけ日本軍に貸し与えてもらうようすべきであった。
昭和20年以降、本土決戦の時間稼ぎのためにフィリピン、沖縄で兵士達は、血を流し散っていった
がこのような50万以上の兵士の犠牲にも拘わらず、稼いだ時間は、半年分ほどであった。
もちろん私は本土決戦論者ではない。
ここではっきりしておきたいことは、大本営の参謀達が強がりを言わず(時間稼ぎせず)に半年前
(昭和20年2月迄)に降伏していれば、フィリピン、硫黄島、沖縄で50万の兵士は助かり、
悲惨な世界戦史上な尤も愚劣な特攻(死者約1万人)もせずに済み本土爆撃(死者20万人)
原爆投下(死者10万人)、ソ連参戦による満州、朝鮮、樺太、千島列島の占領
(ソ連軍に抑留後の死者約8万人)も受けずに済んだものと思う。
つまり日本は半年早く負けて(降伏して)いたら約100万人ちかくの国民は助かったはずである。
実際、昭和19年6月のマリアナ沖海戦に負けて以来、参謀達も米軍に勝てる見込みは、
全くないことを知っていた。
にも拘わらず、戦時中でも居心地のよい自分達軍隊の上層部(組織)と自分を守ろうとして、
終戦対策は、何もせず逆に一億総特攻化を推し進めつつあった。
大本営の参謀達は、当時で最も頭のいい人の集まりだった。
普通、勝てないと判ったときに自国の犠牲を少なくするために早めの降伏を考えてもよさそう
なものだが彼らは自分たちの組織保全の為、無視した。
降伏に導いたのは、天皇を中心とする皇室と外務省の一部の人達である。
軍人に政治を任せたからこうなったといえば簡単であるが、任せた無能な政治家
(軍人の言いなり)や選挙で軍人を当選させた国民にも落度はあった。
連合国による日本に対する軍事裁判(極東軍事裁判)は、行われたが、日本人による、軍人、
政治家、資本家に対する国民的な裁判は、全く行われず歴史に消えさろうとしている。
(今でも国民問題にならない)
現在も、頭のいい人(学歴優秀者)は、多くは官僚になっているようである。
最近、無能な政治家(官僚、省庁の言いなり)が戦前のように増えてきているが 、
官僚達は、本当に国民の為を思って政策の策定にあたっているのだろうか。
私は、官僚に今求められる能力は暗記力や自己保身能力ではなく、前提懐疑力(とんち力)と
時代の変化を先取りできる柔軟性、国民への思いやりだと思うのだが、、、。
よく、企業は、生物(ナマモノ、動き早い、変化も早いが腐り(倒産)やすい)
、官庁は干物(ヒモノ、変わり難い、腐り(潰れない)にくいといわれてきたが干物の発想で
これからも世界と勝負していけるのだろうか。
|