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米軍の日本本土空襲や原爆投下は広く知られているが
戦争末期に日本本土に行われた艦砲射撃はあまり知られていない。
戦争終盤のこの時期(昭和20年6月〜8月)沖縄戦も終わり
本土決戦も迫りつつあった。
日本軍は本土決戦に備え特攻等の攻撃を控えつつあったがそれを
逆手に取り米戦艦部隊は日本本土を 荒らしまわった。
終戦が近い事を察知した米海軍上層部が空母の脇役(空母護衛というフンドシ担ぎ)
になっていた戦艦部隊に最後の活躍の場を与えようと企画されたのかも知れない。
以下米軍による艦砲射撃(すべて1945年)
7月14日 釜石市 発射砲弾2565発 死者860名
7月15日 室蘭市 死者387人、重傷者105人、行方不明者15人
40センチ砲弾860発 米戦艦3隻
7月17日 日立市 米戦艦5隻、英戦艦1隻 発射砲弾530発
死者411名 負傷者373名 行方不明9名
7月29日 浜松市 発射砲弾数不明 被害不明(度重なる空襲との合計死者約3000名)
米戦艦、英戦艦が砲撃
7月31日 清水市 駆逐艦7隻から僅か4分間に12.7センチ砲弾1044発発射
死者44名 長らく潜水艦からの砲弾発射と思われていたが最近の米側
資料で駆逐艦からの砲撃と明らかになる。
射程は16キロの為海岸から14キロ以内に接近したと思われる。
8月9日 釜石市 発射砲弾 2781発以上 更に米戦艦に加え英戦艦も参加
7月14日に続く2回目の砲撃
これらの砲撃で少なくとも死者だけでも3000名以上に達している。
これら攻撃(艦砲射撃)の共通点は戦艦を中心とする大型艦が沿岸30キロ以内 まで
近接して製鉄所等のある工場地帯を狙った事である。(清水市のみ駆逐艦による砲撃)
又、日本側の共通点はすべて奇襲を受けている事である。
毎日、策敵機がでて米機動部隊を追い求めていた事になっているが、、、、。
海岸まで30キロに近接した米戦艦を捕捉できなかったとは。
8月9日2回目の釜石市砲撃は直前に日本がポツダム宣言を受諾した事(日本降伏)を
米戦艦の乗組員達は末端の水兵達まで知らされていたが砲撃は予定通り実施され、
複雑な表情で見守る水兵もいたという。
陸海軍とも本土決戦に備え航空部隊の出動を見合わせたとも聞くが本土が砲撃されたのに
有効な反撃が出来なかった事はレーダーの有る無しだけでなく日本全体の通信連絡網が
劣悪な状態になっていたと想像される。
1940年のバトルオブブリテンで英国がシステム化した警戒レーダー、情報収集
迎撃指揮、をまとめた管制指揮センターのような物を1945年の日本では創れなかった。
尚、日本軍による米本土への直接攻撃は開戦当初の潜水艦による砲撃(僅か十数発)
昭和17年秋の潜水艦搭載の小型水上機による2回の爆撃、昭和19年秋から年末に
かけての初の大陸間弾道弾(?)風船爆弾による攻撃だけだった。
これらの攻撃による米人死者1〜3名前後と思われる。
現在、日本はアメリカと友好関係にあるが歴史上日本人を一番殺傷した国は
紛れもなくアメリカ合衆国である。
「鬼畜米英」とまで吼えていた敵国アメリカが何故、戦後すぐ最大の友好国化したのか
アメリカの洗脳か、日本人の民度の低さか、日本人の武人から町人化(奴隷根性)か?
私には未だ解らない、、、、、。
しかし、今私が思うことは、戦前の日本を100%肯定する気は全くないが
昭和20年までは海軍はともかく多くの陸軍の指揮官(将官)は兵士と共に戦い、
逃げずに戦死(玉砕)した。
これらは当時の国民にいい意味で敗戦まで感動を与え続けた。
しかし戦後、の戦史本で戦いの実相や大本営発表の誇大表現が判明すると如何に馬鹿な作戦、
馬鹿な指揮、阿呆な精神主義の結果、多くの兵卒や国民が無駄死にをした事を知った
日本国民は深刻な「同胞不信」に陥った。
今後は馬鹿な上官の命令での無駄死には真っ平御免だと、、、、。
その「同胞不信」は現在も続いており「憲法」や「自衛隊」の意見分裂が国民的
合意に達することはない。
アメリカや中国は戦後も日本人に「心理戦」を仕掛けており「同胞不信」を継続させ
日本の国論統一を牽制、妨害しているように思えてならない。
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