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1905年日露戦争に勝った日本の仮想敵国は遥かに遠い太平洋の向う側アメリカ合衆国となっていた。 アメリカ側でも日本のロシア・バルチック艦隊の壊滅に驚き海軍力強化に乗り出していた。 アメリカも当時は植民地獲得に積極的な国で、メキシコ、アラスカ、ハワイ、グアム、 フィリピン、中国への進出や植民地化を目論んでいた。 事実、20世紀初頭、海軍力の整備増強を一番活発に行なった国は米国だった。 パナマ運河の開通も視野にいれ世界一の海軍国を目ざし、怒級戦艦も1904年から 1907年にかけて11隻も自国建造した。 落日の大英帝国、日露戦争に疲弊した日本をこの時期すでに海軍力で凌駕しつつあったが、 セオドアルーズベルト大統領(元海軍次官)は完全な海軍狂であり自分の創りあげた 世界一の艦隊で世界周航を企画し「アメリカの力」を全世界に誇示したいと考えていた。 新造された戦艦、巡洋艦16隻からなる大艦隊を4次に渡り世界周航させた。 当時の米軍艦は白い塗装が用いられこの大艦隊は「Great White Fleet=白い大艦隊」と称された。 1908年第三次航海では威圧外交、軍事威嚇、日系米人排斥問題解消等の 目的で日本を訪問した。 実は日本に何の通告も無く突如米西海岸で演習中の米海軍主力艦隊が日本めざして 太平洋を横断してきたである。 まさに「砲艦外交」であった。 日本側では日露戦争にアメリカが講和を計った事から19世紀の黒船ならぬ 20世紀の「白船」として国民一般には好意的に受止められるように親善ムードを演出した。 後の第二次大戦での米海軍ハルゼー提督は当時少尉ながらこの艦隊に乗り組み 日本に上陸し「白船」歓迎ムードのなか東郷提督のスピーチを聞いたという。 だが日本の海軍軍人達は19世紀の「黒船」に次ぐ二〇世紀の「白船」を嫌悪し コンプレックス、敵愾心を抱き続けた。 事実数年で戦艦を11隻以上自国建造し全艦機関無故障で渡洋した「白船艦隊」に敵わない と感じたのではないだろうか? ちなみに日本は1910年戦艦薩摩が自国完成するまで主力艦は三笠等ほぼイギリス製 (輸入)であった。 白船来航で日本海軍は米海軍は日米戦争がはじまると必ずは日本に渡洋してくる と勝手にトラウマ(記憶火傷)となる。 日本海軍人達はこのコンプレックス解消の為に予算的に無謀とも思える 「八八艦隊」構想をぶち上げる。 しかし1914年、戦前最大の疑獄事件「シーメンス事件」が発覚し海軍上層部の関与や 収賄が明らかとなる。 結果、山本権兵衛(海軍出身)内閣は総辞職により汚職に関わった海軍人達はしばし 「サイレントネィビィ」と化すが第一次世界大戦で勝利国となった日本海軍は今後米国に 対峙するには「八八艦隊」は必要と再度力説し続けた。 その海軍人の怨念が実り大正期に国家予算の40%近い「八八艦隊」建造の承認を議会から取り付けた。 (八八艦隊=戦艦8隻、巡洋戦艦8隻からなる主力艦、実際には軍縮で長門、加賀、赤城、 加賀の4隻のみ完成、最終的に曲折を経て赤城、加賀は空母として改造) しかしワシントン軍縮条約で「八八艦隊」の建造中止、建造、設計中の12隻は建造中止と決まる。 左翼系の書籍では「シーメンス事件」による山本権兵衛内閣の総辞職の後は政友会に代わって政府系の 同志会が勢力を拡大し、陸軍の増強、対中国強硬へと進むことになる、、、、といった表現が多いが 陸軍も八八艦隊中断で浮いた予算を搾取した訳では無く三次に渡る軍縮を行なっていた。 (第一次大戦後の日本は今の人が想像するより実際に平和を目指していたのではなかろうか? この頃の軍人は休日は軍服はカッコ悪いので背広で歩いてとの記述が多い。 軍国主義に陥るのは昭和になってからではなかろうか?) 海軍人達は自分達の省益を第一義に考えて「白船来航」、を利用して国家予算を分捕ろうと 考えたのではなかろうか? (もちろんこの時点では戦って勝てない米国との戦争は本気で考えていない) 事実大正時代の海軍予算は陸軍予算を大きく越えていた。 しかしその後、昭和10年代(1930年代後半)より中国大陸での戦闘にのめり込んだ陸軍に 国家予算が海軍を超えて分配される傾向を示すと海軍人達は慌てだす。 このまま、「対ソ戦」が開始されると海軍予算は更に削られ、陸海軍統一構想(空軍化) 等の恐怖や「陸主海従」への流れから海軍が昭和15年頃から省益の為に米国敵視政策を とりはじめる。 このままでは予算は削られ、人員は減少し、超巨大化する陸軍に飲み込まれると 恐れたから海軍主導で戦える「対米戦」を本格的に研究する。 しかし研究の結果「堂々と戦っても勝てない」事が明白となる。 1940年からアメリカはさらに海軍の大拡張を行ないつつあり 1941年当時の日米海軍戦力比率を7対10とすれば1944年には 3対10に差が開く事も判ってきた。 (戦争を仕掛けるには1941年後半から1942年初頭が米国と戦いやすいと 考えてたのではなかろうか?、、、史実では1942年12月8日が開戦日) 確信的に海軍は陸軍の北進論(対ソ戦)を警戒し南方進出(ベトナム、海南島駐兵)を目指し、 米国が制裁措置の石油禁輸をはじめると持っていたシナリオ「南方資源確保=英蘭戦争」を 考える、しかしそれでも更に予算を削られると危惧した海軍は同じく省益減少に悩む外務省 とグルになり「真珠湾攻撃=対米戦争開始」のシナリオ(真珠湾奇襲=不意打ち)を 「禁断の机(ルール違反作戦計画書)」の引き出しから出してしまったのではないだろうか? 右翼関連者はアメリカが日本に経済制裁を加えたから日本は自衛の為に やむなく立ち上がった、、、 とか言うが、日本海軍がそのような米国の動き(対応や制裁措置)を熟知しながら 「自己組織保全」の為日本国のバスのハンドルを握っていたのではないだろうか。 (添乗員は外務省?) 外務省については、国際連盟脱退以後各国との仲が険悪になり各国の出先大使館閉じたり 陸軍武官が駐在し陸軍の出先機関になりつつあった。 つまり外務省も海軍以上にリストラや陸軍に吸収されそうな雰囲気であった。 外務省は海軍と手を組み陸軍の「体ソ戦=陸軍幕府の登場=国家社会主義」を 阻止するために対米戦へと傾いた。 アメリカに派遣された外務省の野村大使(海軍出身)で米国の一部を信用させて、 外交を隠れ蓑に利用し「真珠湾攻撃」を策定した。 宣戦布告が日本大使館での暗号翻訳に手間取り「手交」が遅れたと云われるが 宣戦布告というより最後通告のような文書で外務省本省がワザと大使館の翻訳が 遅れるように複雑で長文の暗号書を送信していた。 仮に真珠湾攻撃より早く「手交」されてもアメリカの怒りは「不意打ち」と同様の 反応だったであろう。 リトアニアでユダヤ人6千人に救いの手を差し出した杉原領事は 終戦直後に外務省から解雇されたが、駐米大使館員達は開戦半年後、 交換船で早々と日本に帰り、戦後の「東京裁判」でも 被害者面し、駐米大使館員のほとんどが戦後大出世している。 参考文献 鳥居民 日米開戦の謎
猪瀬直樹 黒船の世紀-ガイアツと日米未来戦記
相沢淳 海軍の選択-再考 真珠湾への道
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