隣の海上自衛隊の呉資料館を見終えて4時45分程度だったのですが強行突入しました。
500円の入場券買おうとすると大和とも関係のある平賀譲の特別展が行なわれてます。
受付嬢は「それ程時間はかかりません」との事で800円の両用券で入場、特別展コーナー
に行くと私の興味をひく催しではなく僅か3分で退散、主目的の大和1/10モデル他を
10分間で写真におさめました。
大和については少し私なりに最近判ってきた事がありますので少し書いてみます。
@主砲
空前の46センチ45口径主砲ですが完成後2年程はよく主砲射撃で故障していたようです。
海軍は大和を戦場に出すのが遅れたとか謂われますが直ぐ故障ではしょうがありませんから
トラック諸島でお休みしていたのでしょうか。
昭和19年後半には改善されてよくなってようです。
しかし最後まで主砲9門の斉射(9門同時発射)はできなく6門+3門で発射したようです。
本来なら戦艦長門の40センチ45口径主砲の砲弾を使用できる実用的な40センチ50
口径砲を開発すべきでしたが英国仕込みのの巨砲製造技術では45口径までが精一杯だったようです。
これ以上長砲身化すると自重撓(たわ)み等の問題があったようです。
見かけの口径の数字を巨大化する事によって海軍予算も嵩上げしようと図ったのでしょうか?
空母だけでは海軍予算の要求額に届かない為、時代遅れとはいえ、史上空前の戦艦建造という
別枠予算確保を主張してい海軍は権力維持をも考えたのでしょうか。
大正時代の戦艦金剛の頃は議会にて建造数や予算が決められ国民は戦艦の名前も知ってましたが
大和は「秘密兵器」という括りで議会承認もえずに1億円3千万円もの巨額予算が海軍関係者の
意思だけで決まり国民にも知られずに建造された事には少し驚きます。
@沖縄出撃の経緯
昭和20年4月7日に沖縄地上軍を援護すべく沖縄に出撃途上に米艦載機の集中攻撃を受け
他の軽巡1隻、駆逐艦4隻とともに沈み人的被害も時間あたり3700名と沖縄地上戦にも
劣らず神風特攻隊並みの甚大な人的損害を被ります。
(米軍の航空攻撃の損害 墜落や使用不能機12機、戦死者10名)
特攻出撃だった事はまちがいありませんが「沖縄殴りこみ作戦」の作戦立案の経緯がよく見えません。
天皇陛下が「海軍にもうフネは無いのか?」と言ったからだとか、
「一億総特攻の先駆けになってもらいたい」と艦隊司令長官が軍令部に懇願されたとか、
陸軍や沖縄県民に協力するのはあたりまえであるとか。。。。
中途半端に軍艦が残存すると和平に傾きかけた海軍上層部としては困る。。。とか
取りざたされており、よくわかりませんでした。
大和の最後は無念でありますが、私が最近説得力があると思うのが米軍による
「機雷敷設による動機説」です。
米軍は海空軍の連携がよく3月19日米海軍艦載機により呉大空襲があり3月29日呉軍港を脱出し
徳山沖に抜けた大和は燃料積載後、九州南回りか関門海峡を通狭して佐世保か舞鶴に避難し、
機を見て沖縄に出撃か主乗員を陸上に降ろし防空砲台化が予定されていました。
しかし米空軍機B29が関門海峡並びに呉に戻る周防灘や呉周辺にに3月29日から4月3日
にかけ機雷を空中から敷設してしまいました。
つまり呉に戻る事も敵わず関門海峡も通れなくなり九州南方に抜け、沖縄に出撃するか佐世保か
朝鮮に一時的に避難する南方コースしか残されておりませんでした。
事実当初殴りこみに参加予定だった駆逐艦響は3月29日宇部沖で機雷に触れ中波し作戦参加
できませんでした。
4月4日になり急に大本営より大和に沖縄出撃命令が正式に伝えられ、4月5日草鹿中将が難色
をしめす艦隊司令長官の伊藤中将を説得し4月6日16時に徳山沖を出撃、米艦載機の攻撃を
受け翌日4月7日14時鹿児島県の坊の岬沖に沈みました。
事前準備や用意周到な計画ももなく急に無謀な沖縄殴り込みとなってしまい
艦隊乗組員は皆驚いた事でしょう。
でも動機はどうあれ戦艦大和以下10隻の残存艦隊が沖縄の地上戦を少しでも有利に導こうと
後世無謀とも言われる博打に出たことは事実です。
乗員の多くは沖縄県民を救おうと叉たどり着ければ艦砲射撃後、着岸後は艦を棄て
地上戦に参加しようとも考えていたと思います。
また大事な事ですが当時の状況下、重油が非常に不足する中において朝鮮、日本海沿岸を
結ぶ最後の航路帯を護衛する海上護衛隊の燃料を犠牲にしてまで大和隊の燃料にまわしました。
これ以後朝鮮〜浜田、舞鶴航路の護衛隊も充分な燃料が無く商船護衛もろくにできなくなり
呉軍港に閉じ込められた残り長門以下の艦隊も機雷除去が行われても日本海側に脱出する
燃料も残されてはいないのでした。
沖縄戦は悲惨極まりありません。
今でも「沖縄は日本の捨石にされた。」
「本土決戦の時間稼ぎに利用された」
と考える方も多くいらっしゃるようですしそのような考えも一概に否定はできません。
でも当時の日本国家が沖縄戦のために動機はどうあれ、大陸と日本本土を結ぶ
一番重要な最後の航路帯に細々と使用予定の燃料を犠牲(乗員や艦の犠牲もあります)
にしてまで沖縄決戦に参加すべく大和隊への燃料を最優先した事は後世に伝えられる
べき視点と私は考えます。
後、大和の主砲弾や対空武装の25ミリ機銃についても書きたいのですが
長く書きましたので少し疲れました。
又 時間があるときに書いてみたいと思います。
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