涅槃までの14万歩!ハッピーリタイアできない100kmウォーカー

2017年11月にタイトル変更・・・中身は変わりません。 ぷらっとして行ってください。

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海軍の特攻攻撃には多くの高官が関わりましたが戦後は
「自発的な志願攻撃であり命令では無かった。」というような
感想を残している海軍の関係者が多いように見受けられます。

特攻隊の責任をとったとされる責任者として大西瀧治郎中将と宇垣纏中将の名前が
よく上がります。
大西中将はレイテ島沖海戦時に特攻攻撃を初めた責任者、宇垣中将は沖縄戦当時
最大規模の特攻攻撃を指揮した責任者といわれ両中将ともに終戦時に対称的ながら
自らの決断で「死」を選択しています。
大西中将は1945年8 月16日に一人で割腹自決、宇垣中将は8月15日の
玉音放送後に列機11機を率いて沖縄に特攻出撃を行い還りませんでした。
潔く一人で自決された大西中将に比べ宇垣中将は若い部下達を終戦時に道連れと
したため私兵特攻ともいわれその評判は芳しくはありませんでした。

海軍は終戦までの10ヶ月間に航空特攻だけでも2000機以上その他
数多くの水中、水上特攻まで行いましたが戦艦大和の沖縄特攻を除けば将官クラスの
戦死はおりませんし、航空特攻でも佐官の戦死者が桜花特攻の野中少佐だけで
中佐や大佐、将官の戦死者は皆無です。

実は特攻攻撃が制式採用される直前に有馬正文少将が特攻的な出撃を行い戦死されていますが
何故か当時は全軍布告はされたものの新聞報道等の扱いは少なかったようで
戦後はさらに海軍関係者からも黙殺されており出撃の真相が伝わってきません。
何故、特攻出撃を行ったのか?
その背景に何があるのか?
何故、大西、宇垣中将に比較すると有馬少将の死は戦後も小さく扱われているのか?
そのへんの事を私なりに今回推測ながら記事にしてみたいと思います。


有馬少将は若い頃から苦労したせいか、部下に丁寧語を使い殴ったり暴力も
行使しないせいか部下から信頼される指揮官でしたが戦(いくさ)となると剛毅な闘将
となりソロモン海で空母翔鶴の艦長として弱気な南雲司令部に強硬な意見具申を行い
戦場から逃げ出すことを潔としない人物でした。


その後ミンダナオ島ダバオに本拠を置く第二六航空戦隊の司令となりますが
レイテ島沖海戦の直前に10月15日陸上攻撃機の5機編隊の一番機に部下の制止諌言を
振り切り階級章をはずして乗り込み敵艦への特攻攻撃を試みつつも突入直前に
撃墜され戦死されたようです。
このニュースは口コミで海軍内部の関係者にはよく知られていたようですが
何故、有馬少将が通常考えられない航空(特攻?)攻撃に一番機に搭乗し出撃した
理由がどうもよくわからないままになっています。



有馬少将は少し聖人のような人で奥さん以外とは女性と関係を一切もたず酒も煙草も
博打もしない部下思いで翔鶴艦長時代は母艦機が夜になって帰投しない場合は
サーチライト点灯したり戦場から離脱を考える南雲・草下コンビに戦場に留まるよう
意見具申したり生真面目な人物でした。
日本海軍は敗勢濃くなるにつれ指揮官が最前線に立つことが少なくなりました。
そのような時、海軍全体で水面下で企画されつつあった神風特別攻撃隊がはじまる
ことを有馬少将は何処からかの情報で知ったのだと思います。
この頃有馬少将は
「戦争は偉く(階級が上の者)年をとった人から死んでいかないといけない。」
語るようになっていたそうです。
海軍では司令クラスの最前線への出撃行為は厳しく戒められていたようですが、
有馬少将は高官ながら先ず我が身を以て特攻の先駆けとなる突入行為を行い
海軍高官の見本を示し部下たる若い特攻隊予備軍にも模範を示し鼓舞しようと
図ったのではないでしょうか。

でも海軍上層部は正式な神風攻撃がはじまる1週間前に行われた有馬少将のプレ?特攻攻撃を
あまり世に知らしめないようにしました。
多くは語る必要もないと思いますが海軍高官の多くは自分は戦場で率先してまで
戦場で死地につく気がありませんでした。
つまり有馬少将のような高官が率先しての特攻出撃を為されると
死ぬ気がない他の上官らにとっては困惑する面があったのでしょう。

以下、有馬少将の突入から神風攻撃隊の関大尉指揮の敷島隊が初戦果をあげたされる
10月25日までの経緯です。
1944年10月15日  有馬少将一式陸攻にて体当たり出撃
1944年10月21日  大和隊、敷島隊、朝日隊、山桜隊の計24機が出撃
            (未帰還の久納中尉が巡洋艦に体当たりの可能性?)
1944年10月23日  大和隊・佐藤馨上飛曹がスルアン沖の連合国軍艦船に突入
            (これも戦果未確認?)
1944年10月25日  敷島隊関大尉を中心に各隊合計17機が特攻
            (米護衛空母1隻撃沈、4隻に被害)
      以後特攻戦術の常態化が続く
10月25日が大戦果をあげたとされる事もありこの日が世界戦史上初の人類が
「カミカゼ攻撃」を行ったとされる日ですが本来なら10月15日の高官である
有馬少将自ら特攻に出撃したと新聞で大々的に報道したほうが日本国民全体に
与える感作は大きいですよね。
又戦果は未確認ながら10月21日に出撃した久納中尉(法政大学出身・飛行予備学生)
こそが正式編成された事実上の神風特攻の第一号とされてしかるべきなのに
その点には触れず海軍兵学校卒の(正規将校)出身の関大尉が突入した25日が
大々的に報道されました。
このあたりに海軍の正規将校至上主義というか体裁や対面を繕っているようにも
見えるのでありますが。。。

実は10月25日は栗田艦隊がレイテ湾直前まで進撃し退却反転した日ですが
全ての特攻部隊が出撃して突入しており関大尉率いる敷島隊が一番戦果を上げたとの
確実な証拠もないのですが。。。。
もちろん神風攻撃が開始された当時から特攻指揮を行った関係者は
「関大尉に続け!」と特攻予備軍の部下たちに叫んでも
「有馬少将に続け!」とは高官の多くは言わなかったのであります。

戦後特攻に関与した海軍関係者の多くは「創始者・大西中将」と特攻戦術を引き継ぎ
拡大させた宇垣中将の二方が潔い自決された事により2人の中将が特攻の結果責任を
とった事とし、自分ら特攻にはあまり?関係しなかったと曰う戦後の参謀や将官が
多い事に気づきます。

彼らの多くは戦後、あまり反省もせず責任も取らず年金でを後半生を謳歌し
時に集まり時に非公開で「海軍反省会」を開き、特攻は「志願で強制でない」
特攻は主に大西・宇垣中将が行い責任をとって「お終い」とする口ウラ合わせ史観を
戦後たれ流しました。
そのような彼らには全海軍を鼓舞し海軍の範になるべく率先して指揮官自ら体当たり
出撃を行った有馬正文少将の生きざま(死に様)はあまり国民には知られて欲しくは
ないのかもしれません。

戦争での起死回生を狙い特攻を考え、命じた者達の戦中戦後での変わりよう。
対して軍人として淡々と命令に従った若者達は、海軍兵学校出身者は意外と少なく
その数をはるかに上回る予備士官や学徒兵たち、20才にも満たない多くの若者たち
であった事を私たちはどう受けとめるべきでしょうか。

関連記事 ↓ 陸海軍特攻隊将校戦死者の出身考察(主力は学生)
http://blogs.yahoo.co.jp/naomoe3/60164992.html

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