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今週は1泊でですが鹿児島に出張しました。 酒のんで市内の甲突川の高麗橋付近を酔っ払いウォーキングしてますと 牛島中将の碑があるなあと酔っ払い頭で思い出し、右往左往してたら見つけました。 携帯で撮りましたが暗くてよくわかりません。 ↑ 左下の金丸三郎氏は有名な知事・政治家ですが黒豚を絶滅の危機から救った 人物として最脚光を浴びた人です。 翌朝、早起きして甲突川をウォーキングしてホテルから15分、 昨夜と同じ碑に行き携帯で写真を撮り裏側の文章も読みました。 碑の裏文字を読んでわかったのですが、私は牛島中将は鹿児島生まれと 思い込んでいたのですが、東京生まれで軍人の父が若くして死亡し母が 実家のある鹿児島に連れ帰り育てたと書かれてました。 先の沖縄戦で牛島中将の評価は硫黄島の栗林中将とならぶ名将という 評価もありますし、参謀まかせの放任司令官で県民の犠牲をあまり考慮 しなかったという戦後の沖縄側からの見方もあり評価が一定しない人物です。 でも当時、軍人でも嫌がった死地の沖縄に一言も文句言わず赴任した時から 自身も死ぬ覚悟で臨んでおり当時の時代の雰囲気からすれば牛島司令官に 後世の上から俯瞰目線で「人命軽視」も甚だしいとするのも正しい認識では ないのかもしれません。 辞世の句 牛島中将は最前線の軍人というより教育者とし優れていたとの見方がありますが、 現在、牛島中将のお孫さんが中将の意志を受け継いだのか現役教師であり、沖縄はじめ全国で 平和教育の見地から旧日本軍の批判と祖父である牛島司令官の批判をくりかえされていますが、 私は何か釈然としない「空気の匂い」を嗅いだ気がします。 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-3345-storytopic-7.html 考えて見れば同じ人物が鹿児島では西郷南洲の再来と人格者として語り継がれ 片や沖縄では海軍の太田少将 とは正反対的な日本軍国主義の権化のような冷血漢 としての硬直したイメージを戦後ずっともたれたままで相反しています。 沖縄に赴く前の中国戦線での牛島旅団長(当時)のエピソードでよく行軍中等に 一目につくところで用便をしていたとの話が色々な書物に書かれてますが私は その真相を最近知りました。 行軍中に牛島旅団長(当時の階級は少将)がわざと用便をしていたのは、行軍中に 中隊から離れた民家の裏や便所で日本軍兵士が用をたすと中国の民衆や便衣兵 (民衆の姿したゲリラ)から襲われ殺される事が相次いだのを憂慮した牛島旅団長が 自ら目立つところで用便をし「将軍が尻を出す」事を見せて下級兵士にまで行軍中に 離れずに用便癖をつけさせ自隊の犠牲を少なくしようと細かい気遣いのできる人物でした。 私はそのような繊細な牛島司令官が沖縄戦で県民犠牲を全く考慮せず、 日本軍に徹底的に協力するべく沖縄県民を利用したとの考え方に100% 与する気持ちにもなれないのであります。 やはり当時の世相というか戦争中の空気の中で、とうに自身の生への執着を 捨てていた軍人であり人格者で教育者でもあった牛島満をもってしても当時の 「時代の制約」の殻を破る事は困難であったのかも。。。とつい甘く考えます。 鹿児島中央駅から徒歩15分の場所ですので興味のある方は出張や旅行の際に 訪問されてみるのもどうでしょうか。 維新ふるさと館の近くにありますが、この碑の廻りだけ時代にとり残された ような昔の感じが残ってますので甲突川沿いを歩けば場所は判ると思います。 |

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