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那覇空港から3時間以上もかかって徒歩で本島最南端の具志川城につく。 以下 12月10日 沖縄 GPS実測図 http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=80be3c32ffd610b1bfd071636bc23873 具志川城(ぐすく)は2年ほど前に沖縄の地図で偶然に見つけた。 ふつう具志川といえば那覇より30キロ東北のうるま市にある 地名を私は思い出すが何故に那覇より20キロの最南端の喜屋武岬の 隣に具志川城は存在するのだろうと思った。 具志川城の城門らしき石垣 ネットで興味を持って具志川城を調べてみると完全な廃城だが 廃れ方が半端でなく私は興味を持ってしまっていた。 さだかでないが久米島に具志川という地名と城があり、戦乱で 久米島を脱出した按司(あじ=沖縄の王族)が沖縄本当の喜屋武岬に 上陸して久米島の具志川城とうり二つの城を築城したらしい。 具志川城は本土でいえば城よりも砦クラスですが見方によっては 海に突き出た断崖上にあるので大きな規模にも観えてくる。 たぶん上部構造物もあまりなく石垣主体の城なのだろうけど色々と想像してしまう。 何でこんな沖縄本島の最南端に具志川城のような城があったかと 考えると、アフリカで言えば希望のような場所なので当時の沖行く 船と荷物を検閲したり、荷によっては税金(賄賂?)を要求したり 相手や積荷によっては海賊のような行為も行ったのではないか?とも思う。 沖縄というと今も昔も平和な印象を懐くが沖縄には城(グスク)は 大小300箇所も存在したという。 日本の戦国時代同様に戦乱に明け暮れた時代があったと思う。 比較的小さな珊瑚礁を積み上げたように思える城壁。 一の丸や二の丸があったと思われる内部 具志川城から見る西側海岸 具志川城からみた東側海岸 喜屋武岬・摩文仁方面断崖が続く 同じく東側の海岸 かって日本兵が隠れていた場所か? 話は替わるが沖縄戦末期の組織戦闘力を失った日本軍の将兵や 先に避難した沖縄県民も喜屋武岬やこの具志川城辺の岩場の 海岸や洞穴で米軍の砲爆撃の合間に魚等を食べたりして飢えを 凌いでいたのだろうか?。 実際のこの場所は2時間ドラマに使えそうなくらい高度感があり恐い気がした。 沖縄南部の島尻地区には10万人以上の沖縄県民が避難していた 場所ですが昭和20年5月末以降に首里戦線から南部に撤退した 日本軍3万が住民の避難場所とガチに被り、先に壕に行ってた住民を 追い出したりもしたもんですから後世日本軍の悪評が蔓延りました。 そういう意味では自決強要まではなかったにしろ、日本軍の関与が 全く無かったとはいえないとも思えるわけです。 でも日本軍や軍属の総数の3分の1は沖縄出身の兵隊さんなんで 本土から命懸けで沖縄防衛にかけつけた残り3分の2の日本軍将兵 だけが悪いわけでもなく、兵も県民も大変な苦労してたろうと思います。 戦死死傷率は県民より兵隊さんの方が何倍も多かったし。 そういえば沖縄戦の終わったとされる昭和20年6月23日に牛島司令官 、長勇参謀長が摩文仁で自決してますが、最後に脱出を命じられた 八原高級参謀(大佐)は負傷したせいもあり岩礁の多いこの南部海岸周辺から 思うように動けず沖縄の避難者の中に紛れ米軍に投降したのが昭和20年7月15日だから3週間も南部海岸に潜んでいたそうです。 私もここ具志川城から南部の海岸を歩こうと思いましたが海岸線が 断崖絶壁の連続で一旦内陸の舗装道路からでないとわずか1キロ東方の 喜屋武岬にも行けないことを具志川城の絶壁から肌感覚で知らされるのでした。 日本の最果ては更に数百キロ先の与那国島などの南西諸島なんだろうけど 沖縄本島の南東の断崖に経てばこの世の果てまで来てしまったような 気分に陥ってしまうわけです。 5分おきに頭上を飛び越える旅客機が現実に引き戻してくれる。 2011年の今も現在グーグルマップにも具志川城後は記載はありません。 今日ここまで20キロ歩いてきたのですが未だ先があるので具志川城を 後にしてわずか直線600メートル東の喜屋武岬に向かうことにします。 城ではバイクの男性と一人出会っただけでした。 直線600メートルでしたが喜屋武岬の灯台には道路を迂回し 距離2キロ、20分もかかりました。 この先は沖縄の人などについて考えながら砂糖キビ畑 の小道を歩いたのでした。 (喜屋武岬に続く。) 日本ブログ村 散歩・ウォーキング人気ランキングに参加しています。 この情報が役立ったと思う方は? いないと思いますが。。。 ポチッと宜しくお願いいたします。 https://outdoor.blogmura.com/walking/index.html |

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