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増やし筑後の名将、立花宗茂の籠る立花城も開城させてしまい だけで自身は欲の無いふりをします。
関ケ原当時は司馬遼太郎の作品等やNHK大河では 天下取りの野心が黒田孝高にあったとされるわけですが 実は九州全域を占領し九州の地にキリシタン国家の構築 を夢見たわけです。 頭の良い黒田孝高の事ですから日本のキリシタン政策は
禁教弾圧に向かう方向にある事を見抜き、それならばと九州を
自身で切取り大友宗麟も描いた日向の宗教国家の拡大版を
目指したのではないでしょうか?
普通の人はそれならば親子二代でキリシタン大名であった
大友義統とキリシタンペアを組めば良いのでは? と思われるかもしれませんが、黒田孝高は自分の名声を 日本国内にいる宣教師達にも、ひいてはローマカトリック界隈にも 伝えようとしていたので凡庸な大友義統をある意味ライバル視し 朝鮮征伐での大友義統の消極的な戦で家督を失った時も軍監でも あった黒田孝高は庇おうともしていません。 ローマ側や宣教師の多くも人の器の違いから義統より 黒田孝高の方を政戦ともに利用しやすいと考えた事でしょう。 しかし史実の通り息子長政の大活躍で関ケ原本線は1日で 勝敗が別れ黒田孝高のキリシタン王国建設の夢は儚く消えたのです。 ![]() 黒田孝高の葬儀 秀吉や家康の前では黒田孝高は熱烈なキリシタンの顔は 出しませんでしたが37歳で洗礼を受けてからのその後の 生涯はキリシタン人生でした。
そのような黒田孝高の葬儀はどのように行れたのでしょうか? 1604年慶長9年3月20日に黒田孝高は伏見の藩邸で亡くなった とされていますが、葬儀は地元の福岡で簡素に行われたとされています。 「黒田家譜」にも 「歳五九 法名龍光院如水円清 筑前国那珂郡博多崇福寺に葬」 名目50万石の大名家の藩祖にしては簡素過ぎる何かを隠してる ような表現です。 そう実は黒田孝高(如水)の葬儀は壮大な教会式でも行われたのです。 息子の長政にも遺言で博多に大きな教会を建てるように命じ、 長政もそれに応え長崎よりも大きな教会を博多に建て
黒田孝高の三回忌はその博多の新築された大教会で荘厳に行われました。 用意周到な息子の長政もここまでは幕府にすべて許可や許し をとっていたと思いますし、一応教会葬の後に仏式の葬儀も おこなっておりますから、「黒田家譜」も嘘は伝えてないわけですが 真実100%には程遠いようですね。 しかしその後の慶長18年に長政は徳川家康と秀忠から 博多大教会の閉鎖を命じられ父よりもリアリストであった 長政は逡巡もなくそれを受け入れ博多大教会を閉鎖破壊し キリシタンの転ばない部下を秋月等に追い出しその教会の後に
場所に後から勝立寺(現:福岡市中央区天神4丁目)寺を建てています。
※ 詳しく知りたい方は「石城問答」で検索ください。 もし貴方が軍師官兵衛 ファンなら福岡の天神を訪れた際は 勝立寺も見学されてみてください。 どことなく不思議な寺であることは理解できると思います。 今回は文才もなにのに孝高(如水)の後半生のキリシタンぶりを 描きましたが、案外と後世に消されてしまった「歴史の真実」 は数多く存在するのかもしれません。
キリシタン視線で考えると考えると秀吉に嫌われた孝高は 九州の豊前に入国するわけですが、秀吉は野心家としてではなく キリスト信者としての孝高(如水)を毛嫌いしたのかもしれません。 私の思うところは天下取りの野心を見抜かれないように家督を息子 長政に譲って如水となったのでなく、秀吉に会う回数が増えると 自身がキリスト信仰者である事を殊更知られてしまう事を避けるため 自ら隠居を選んだものと思います。 。
ちなみに如水円清は僧籍ではありません、事実はシメオン という洗礼名の根っからのキリシタンでありました。 「ヨシュア(Josue)=如水」だそうです。 ヨシュア(Josue)を調べると旧約聖書のモーゼの 部下でもあり参謀のうような人であったようです。 少し詳しい日本人は秀吉をモーゼに診立てたのでは? 考える人もいるらしいのですが、そんな事はないでしょう。 彼は神エホバの参謀の心算でいたのではないでしょうか? 生涯 妻だけで妾はいない、部下の殉死を禁じたので 清廉な人柄ともいいますが、妾も殉死も神に禁止されて いたんで人物像を少し割り引く必要もあるかもですね。 しかしNHKは政治も経済も大河ドラマでも核心や 真実を伝えてくれませんね。(苦笑 ランキングに参加しています。
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