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戦前戦中の日本の偵察機について最近思った事などを。
昔の日本軍が情報軽視とか偵察軽視とか戦後は
盛んに後知恵で批判されてますが偵察機というハードな
軍用機そのものには力をいれていたと思います。
陸軍百式司令部偵察機Ⅲ型 日本機と思えない華麗なデザインですね。
陸軍では97式司令部偵察機、99式襲撃機、百式司令部偵察機で
何とか戦争を乗りきりました。
百式司令部偵察機は戦時中は戦訓をとりいれ改良されⅠ型の時速
540キロ〜Ⅱ型605キロ、Ⅲ型630キロと向上させました。
主力戦闘機の隼戦闘機の生産が5000機に対し更に高性能エンジンを
2倍(双発)つけた百式司偵は2000機造られてますので偵察機の
軽視は無かったと思うのです。
それに反し海軍は偵察機機と名のつく機体は戦艦や巡洋艦に搭載する
零式水上偵察機(三座 1500機生産)がありましたがフロート
がつき空気抵抗で最大速度は370キロと鈍足で敵の警戒機に見つかると
無線を発する前に撃墜されたりしてました。
当時の海軍は鈍足の零式水上偵察機が命懸けで敵の空母や要域に
近づいていち早く「敵発見!」の電信を平文で打ちたくても敵側にも
知られるからと、鈍足の機上で電信員に暗号文に翻訳させてから味方の
空母や基地に打電させてました。
海軍 零式水上偵察機
操縦士以外に偵察員や電信員が載ってますが主翼やフロートが
大きく下方視界が悪い事でも有名でした。
平文なんかで打電しようものなら帰還すると御仕置以上以上に
叱られたようですが、敵側からすると頭上に日本の偵察機が侵入して
きた時点で肉眼やレーダーで判っていた事と思いますので一刻も争う時は
平文の打電をすべきでしたが、受験暗記秀才の挙る海軍参謀達は戦争中も
形式を重んじてしまい、偵察機の血の代価を情報判断や戦火に結びつけ
られなかったようです。
また海軍は他にも戦闘機月光の前身となる二式陸上偵察機や、哨戒任務用の
九六式陸上攻撃機、九七式大艇、二式大艇、瑞雲、紫雲、的を得ない
偵察機をたくさん造り飛ばしましたが過大な任務に適さず、開戦直前は
無理に陸軍に頼って九七式司令部偵察機を貸してもらい、
昭和一七年八月からのガダルカナル島の戦いでも百式司令部を陸軍に
借りようと努力しますが、陸軍に難色を示されならばとラバウルに
陸軍の百式司令部偵察機の部隊に進出してもらいますが陸軍の
偵察機部隊がソロモン諸島に進出したのは昭和一七年十月以降で
川口支隊や第二次総攻撃や栗田部隊戦艦によるガダルカナル島砲撃失敗の
後からの配置となってしまいました。
私がガダルカナル島の半年戦いの中で実に不思議に
思う事は海軍はガダルカナル島よりも南まで偵察や哨戒を
行いながらガダルカナル島そのものをといいますがヘンダーソン
基地(飛行場)そのものの飛行場拡張や防備体制の変化等を
全くとは言いませんが時系列的に偵察してないように思うのですね。
栗田艦隊の戦艦二隻によるヘンダーソン飛行場への
主砲弾900発にも及ぶ砲撃で飛行場や敵機を完全に破壊し
たとしながらも破壊された飛行場から飛び立った爆撃機が
日本の増援目的の輸送船を全滅させてガダルカナル島の
後略は頓挫するのですが、米軍側戦史からすれば不思議でもなく
栗田艦隊に砲撃されたのは日本軍が最初に設営し米軍に占領された
海岸に近い飛行場ですが、米軍は占領後直ぐに海岸より奥地の
ジャングル内に第二飛行場を完成させており、米軍機の約半分は
第二飛行場に避難し翌朝の日本船団攻撃も第二飛行場から行って
ますが、日本海軍は全く気がつきませんでした。
もしもの話になりますが事前の航空偵察が上手く成功
しておれば敵飛行場の攻撃成果は上がり輸送船団の沈没
による全滅は免れその後の陸軍による飛行場攻撃も捗った
かもしれません。
私が思うに海軍この時期は水上偵察機ばかりで
陸軍の百式司令部偵察機のような敵の警戒する要地を
高空から高速で侵入し強行偵察し写真を撮影したりする
偵察機を保有してなかったのですね。
その後は懲りて高速偵察機を求めだし艦上爆撃機彗星
が難産で高機動が無理を百も承知で二式艦上偵察機で
仮採用したり昭和19年後半に戦後の評価が高い?彩雲と
いう艦上偵察機を何とか開発し実戦に投入します。
二式艦上偵察機はともかく彩雲は日本海軍が対米戦争
突入後に試作(開発)した軍用機の中で唯一量産化され
戦後も70年を過ぎた今でも素晴らしい偵察機であったと
伝えられますが、空母からは離着艦できず、陸上からの
運用でしたがエンジンが誉エンジンで長距離飛行に適さず
約400機が作られながら170機以上が終戦時に残ってた
ので高速(時速608km)で撃墜されずに帰還できたとか
戦後に絶賛されるのですがようですが造られた機体の内3分の一は
エンジンが悪いのか機体の製作が悪いのか故障が多く
空に飛べない状態だったようですから終戦で残っていた
170機の内の過半数は飛べない欠陥機であった事になります。
昭和20年ともなると陸軍の最大速度630Kmno百式司令部
偵察機も事前にレーダー管制にひっかかり敵の戦闘機の
要撃を受けますとどんどん墜されていましたからカタログ
スペックは時速608kmでも量産機は570kmくらいしか
出せない彩雲が敵艦隊を発見した際「我に追いつくグラマン無・・・」
とか自慢げに打電し味方基地で参謀に「余計な電文打つな!」叱られた
逸話が独り歩きしたようですが、彩雲は前作の二式艦上偵察機(彗星)と
総合的には50歩100歩であったように思います。
二式艦上偵察機(彗星)
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戦後も傑作機と信じ込まれている彩雲 日本機にしてはプロペラが
大きく陸上の飛行場着陸でも主脚がよく折れましたが名機と呼ばれます。
メーカーの中島飛行機が彩雲を完成させて海軍に納入しようと
しても海軍の領収チェックシートでエンジンがひっかかりその
調整に平均でも100時間以上かかり、100時間も調整運転すると
誉エンジンの生涯寿命が尽きて飛ぶ前から貴重なエンジン交換したりで
省資源国な日本なのに無駄な事をやってました。
wikiでも彩雲を調べますと増槽(落下タンク)無でも
鹿児島からタイまで3000kmを無給油で飛べたとか賛辞が
続きますが、実際には昭和20年の
沖縄戦の前に日本本土からウルシ―環礁(距離2300km)へ停泊する
米空母に奇襲体当たり攻撃を行ったのは銀河と先導する二式大艇でしたが
二式大艇の速度があまりに遅く到着が日没となり効果があがりませんでした。
本来は彩雲が銀河の先導機を務めないといけないのですが、
銀河以上に故障続発の彩雲ですから参謀達も彩雲を使えない
とは認識していたのでしょうね。。たぶん。
どうも戦時中は使えないは言い過ぎにしても使い難い
飛行機であったのに、傑作機のように大絶賛するのはプラモデル
会社くらいでいいと思うのですが、書籍からネットから傑作機
と誰かがいえば「傑作機」と自分も思い込もうと考えるのが
普通の日本の航空機ファンかもしれません。
まあ文句や愚痴ばかりになっても
読まれる方も辛いと思いますので
いつか気が向き、また要望があれば日本の偵察機の
機体とは異なる点からの知られざる弱点を投稿したい
とは思います。
では今日はこの辺で。。。
負けたとはいえやはり日本機ファンは
日本機を褒め讃えるべきなんですかねぇ。(涙
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