歴史学習妄想的メモの20話となります。
昭和20年8月の終戦間際の広島および長崎へ
原爆が投下され多くの日本人が米軍の大量虐殺の犠牲
となりましたが、広島に次いで北九州の小倉市に投下される
予定の原爆が長崎に投下されたのか触れてみます。
この当時日本の大都市の殆どが米軍の空襲に曝されており
空襲を受けてないB29爆撃機の飛行圏内での大都市は京都
、新潟、奈良、広島、小倉、長崎市しか残されておりませんでした。
当然、広島市への原爆投下で他の空襲を受けてない都市は
大混乱をきたし、人口が40万を超えていた新潟市等は一時は
無人となったのでした。
小倉市と長崎市の原爆投下に話に戻しますと、第一目標であった
広島市への原爆投下後の米軍側の次の原爆投下目標は小倉市で
次いで長崎市でした。
戦略爆撃機 B29
昭和20年8月9日の深夜にテニアン島を離陸したB29 6機が
小倉市をめざしますが 、原爆搭載機はボックスカー号で他の5機は
天候偵察や写真偵察や原爆投下の爆発威力の観察の役目がありました。
3日前に広島に原爆を投下したエノラゲイ号も乗員は交代で入れ替わ
りましたが小倉市への先行し天候観察を行っており
「小倉市に原爆投下は可能な天候・・」と無線で伝えました。
午前9時45分に小倉市に侵入したボックスカー号は予想に反し爆撃手は
「小倉市を覆った霞と煙のために目視での原爆投下は困難」と機長に
報告しますが任務に忠実なティベッツ中佐は3度も小倉市上空を
旋回し(45分間の時間と燃料の浪費)爆撃をやり直しますが、
燃料の不足と日本側の迎撃戦闘機の零戦や五式戦が向かった事や
高射砲の砲弾が増えたので(他の理由も後述)小倉での原爆投下を
諦めて長崎市に向かい、史実の通り午前11時2分に広島に次ぐ
人類史上2発目の原爆を炸裂させ7万人もの長崎市民を
殺戮いたしました。
その後、ボックスカー号はテニアン島まで帰るまでの燃料が無く4か月前に
沖縄に上陸した米軍の占領した読谷村飛行場に残燃料無で着陸します。
ここでは小倉市が2発目ともなる爆投下を免れた理由として
当日の天候が優れず、長崎に向かったという「従来の定説」以外に
小倉市、八幡市の自助努力の面から考えたいと思います。
北九州市にお住いの方は詳しいかもしれませんが、広島市の原爆投下より
二日後、長崎の原爆投下の前日となる8月8日に小倉市の隣の八幡市は
B29約200機により45万発を超える焼夷弾を投下され3千人が亡くなり
市街地の2割以上が焼失されるという大被害を被りました。
前日の焼夷弾攻撃による木製家屋や樹林の火災が続き、ボックスカー号に
よる小倉市への原爆投下の決断を逡巡させ阻害した事は
確実であると思います。
また日本軍も馬鹿ではありませんから、空襲を遁れた大都市には
原爆投下の可能性が高いことを内務省から各大都市に伝えていました。
最近の2014年に証言者から出てきた新説ですが
(長崎市に長年遠慮があった)小倉市や八幡製鉄所も
手をこまねいて訳ではなく、製鉄所内の多数のドラム缶を
半分に切り開き、その中にコールタールを入れて燃やして
煙幕を張りB29の爆撃や原爆投下への照準を防ごうとすべく
自助努力を続けていたというのです。
※コールタール=石炭からコークスを製造する際に得られる副生成物
小倉市や八幡市(主に八幡製鉄所)側から燃やしたコールタールの
煙と米軍側の1時間以上先行偵察していたエノラゲイ号の小倉侵入に
気づいた八幡、小倉両市の官民を上げてのコールタール燃焼による
目標地の煙幕化による原爆阻止は日米の動きで附合する部分も大きい
ように思えてきます。
コールタールの燃焼でどれほどの原爆投下への阻害効果が
あったかは判りませんが前日の八幡市空襲の残り火のような
靄(もや)や霞(かすみ)コールタールの煙の相乗効果が
あったように私は思います。
また長崎に原爆を投下したボックスカー号の機長のティベッツ中佐は
3日目の広島爆投下と同じような時間帯と侵入高度や前日の
八幡市空襲の事実から日本軍戦闘機による体当たり攻撃などを
かなり心配していて日本側に被撃墜されると神経質となっていたようです。
もし小倉市に広島原爆より1.5倍も強力な原爆が投下されていたら
前日の焼夷弾による八幡市空襲の被災者への追い打ちをかけ、小倉市や
戸畑、門司、下関市にまで及ぶ被害で長崎市以上の人的被害で
あったろうと予想できます。
また被害にあった長崎市も小倉から長崎に向かった少数機の
B29を(大編隊なら焼夷弾攻撃)原爆搭載機と察知し原爆投下の
10分前からラジオ放送で盛んに「長崎市民は全員退避せよ!」と
繰り返し緊急警報を出しているのですが当時の日本側の努力が何故か
戦後の70年以上も経過した現在も正確に伝えられてないように思います。
ちなみに私はB29等による原爆や焼夷弾空襲の目標は
軍人や軍事工場よりも一般人を標的としており
「戦争犯罪」と思っています。
小倉市ではなくて長崎市で良かったという話ではありませんが
小倉市(北九州市)側でも当時最大限の努力もしていた事実を
私たちは知り伝える必要もあるのではないでしょうか?