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自分用の備忘録として勝手に書いております
歴史学習妄想的メモ 34話 は小早川秀秋でございます。
戦国末期の関ヶ原戦では西軍側においては最大の裏切り者
東軍側からは黒田長政と並ぶ最大の功労者でもありますが小説も
歴史書もTVドラマでは暗愚なイメージキャラで主役とはなりえないでしょうね。
彼の波乱に満ちた21年の短い人生を後世から探り撃ち
してみようかな?と思います。
まずご存知のように、太閤豊臣秀吉の親類で生後わずか3歳で
秀吉の養子となり帝王学を叩き込まれたそうですがその後秀吉の
実子?鶴松や秀頼が誕生するとスペアキー的な存在に墜とされちゃいます。
※私は服部英雄氏や福田千鶴女史の歴史学を読んでみて
秀頼も豊臣秀吉の実子ではないと思いますがそれは別の機会に。
その頃といっても養子時代の秀秋は8歳なんですが、
8歳から飲み仲間(近衆)と酒や遊興?に溺れだし、
成人前から100%アル中路線をひた走ります。
※8歳での飲酒 ここ大事です。(お酒は二十歳を過ぎてから)
その後も義兄でもありライバルでもあった豊臣秀次が関白につくものの
自決に追い込まれたり、秀秋にとっては不満な豊臣家内部の人事が続き、
ついには毛利家の乗っ取りを企てる石田三成や黒田官兵衛の謀略で
秀秋と毛利家本家への毛利輝元との養子縁組案が浮上します。
毛利輝元はポカ〜ンとした人物であったようですが一応は120万石の太守
ですから、輝元の叔父の小早川隆景が本家を救うために自分の領地である
筑前32万石を犠牲にしてまで秀秋を養子に迎えます。
今でいう小6くらいで小早川家に入った秀秋は豊臣ブランドのプライドは
高かったようで教育係の付家老と喧嘩しますし、後には勝手に急にキレて
文字通り諫言した家臣を謀殺したり、外では家格はともかく人格識見
では数段格上と思われる伊達政宗なんかとも大喧嘩しています。
どうも酒癖が悪いのかアル中なのか突如、機嫌が悪くなり爆発したり
切りつけるタイプのようです。
16歳で朝鮮での後半戦、慶長の役にも担ぎ出されて総大将で朝鮮にも
渡海しますが、当然昼酒三昧で戦争指揮も部下任せだったでしょう。
つまり徹頭徹尾「豊臣ブランドのお飾り」です。
私は少しはお飾り人生に同情したくもなりますが、朝鮮での少ない愉しみでは
朝鮮陣中は中国や朝鮮、南蛮、日本の酒を飲む比べたりしたのでしょうか?
加藤清正は朝鮮では虎退治、小早川秀秋は異国でワールドワイドに昼酒と
武将も様々です。
私は小早川金吾秀秋は朝鮮では戦闘には参加してないと思うのですが、
味方の籠る蔚山城へ救援に赴き、最前線で戦ったりと秀秋にも武勇は
あったと持ち上げる説もありますね。
小早川秀秋も筑前(今の福岡県西部)に1597年に帰国させられますが、
帰国の理由は太閤の名を騙った石田三成らによって秀秋の朝鮮での戦争指導が
軽率であったと批判され(飲んでるだけですから)越前15万石減封となり、
その時リストラでかなりの家臣を解雇していますし、秀秋に従いたくない
家臣の多くも義父小早川隆景の隠居先の故郷の中国地区に戻ったようです。
秀秋が筑前を出た後に豊臣家の直轄領となった筑前に石田三成が検知入りし
検地や行政指導も行ってますから戦争や貿易で発展を遂げた中世都市博多の
富を豊臣家で税収化したり貿易コントロールしようと考えたのか?
それとも若きアル中の病状が知れわたり大国である筑前経営に
は向いてないと判断されたのか? さあ、どっち?
なのですが、元々がお飾りの秀秋に朝鮮の在陣中は軽率とか秀秋
からすると酒を飲んでいようがお飾りの役目は全うしてますから
完全な石田三成らのイチャモンですよね。
また義兄で関白まで出世した関白秀次も、茶々と間男の間に秀頼が秀吉の
実子?とし生まれるとイチャモンで切腹しその家族も殲滅されております。
ですが、ですが、ですが秀秋の天運はまだここでは尽きません。
朝鮮の役から帰国後の翌年秀吉死亡後の遺言と五大老の連判で
秀秋はまた筑前に複領し、領地も越前時代の4倍、一度目の筑前の2倍
の59万石の大大名へと復帰いたします。
※ ここで徳川家康に恩を売られてるわけです。
秀吉亡きあとの豊臣家での秀秋の序列向上(羽柴一門では暫定筆頭格)
による淀君秀頼親子の後見役等の期待や、徳川家康の後の関ヶ原戦での
裏切りに繋がる恩売りの作用が秀秋に良い塩梅で働いたように思います。
それから1年後が私達イメージで知る、天下分け目の関ヶ原戦でです。
ちなみにこの時小早川秀秋はまだ19歳で羽柴性で羽柴筑前秀秋
と称していたようです。
関ヶ原での小早川秀秋の裏切りに至る過程では今もいつ裏切りをいつの時点で
決断したのかがはっきりしない訳ですが、私が読んだあまり学術的でない
書物の大半は伊勢平定や近江滞陣の頃から裏切ってくれてるように東軍の
家康陣営からは思われており、要所となった松尾山(標高292m)の城跡を
整備修復中の伊藤盛正を追い出して奪っておりますから西軍の戦略配置を無視し
松尾山を実力奪取した時から
「もう裏切ってるなアイツ?」と西軍の諸将からは思われてたでしょう。
※元々松尾山は実は南北朝時代からの山城で兵の布陣待機に向いていた。
しかも動員兵力は備前の宇喜田秀家や毛利秀元とならぶ西軍のビッグ3の
一角を占める1万5千名を動員。
西軍の関ヶ原結集戦力8万5千名の中での戦力構成比17%の小早川が
裏切りシンクロ連鎖で脇坂、小川等の裏切り、戦力構成比21%の吉川
・毛利家は動かず(東軍に内通)、結果裏切りを含む2倍以上の兵力差
となり西軍はその日のうちというより午前中で敗れて壊滅しました。
小早川秀秋の本戦での裏切りの決断は遅すぎるとされますが
稲葉正成、杉原重治、平岡頼勝らの家臣が徳川や黒田長政と数日前より
裏切りの内応交渉を行っており、人質交換まで済ませ小早川陣営には
数日前から徳川方から督戦させるための軍監与力も派遣されており
裏切りは既定路線で部下任せで交渉させたようです。
また東軍に寝返ると内応しながら、決戦当日は去就を迷いに迷って
日和見状態となり午後の家康の松尾山への銃撃で狼狽して
西軍に突進するため松尾山を駆け下った・・・とする説が定石の
ように伝えられますが、
最近では 近江で謎の滞陣してた頃から東軍と連絡をとりあい
決戦当日は関ヶ原戦で霧のかかったから朝一から東軍に寝返って
西軍諸将に襲いかかって史実よりも短時間で本戦の決着がついていた
・・・・説が有力になりつつあります。
(実際に松尾山から大群が降るだけでも1時間はかかりますからね)
私は裏切りへの主因は豊臣家や秀吉への憎しみでなく
石田三成への憎しみが大きかった心の隙間を毛利・吉川と同調したい
家臣や東軍側に巧く利用されたように思いますね。
戦いが終わって小早川秀秋は家康に礼を尽くすかのように詫びたポーズで
謝罪にも見える面会を果たしたそうで筑前から備前(岡山)に転封と
なりますが備前と美作で50万石以上とも実質は40万石の石高でとも
謂われますが良い方に観ても筑前時代の横這いで最大の功労者なのに
大幅加増には至りませんでしたから利用されて使い捨てされたようなものです。
ここから秀秋は豊臣ブランドを捨て世に残る「裏切り中納言」という名声を
後世に至るまで定着させますが、本人は恥ずかしい事とも思わず
老いた口うるさい家老等に暇を出して自分のお気に入りの若い家臣団を
形成し意気揚々としてましたが、関ヶ原から2年後の1602年に
21歳で不審な死を遂げ、徳川時代で初となる無嗣断絶で改易されますが、
死因は肝硬変やアルコール中毒であるように伝わりますが
部下達による暗殺の可能性もあるんじゃないかと私は思います。
わずかに8歳で10万石の領地を貰い酒を呑み、直ぐに他家に養子となり、
16歳で朝鮮に渡海し戦い、19歳で関ヶ原での裏切りの歴史に名を残し、
21歳で生涯を閉じた小早川秀秋ですが、秀秋にしてみたら同じ豊臣側から
加藤清正も福島正則他も裏切ってる訳ですから皆で渡ったら怖くない
赤信号であったのかも。。
関ヶ原決戦の歴史は勝者の徳川家に都合よく塗り替えらてますので
徳川(東軍)に都合よく、小早川秀秋の人物像も
「凡庸・怠惰・暗愚・未熟」で残念な人物像として今に
つたわってるかもしれません。
もしもの話ですが秀吉が叔父で無かったり、遺言が無ければ
案外と後半生は尾張や越前で奥さんに昼酒を飲んでは文句
言われながらも美女に囲まれて長生きしていたかもしれないし
もし長生きするとその後の大阪夏の陣なんかでも両軍から注目される
事になるであろう人物だったのかも。。
現代人への教訓としましては
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