涅槃までの14万歩!ハッピーリタイアできない100kmウォーカー

2017年11月にタイトル変更・・・中身は変わりません。 ぷらっとして行ってください。

◎知られざる戦史 目次

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4 軍司令官逃亡

戦時中、東条首相(兼陸相)のもとで権勢をふるった富永恭次陸軍次官兼人事局長は、東条内閣瓦解
(マリアナ諸島陥落の責任)後の1944年8月フィリピンの第4航空軍司令官に転出した。

中将とはいえ旅団長、師団長も経験せず一度も戦場に出たことのない典型的な
 「軍服を着た吏僚」がいきなり師団を束ねる決戦正面の軍司令官とは、陸軍の人事も
 適材適所を欠いたものである。

しかも転出時期が最悪で1944年10月からのレイテ島決戦及び、体当り特攻を推進、
 幕僚の意見も全く聞かず、感情的な素人采配に終始した。

その結果3ヶ月で体当り特攻148機、自爆24機、他未帰還170機と
 合計342機を戦闘で失い、戦果も海軍の特攻戦果に較べて劣っていた。

 この当時、海軍の特攻機は、一人乗りの戦闘機(殆ど零戦)が主流だったが陸軍機は富永の
 狂信的指導で、戦闘機(一人乗り)以外に軽爆撃機(4人乗り)重爆撃機
 (7人乗り)等も特攻に使用、育成に時間のかかるベテランパイロットも出撃させた。

 非道な特攻であるが海軍並の多少の合理性も現場に持たせなかった。
 特攻出撃も特攻隊の基地に出向いて隊員全員を激励するというのならわかるが、
 特攻隊将校だけを マニラに呼びつけたというから官僚的だ。

また、特攻隊への訓示では、毎回「最後は、私も絶対に行く(死ぬ)」といい続け、
ルソン山中に撤退しようと図る山下大将らを困惑させていたが、 昭和20年1月
(米軍ルソン島上陸直前)稼動飛行機の無くなった第4航空軍は、南方総軍
(司令部シンガポ−ル)直括よりはずれ、比島第14方面軍隷下(ルソン島山下大将)に移された。

この頃から富永中将は、精神に異常をきたす。
最初は、居心地のいいマニラ市より出たくない為、山下大将の指示に従わず「マニラ死守」
 を叫び、その裏で山下大将との対立関係もあってか軍司令官辞任要望の電報を南方総軍
 にあてに発した。(もちろん認められなかった)

昭和20年 1月9日米軍がルソン島に上陸、マニラ市死守をいい続けた富永中将は、
1月17日、隷下部隊視察を名とし、ルソン島を空路脱出し、
 戦闘機の護衛のもとに台湾の台北市に逃亡した。

ルソン持久作戦の方針をとる山下方面軍司令官をてこずらせていたマニラ死守論者富永中将の
突然の脱出は、南方総軍司令部を唖然とさせた。

まさに陸軍刑法第75条に定められた敵前逃亡罪である。

昭和20年2月23日、第4航空軍司令部は、解散され、富永中将は、同日付で待命、
5月1日付で予備役編入となった。
フィリピンでの無能な作戦で342機の犠牲を強要し、数千人の地上部隊(地上勤務者)
を見捨てて逃亡した軍司令官に対する処置がこの程度であった。

しかも、戦後は軍人年金までちゃっかりもらっていたらしい。
陸軍広しといえども多数の部下を見捨てて逃げ出した将官は、インパ−ル作戦の責任者、
牟田口中将と富永が双璧であろう。
二人とも戦後も生き延び、自己反省なく戦後も言い訳に終始したことも共通点である。


国はこうゆう者たちにも軍人年金を払わねばならなかったのだろうか?

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昭和20年(1945年)8月15日大日本帝国は、ポツダム宣言を受諾した。
8月16日アメリカ政府より、日本軍の正式降伏受理のために打ち合わせをする権限を
有する使者をマニラ(フィリピン)のマッカ−サ−連合国最高司令部のもとに出頭させよ
との通告が届いた。
誰でもが行くのが厭な役目である。
マニラ行きの使者の選定は、困難を極めた。
当初全権は、大本営(陸軍)参謀総長梅津大将が予定されたが頑なに本人が拒否し、
海軍側も豊田軍令部総長は、徹底抗戦派で拒否、大西軍令部次長は、15日割腹自決
(特攻の責任をとり切腹)。
結局 、陸軍大本営次長河辺虎四郎中将が自らかって出た。
全権の下の、打ち合せ実務者の選定も同様に困難であった。
細田大佐(大本営作戦課)が適任だったが河辺次長の命令にも服従せず拒否。
川辺次長は細田大佐の自決を直感したが後日杞憂と知る。
(川辺次長が任務を終え帰国しても生きていた。)

すったもんだの挙げ句、陸海軍共に逃げあいながらも使節団員、搭乗機(海軍一式陸攻)
2機,搭乗パイロットを8月18日迄に準備した。
普段、参謀肩章(モ−ル)で風を切って歩いていた参謀達がこの様な時に自己保身に
のみ走ったのは、元々軍人というよりも官僚的体質に染まっていたからであろう。
そしてこの官僚的な自己保身、組織保身は、戦後も大蔵省(銀行、証券不祥事、金融破綻)、
厚生省(水俣病、薬害エイズ)、防衛庁(汚職・情報漏洩)と何度もパターン化して
くりかえされている。


用意された一式陸上攻撃機2機は、2機ともすべて真白に塗装され日の丸も消され日の丸
のあった位置に緑十字をいれた。
これは、米軍に撃墜されない様に指定されたものだ。
ようやく決まった一行は、
陸軍 全権 大本営参謀次長 川辺中将
随員 大本営参謀本部作戦課長 天野少将
同欧米課長 山本大佐
同航空班長 松田中佐
陸軍省軍事課員 南中佐
同軍務課員 高倉中佐

海軍 軍令部出仕 横山少将

同作戦課長 大前大佐
軍務局三課長 吉田大佐
軍令部航空班長 寺井中佐
溝田嘱託
杉田書記官
外務省 調査局 岡崎局長
湯川書記官

これに陸軍から2名、海軍から1名の通訳要員が 加わって計17名となった。
この一行は、8月18日午後、首相官邸で東久邇宮首相より激励を受けて出発準備にとりかかった。
一行の中でただ一人飛行艇パイロット経験を持つ寺井中佐が飛行計画を立案1番機機長は寺井中佐の
たっての希望で海軍随一のベテラン操縦者須藤特務(予備)大尉に決まった。
須藤大尉は、水兵から身を起こし、昭和5年の単独飛行から約15年(飛行時間1万時間)の経験を誇り、開戦から幾多の空に戦い生き残ってきた古豪である。

須藤特務大尉は、責任の大きさを認識するとともに、普段威張っていた海兵学校上がりの飛行将校がまだ生き残ているのに何故、兵隊上がりの自分が指名されたのかと憤りを感じたことだろう。
( 海軍の場合、特務将校(兵・下士官上がりの将校)を一般(正規)将校に比べ軽視する風潮があった。)
しかし須藤大尉の人選は、この場合、正解だったこと事が後にわかる。

一行は8月19日朝7時、木更津飛行場を飛びたった。
途中抗戦派の厚木空(海軍)の戦闘機の待ち伏せに会わぬよう厚木の90海里圏外の東京湾南部を
低空で飛びぬけ正午待ち合わせ場所の鹿児島県佐多岬上空に到着し待機、間もなく米軍P38戦闘機
編隊が到着、お互い英語で無線送受信し、米軍機により誘導され米軍占領済みの沖縄伊江島飛行場に
着陸した。

(実は、この時1番機の主脚がモ−タ−故障で降りず須藤機長は、胴体着陸を決意したが
搭乗員の手動で何とか降し接地、主脚のブレ−キも効きが悪く滑走路の端でやっと止まった。)
一式陸攻2機と搭乗員を沖伊江家島に残し、使節団一行は、米軍大型輸送機に乗り換え
当日の夜マニラ空港に到着、そのまま米軍司令部内で日本進駐計画について協議に移った。
当時のマニラ市内は半年前のマニラ市民を巻き込んだ日本海軍陸戦隊と米軍との市街戦の
結果(マニラ大虐殺)、東京よりも荒廃していた。
米軍司令部は、日本降伏使節をなごやかにむかえたが、マニラ市民は、
日本側使節に罵詈雑言、小石、等投げつけたという。

マニラでの「降伏受理協議内容」は、

8月26日占領軍先遣隊が厚木に着陸、
28日にマッカ−サ−司令官が厚木到着、
30日に降伏文書調印というものだった。

川辺次長の一番の心配は、30日の降伏文書調印に天皇自身の調印が要求されるのではないか
という1点だったがこの件は、天皇・政府の代表および大本営の代表で十分とのこととなった。
2日に渉った協議を終えて20日午後1時沖縄に返った使節団は、いち早く任務を果たすため、
夕方にも拘わらず伊江島飛行場を離陸、日本本土を目指した。
この時、2番機は、故障が治らずすぐに飛び立てない。
1番機だけでもと主要随員だけを乗せる事にした。
帰途の途中、使節団の寺井中佐は寝ていたが、深夜0時ごろ(紀伊半島上空)須藤機長と
大久保偵察員が大声で言い争うのを聞きつけ操縦席に行くと、須藤機長より
「燃料が足らずとても木更津までもたない。」
との報告、慌てて地図を見るが適当な夜間着陸できる飛行場もみつからない。
幸い月明があり須藤機長の判断で天竜川河口に胴体着陸することになった。
須藤機長の操縦技術は確かで機体は、河口に没することなく、
水面を滑り陸岸に乗り上げ止まった。

このような時に慌てない超ベテラン機長を人選したことが幸いした。
須藤大尉は、パイロットの価値は、学歴、肩書きに関係ないことを証明もした。
燃料切れの真相は、不明のままだが、機体の老朽化で燃料漏れを起こしたのか、
米軍が飛行場で給油したときリットルとガロン(約4リットル)を勘違いしたのかであろう。
(酷だが飛行前に確認を怠った須藤機長はじめクルーの責任もあるのだが。。。)

無事に不時着した一行は、夜明けに陸軍のトラックを拾い浜松飛行場へ到着21日早朝、
空いた飛行機で帰京し首相官邸で閣僚一同に報告をすませた。
このあと川辺中将は、鈴木貫太郎首相にともなわれて参内し、天皇に任務達成を奏上した。
尚、日本の正式降伏文書の調印は、当初の予定より3日遅れて東京湾に浮かぶ米戦艦ミズ−リ号艦上で行われた。
日本側代表は、天皇・政府は外務大臣 重光葵(8月17日就任)、大本営代表は梅津総長が
渋々出席したが、梅津総長は、前日まで駄々をこねたという。

又海軍側は、豊田軍令部総長が職責を回避し辞退したが、余りにも無責任といえる。
戦時中、部下や現地部隊に対し無理難題を突きつけた陸海軍上層部は、相互に職責を回避して
無責任な逃げあいが陸海軍中枢の最後の幕切れとなった。

この使節がとんだ8月19日の飛行が海軍では、最後の公式飛行記録になっている。


    写真 上 伊江島に着陸した緑十字機(海軍一式陸上攻撃機)

    写真 中 伊江島のマニラ行き米軍機にのる使節

    写真 下 戦艦ミズーリ号上での降伏調印式 日本側は駄々をこねていた梅津大将 

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1943年(昭和18年)6月8日、瀬戸内海柱島泊地で戦艦陸奥が爆発沈没した。
乗員1121名が犠牲となった。
当時、ちょうどアッツ島(アリュ−シャン列島の一部)で初めての玉砕と時をおなじく
したため 国民の士気の低下にかかわるとして戦艦陸奥の沈没は極秘とされた。

爆発原因は、今も謎だが、一瞬の爆発轟沈から火薬庫の爆発と推定された。
しかし海軍の調査や実験の結果、自然発火説は消えた。
嫌疑は、艦内で度々発生した盗難事件の容疑者であるある1水兵にむけられた。
その水兵の分隊長(水兵の上司)が盗難事件の調査結果を副長に報告し、
後の取り調べを鎮守府法務部にゆだねるために上陸中に爆沈事故がおこった。

この水兵の死体だけは、どうしても発見できなかった。
この説が真相であるならば、事件を起こした水兵の罪は、とてつもなく大きな罪であるが、
根本原因は、火薬庫の管理不備や軍艦という巨大な密室内での極端な身分差別?
にもあったのではなかろうか?

陸軍の士官候補生は兵の階級から一歩を踏み出す。
しかし海軍兵学校の生徒は入学したときから下士官の上位、に位置づけられる。
つまり海軍将校は、出だしから下士官、兵と無縁なのである。
この身分的差別の構造をもった巨大な密室の中で、陸軍にまさるともおとらない残虐な
私刑を伝統とする軍紀(風紀)の重圧に押しひしがれた下士官、兵のただひとつの
最後の抵抗が、火薬庫への放火による艦との無理心中であったかもしれない。
(エースパイロットの坂井三郎氏や羽切末男氏も水兵時代に制裁(リンチ)を受け
それが厭で堪らずパイロットを志したという。)

ともかく期待された戦艦陸奥は戦局急なときに敵に一発の砲弾も放つことなく周防灘に沈んだ。
事実、日本海軍では過去にも戦艦三笠(日本海海戦の旗艦)は2回(1905年と1912年)
の爆発事故を起こした。
1回目は、上陸を許されなかった古参水兵が、盗み出したアルコ−ル容器を弾薬庫で倒し、
流れ出たアルコ−ルに火がはいったのが原因という(沈没着底後後引揚上て修理)。
2回目は照準器を紛失した1水兵が処罰をおそれて火薬に点火したのだった。
1917年には、国産初の巡洋戦艦筑波も爆沈。
(上官の制裁を怨んだ1水兵が火薬庫の鍵を盗んで放火)。

1918年戦艦河内が爆沈(職務上の失策をした下士官が火薬庫に放火)。
このように昭和19年までは、戦闘で沈んだ戦艦より、
乗員の放火による爆沈のほうが多いことが判明してくるのである。
(昭和18年9月時点で戦争で沈んだ戦艦は、比叡、霧島の2艦のみ)

海軍は、装甲板を厚くする等の防御力向上よりも、水兵らによる
火薬庫爆破を防ぐための対策や人事マニュアルを策定すべきであった。
尚、日本海軍には酷な話になるが米海軍は平時も戦時も航海中は水兵にも
士官にも酒は飲ませないようにしている。

戦艦陸奥は、大和級(6万4千t)に次ぐ長門級(4万3千t)の2番艦と
して大いに期待されたが、戦局重大なこのような時期にこのような疑惑に
包まれた沈みかたをしたことに、日本海軍がある意味内面からも自壊しつつ
あった事を知ることができる。
当時大和級戦艦は、国民には全く知らされておらず、長門級の長門と陸奥の
両艦が国民に一番知名度のある軍艦であった。
残った1番艦の長門は、レイテ島沖海戦でも活躍し、その後呉軍港で防空砲台として活躍,
無事に終戦を迎えたが、戦後ビキニ諸島での米国核実験により被爆沈没した。

沈没した陸奥は戦後(爆沈より27年後)引き上げられ陸奥資料館が
平成6年山口県周防大島に開設された。
平成8年10月私は山口県周防大島の陸奥記念館を訪ねた。
観光客も少なく、館員もやる気が見えず、館内資料も思いのほか少なく
20分ほどで早々に退散した。

写真 当時の陸奥絵葉書と現在の陸奥資料館

1話・ 遅れた最後通告

日本が宣戦布告をせずに真珠湾を攻撃したことが六十年を過ぎた現在も非難されている。

ある国がある国と開戦ぎりぎりの緊張した段階に入ったとき、相手国の先制的奇襲に
備えるのは、いわば安全保障のイロハと思える。

奇襲に成功した側と、奇襲され敗れた側とで、歴史的に非難されるのは、
ふつう準備不足や油断して敗れた側である。

つまり日本軍の真珠湾奇襲自体に違法性はない。
この当時(1990年代)私はそう解釈していた。
21世紀の米軍もイラクに対して先制奇襲攻撃をかけている。

本来この時期の「日米交渉」とは長期化した「日中戦争=シナ事変」を米国に
和平調停してもらおうという考えからスタートしていた。
とくに米国と戦争する必要もないのに日本海軍は米国と本気で
戦い勝利しようとも考えていた。
日本陸軍は独軍がソ連に勝てばいいと夢想し、太平洋方面は南方資源地帯の
占領後は日本海軍だけが米国と戦えばいいと考えてもいた。

日本海軍は罪悪感からアメリカに気を使い開戦直前に(最後通告を出す)するつもりだったが
それでは真珠湾奇襲が奇襲とはならないので外務省と謀議した。

結果、海軍は外務省に対し、対米最後通告をわざと真珠湾攻撃直後に手交するよう
依頼し困った外務省本省は出先の米国の日本大使館員達の怠慢不手際で本省からの
暗号文書の解読にてこずったようなふりをして米側への1時間半手交を遅らす
ような開戦シナリオを立案した。

てこずった(わざと遅れた)理由は、暗号文書が長いとか、大使館内の米人タイピストを
使えなかった等とされていたり、同僚の送別会やトランプ遊びのために前日夕方
全員早めにに仕事をやめ退館したのだという。
今から考えると送別会は米国を騙し安心させる為におこなったとの見方もできる。
尚、日本の外務省(本省)から送られてきた暗号電報は太平洋に施設された
海底ケーブル経由だが米側はワシントン軍縮条約の頃からこの海底電線からの電報を
勝手に傍受?していたらしいのである。

ワシントンの日本大使館には海軍側の野村大使も日米交渉にきており、それを監視するよう
外務省本省からも来栖特派大使も参じており実は日本大使館内には緊張が漲っていたのでは
なかろうか。

とにかく無通告開戦の結果パリ不戦条約破りとなり「リメンバー・パールハーバー」
の一語がアメリカを戦争に結集させ戦後半世紀後の現在までもアメリカから
「日本人は卑怯だ。」と非難され続けているのだから日本海軍、
外務省で合作した責任は非常に大きい。

にも関わらずこれらの責任者や実務者に対する処罰は戦後も一切行われなかった。
3年8ヶ月後、の終戦(日本の敗戦)直後に外務省も人員整理が行われ
世界的にも有名な「命のビザ」を発行し6千人のユダヤ人を救ったと言われる杉原千畝
(すぎはらちうね)氏は終戦後に外務省を首になったがアメリカ大使館での実務的な責任者
である井口参事官、奥村一書記官は戦後外務次官(外務省での最高位)にまで出世している。

1990年半ばから外務省は拉致問題、領土問題、横領、勝手な中国援助等で
腐臭をさらけだすが昔から自分たちの組織を守る為には政治家も国民も騙してしまう
身内に甘い「仲良しクラブ」という性格は変わっていないと思われる。

最近の研究では「海軍」と「外務省」がグルとなり「対ソ戦」が始まると国家総力戦体制に
移行し「陸軍幕府」となると「海軍」や「外務省」は大幅に権力・予算も削られ人員縮小となり
陸軍への褌かつぎとなるのを恐れ海軍が主導作戦を取れるが勝ち目の無い「対米戦」
に準備不足のまま「長期持久」を夢見て突き進んだとと思われる。  
開戦原因に興味のある方は鳥居民氏の一連の著作を手にしてほしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E6%B0%91

はじめに

 私は歴史や戦争史の読み物が好きです。

特に極限時に見せるの人間の臆病、勇気は人それぞれですが、
私も先人の知恵と勇気を学び又かつ、追体験したいと考えた事や
平和ぼけした日本人の比率がドンドン増えつつある今、駄文を書こうと
思い立ちました。

ブログを閲覧する人も戦争を知らない若い方々が多いと思いますので時間があれば
この書庫を読まれてください。
感想は人それぞれと思いますが、、、、。

戦後も60年を過ぎ、太平洋戦争(昭和16年12月より昭和20年8月)も現代史から、
歴史に変わろうとしています。
私なりに、太平洋戦争に関わる人間の責任のあり方を主軸にして書いてみようと思いました。
書きながら思うことは、戦前に比べ日本人の道徳性が薄れつつあるとかの風潮を聞くが、
戦前も戦後60年経過した今も、日本人の精神(道徳性、責任感、発想)は大きくは
変化してないように感じました。

特に各組織の上層部の人達は一部の人を除き、自己保身が強く、意思決定に逡巡が多いうえ、
問題解決能力が不足していた事が判ります。

はっきり言って戦後の自衛隊が多くの国民から今ひとつ評価されてないのは、
先の大戦で軍が国民に対しあんなに空威張りしていたのに米軍(アメリカ軍)に
予想以上にコテンパンにやられたふがいなさからいまでも軍(今は自衛隊)に対し多く
の国民が頼りたい反面、多少の不信感を共有しているからだろうと思います。
(イラク派遣等で自衛隊のイメージは向上しつつあるようですが、、、)


尚、太平洋戦争では日本人の創りあげた組織では、平時は順調に機能しても、危機にひんした時
(戦争、災害、テロ集団対策)には、欧米型組織に比べ余り機能しないこともわかりました。
現在は当時よりどの部分がよくなり何処が改善改革されてないのかを問う事になりそうです。

拙い文章にお付き合いいただければ、幸いです。

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