涅槃までの14万歩!ハッピーリタイアできない100kmウォーカー

2017年11月にタイトル変更・・・中身は変わりません。 ぷらっとして行ってください。

◎知られざる歴史 目次

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20程前に大分県の国東半島を車で周遊した時に国東出身の日本人宣教師ペトロ・カスイ岐部(きべ)
(1587〜1639年)の事を知った。
家内の実家は国東半島でこの半島には歴史的におもしろく貴重なものが点在している。

ペトロ岐部の人生は常人では真似られない生き方である。
この時代ペトロ岐部より先に「天正遣欧少年使節」や伊達政宗家臣の
「支倉常長ら一行」が欧州カトリックの総本山ローマに渡ったが
彼らは南蛮人の案内で往復した云わば「旅行」であるのにペトロ
岐部の日本〜ローマ往復は「死(殉教)への冒険」であった。

1614年禁教令でマニラに国外追放されたペトロ岐部はマニラで神学を学んだ。
しかしイエズス会宣教師は「神の前の公平」を説いたが内心は日本人への差別心も
内包しており岐部がいくら勉強してもマニラでの「司祭」への道は閉ざされていた。
つまりイエズス会は日本での布教には積極的だが日本人信者を高位に昇格させる
予定は無かったという事だろう。

1618年岐部はマニラを出て「司祭」の資格を目指しインドのゴアに上陸。
そこから単独でパキスタン、イラン、イラク、ヨルダンを徒歩横断又は船に
水夫として乗り込みしエルサレムを巡礼し1620年ローマ市にたどり着く。
(日本人のエルサレム巡礼第一号は1906年の徳富蘆花と書かれた書物が多いが岐部は
 その300年前に訪問している。)

ローマには「マニラの司祭」から「オペドロ岐部がローマに行くかも知れないが受け入れるな」
との回状が届いておりローマでの岐部の信仰、生活も危ぶまれた。
しかし岐部の情熱や人間性にカトリック上層部も目を止め、ついに岐部はローマで
司祭の資格を得た。
(つまりこの時期日本人宣教師の最高資格者となる)
しかし、その後も岐部の神への信仰心は揺るがない。
その後リスボンから海路 マニラに戻り「布教の最終地、日本」を目指す。
日本はすでに「鎖国」に突入していたがリスボンを出て8年後にの1630年
鹿児島県の坊津に岐部は隠密上陸(日本へは16年ぶりの帰国)する。

この当時の日本は最もキリスト教徒を弾圧した時代で先の少年使節の中浦ジュリアン
神父も殉教し、有名なフェレイラ神父も「背教」するなど「耶蘇禁教弾圧」の
最終的な仕上げ段階であった。
その後岐部は長崎から東北に活動の場を移し活動を続けたが密告され1639年に捕まる。
(宿主に迷惑をかけられず自ら捕まったとの説もある)

捕まった後の岐部の信仰の態度凄まじい。
フェレイラ神父はじめ殆どの者が一時にしろ「背教」を口にしたりしたが
岐部は一言も発せず背教したフェレイラ神父と対面した時も
「奉行所に背教を撤回し一緒に神の元へ参りましょう!」
と励ましている。
尚フェレイラ(沢野忠庵と改名)最終的にはこれを断っている。
岐部や信者への拷問の様子を徳川3代将軍家光も時おり観ていたらしい。

1639年7月4日穴吊りに処されたが最後まで棄教せずついに斬首され殉教した。
(岐部は数人の同じ穴吊りの信者達を励ましていたが岐部の斬首後、信者達はすぐ棄教した)
こう書いていると悲しくなるのだが岐部の凄まじい部分はエルサレム巡礼やローマでの
司祭叙階、日本への帰国、活動、殉教を全て完全に「自分の意思」で行なっている点である。
世界を一番歩き見聞もあった日本人の波乱に満ちた生涯ではあろうが、、、何か釈然としない。
(何処かの本かHPで日本のマルコポーロとう表現もありましたが。)

何故かペトロ岐部関連の書物は少なく私が読んだ本は
遠藤周作の「銃と十字架」松永伍一の「ペドロ岐部」の2冊くらいである。
残念ながら映画化もされてないようである。
ペドロ岐部はもっと多く日本人にも世界中の人にも知られていい。
その勇気に満ちた行動は今後もペドロ岐部を認識する多くの人を励ますだろう。

国東半島の国見町にあるペトロ岐部の立像は四国の方(東)を向いておらずローマ
(西)の方をみつめているという。
マザーテレサは死後6年で「福者」と既に聖人化しつつあるが
ペトロ岐部も死後400年近くを経て正式に「福者」となるようである。

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日本での近代登山の父は19世紀に来日した宣教師Wウエストン(英国人)
と多くの書物で紹介されている。

たしかにウエストンは明治21年(1888年)から15年間日本に滞在し
勝手に日本アルプスと命名したり南北に区分けしたり、穂高、槍ヶ岳、等にも初登頂した。
しかし槍ヶ岳は江戸時代1824年に日本人僧の播隆が宗教的情熱から粗末な
登山装備ながら初登頂を成し遂げていたのである。

ウエストンの来日時期に困難で登頂できなかった代表的な山が北アルプスの
剱岳(つるぎだけ)である。
ウエストンが去った20世紀に入っても剱岳は地元でも未登峰とされていた。
この当時一番先鋭な山登りをしていたのが陸軍参謀本部陸地測量部
(以下陸軍測量部と記す)であった。
登山目的は地形図作成(もちろん戦争目的)に必要な三角点の高所への設置が主であった。
陸軍測量部内でも剣岳(2999M)登頂は困難と思われており実際に
三角点を設置しても雲より高すぎて視界が得にくく測量の実用性のない
場所とされていた。
しかし民間団体の、日本山岳会の発足で状況が変わる。
日本山岳会は陸軍測量部が登り残していた「剱岳」の初登頂を会の
目標にかかげ陸軍測量部に挑戦してきたのである。

陸軍参謀本部も日本山岳会に先を越されては「面目丸つぶれ」と熱くなり
ベテランの柴崎測量官を隊長にかつぎ、山岳会と登頂を競いあった。
どちらも中々登頂できなかったが1907年7月に残雪を上手く利用して
陸軍測量部が初登頂に成功した。
しかし、喜びも一瞬で頂上には大昔のものと思われる錆付いた鉄剣と銅製の
錫杖が置かれていた。
また古い焚き火跡もあったという。
つまり、柴崎芳太郎らが初登頂ではなく、大昔(8世紀頃)山岳密教の関係者
達に登られていたようなのである。
この貴重な2点の遺物は立山博物館に今でも展示されているらしい。

実は8世紀の日本は空海らによる山岳密教が最も盛んで、当時世界でも最大
規模の登山隊が1グループでは無く数グループ存在したようである。
槍ヶ岳、北岳、富士山らの高山だけでなく英彦山、大山、大峯、鳥海山、
等100名山クラスの見晴らしのよい山は登られて開山していたのである。
そう考えれば戦国時代の佐々成正の北アルプス越えも納得がいくのである。

余談だが私も1992年夏に剣岳に登頂し本峰南面のカニのタテ這い・ヨコ這い
と呼ばれる難所である鎖場で苦労したのであった。
日本百名山の「剱岳」を目指す方は年齢の若いうちに登られたほうが良いと
思います。

尚、山岳関係者によると「つるぎだけ」は「剣岳」は駄目で「剱岳」らしい。
私はそこまで山岳会が言うのなら北アルプスとか言わずに「飛騨山脈」「木曽山脈」
と呼称してほしいと思う。

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明治の大文豪で知られる森鴎外(本名 林太郎)の本職は陸軍軍医であった。
東京帝国大学医学部卒業後、ドイツ留学、を経て陸軍軍医総監まで出世、昇進した。
しかし陸軍軍医総監時代の行動、対応・処置が拙すぎる。 
薬害エイズで問題になり裁判被告となった故A教授と変わりない。

明治時代、栄養失調(ビタミンB1不足)から起こる脚気(カッケ)
という病気は原因が不明であった。
明治中期陸海軍は脚気という病に共に悩まされその解決方法も競い合った。
陸軍は森鴎外を中心に「細菌による感染症」と言い張り、
海軍は高木兼寛が「ビタミン不足を補う為、米食(白米)から麦飯への変更」
を主張した。
陸軍側では脚気問題を解決できなかったが海軍側では明治17年頃から
長期外洋勤務の艦内食を白米から麦飯に切り替えた処、脚気患者は発生しなくなった。
(それまで外洋勤務が長いと発症から死亡が多かった。)

陸軍も海軍式の麦飯に習うかと思いきや、
森鴎外はあくまで自説(細菌感染)を主張し続けた。
その結果、日露戦争でも陸軍は脚気対策を怠り前線兵士に恐ろしい災難を招いた。
(薬害エイズと同様に人災である)

脚気対策を明治17年頃終えた海軍に対し陸軍は森鴎外のプライドと面子から
「海軍の対策は科学的根拠なし」として真似ようとはしなかった。
その後、国外での戦争が始まると陸軍の脚気病患者は急増した。
海軍の食事改善後も陸軍と森鴎外はその後20年も放置した事になる。


明治27年の日清戦争
戦死者 293名 脚気による戦病死者3.944名(戦死者の約13倍)
(戦死者、戦病死者の合計で4237名程死亡したことになる。)


明治37年の日露戦争
戦死者 47.000名 脚気による戦病死者27.800名
(戦死者、戦病死者の合計で7万5千名程死亡したことになる。
 日露戦争での脚気を発症した兵士の総数は21万人という。)

日露戦争中は陸軍兵士達にも「海軍は洋食と麦飯」で脚気患者はいないが
陸軍では脚気で倒れて死んでいく事の矛盾が「噂」となっていた。

陸軍が最終的に脚気予防の為、パン食(乾パン含む)と麦飯に変えたのは
明治40年頃である。
この時陸軍上層部では医学関係者の最高位に位置する森に対しついに
痺れをきらし軍中央から地方への左遷人事を行い森鴎外も事実上の
「解任」と受け止めて陸軍を去った。

森と陸軍上層部のプライドと面子の為に海軍では日清日露戦争中に脚気に
よる死者が発生しなかったのに陸軍ででは3万名以上が無くなった。
私は薬害エイズ被害患者(兵士)と厚生省(陸軍)、故A教授(森鴎外)
の相関に近似しているように思える。

森はその後、文学に専念し、乃木大将夫妻の「殉死」に影響を受け「阿部一族」
等の「殉死」文学を完成させる。
しかし自分がが死ぬまで脚気による死者への謝罪、葛藤、反省の表情は見られなかったようである。

尚、当時の麦飯は現在と異なり臭く不味く「囚人食」と云われ兵士達には敬遠されていた。
軍隊の楽しみといえば「白米」を食べられる事であった。
実際には、白米食は太平洋戦争でも「主食」であり南方で腐りやすく(保存困難)、調理(炊込み)
しにくく、水が必要でパンに比べると明らかに不利だったが敵に近いジャングル内で煙の出る
危険性を犯して飯盒炊爨を行なった。
太平洋戦争当時の日本軍は明治の脚気に苦しめられた先人の苦労も忘れて
「パンや麦食ってまで戦争に勝ちたくない!」という意識が一部に働いていたように思える。

海上自衛隊は実戦には参加していないが少しは戦果は存在する。

第十雄洋丸撃沈事件1974年

当時日本最大のLPGタンカータンカー第十雄洋丸(4万3千トン)とパシフィック・アレス号が
東京湾内で衝突、両船は激しく火災炎上した。
巡視船らが消火活動を行なったが消火できない。
火災が治まらないまま両船は風や湾流に流され横須賀港の2キロまで迫った。
必死の作業で策(ロープ)を着け巡視船で東京湾200キロ沖合いに牽引した。
ナフサ等の燃料が6万トン搭載されており何ヶ月燃え続けるか判らない中、船会社は
「船体も処分して欲しい」と海上保安庁に申しでる。

ここでついに海上自衛隊に撃沈命令が出る。
満を持した自衛隊は航空機、護衛艦、潜水艦の全力で攻めかかる。
潜水艦の魚雷4発(命中2発)、護衛艦の主砲弾72発、航空機のロケット弾16発、
爆弾12発を発射し、ようやくタンカーを沈没させた。
このとき魚雷の威力が「弱い」と問題視されたが自衛隊によると新型の73式魚雷を使用
するとその威力がソ連(当時一番の仮想敵国)察知されるのでワザと旧式魚雷(MK37)
を使用したという。
私はこの当時高校生だったが新聞で自衛隊の使用した武器弾薬の調達価格の高さに
呆れた事を覚えている。
各1発の値段(今なら3倍以上するのではなかろうか?)
5インチ砲弾     3万7000円
127ミリロケット  3万5000円
対潜爆弾       24万円
魚雷         1700万円  
合計すると8千万円はする。
私の初任給は5インチ砲弾三発分であった。



A−6イントルーダー撃墜 1993年

護衛艦ゆうぎりがリムパック(日米合同演習)参加中に米海軍の標的曳航機A−6
イントルーダーをファランクスCIWS(20ミリバルカン機関砲、1分間3千発以上発射可能)
の誤射により、撃墜するという事故を起こしている。

A−6機は標的となる吹流し(鯉のぼりのようなもの)を500M以上あるロープで
牽引していたが吹流しでなく牽引機をレーダー照準し、発射、撃墜した。
米軍パイロット2名は無事だったという。
特に米軍からの抗議は無かったという。

これらは実戦参加では無いが日頃の演習とは異なる、「実物」を攻撃した事で隊員達の
士気は向上したのではないだろうか?

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(極秘任務)
米重巡洋艦インディアナポリス号は1945年3月31日(沖縄本島上陸前日)
沖縄海域で日本海軍特攻機の命中爆発により9名が死亡、20名が負傷 艦は中破。
修理のために米本土まで帰り修理を受ける。
修理完成後に広島、長崎投下原爆の部品を搭載してサンフランシスコを7月16日出港
ハワイ経由(給油のみ)でマリアナ諸島のテニアン島に急行し、7月26日原爆部品を降ろす。
この部品を組み立てB29が出撃、8月6日広島、9日長崎の原爆投下が行われた。
極秘任務を終えたインディアナポリスは7月28日フィリピンのレイテ島めざしててグアム島
を出港した。

(撃沈、漂流、人食い鮫)
7月30日夜グアム、レイテ島の中間地点で伊号58潜水艦の魚雷攻撃を受け2本が命中。
伊号58潜は人間魚雷回天を装備していたが橋本艦長は通常魚雷を発射し命中させた。
橋本艦長は日本海軍の中で当初から潜水艦への電探、逆探の装備を推進した人物である。
また安易に人間魚雷を発射しなかった点にも品格が窺える。
余談だが伊号58潜がテニアン島に寄港前にインディアナポリス号を撃沈していたら
どうなっていたであろうか?
   
応急処置の間もなく12分で沈没この時、乗員1199名中約300人が死亡したと考えられる。
米軍はインディアナポリス号沈没の確認と発見に遅れをとり5日後に発見救助したときに救出
された漂流乗員(生存者)は316名に過ぎなかった。
つまり魚雷命中、沈没と漂流で883が死亡し人命尊重が重視されるアメリカでは大問題と
なった。
アメリカではこの事件は太平洋戦域での一番大きな人的被害の多かった沈没とされている。
漂流中の死亡原因は鮫(サメ)に喰われた事と食料、水の不足であったという。
1970年代に大ヒットした人喰い鮫映画「ジョーズ」はこの史実がモティーフという。
8月15日日本は降伏する。

(軍事法廷)
アメリカ海軍上層部はインディアナポリス撃沈と「乗員の大量死」を秘密にしていたが事件から
1ヶ月で戦争は終わり厳しい国民の審判に晒される時が来た。
インディアナポリス号の艦長マクベイ大佐は撃沈の際も生き延び漂流中も残りの部下達を励まし
続けた勇敢で有能な指揮官であった。
しかし約900人にも及ぶ「大量死」は誰かが責任を取り犠牲になるしかなかった。
軍法会議が開かれたが元マクベイ艦長に批判が集中した。
(軍上層部がマクベイ艦長に責任を押しつけた感が強い)
日本から橋本元艦長も軍法会議召集させ証言を行った。
当時マクベイ艦長は敵潜水艦に注意してジグザグ航行をしていたか?
が争点になった。
橋本元艦長は「距離1500mで魚雷6本を扇状に発射、直進でもジグザクでも命中した」
と証言した。
橋本元艦長の証言でマクベイ艦長は「有罪」とはならなかったがデスクワークの閉職となり
それまで順調だった海軍人生も終わり実質「限りない有罪」と看做された。
その為、マクベイ元艦長のもとには嫌がらせの電話や手紙が毎年多数届き
苦しんだ末に1970年に拳銃自殺した。

(死後30年後に元艦長の名誉回復)
その後1990年代に11歳の少年ハンター・スコットが映画「ジョーズ」をみて
インディアナポリス号の撃沈とマクベイ元艦長の自殺に興味を持った事から急転する。
スコット少年は小学校の課外活動「歴史発掘コンテスト」にこのテーマを取り上げ
スコット少年の両親も協力し、図書館、インターネットで調べ上げるが生き残り乗員の
証言が必要と判断し新聞に「証言を求める広告」を出し名乗りを上げた残り少ない証言者
達に「電話」「手紙」「訪問」で証言を集めていく。
この少年の熱心な真相究明活動に全米メディアが注目するようになり上院議会にもスコット
少年は出席し世論を動かしついに2000年マクベイ元艦長の名誉回復は行われ
クリントン大統領も「彼はインディアナポリスの損失に対し無罪である」という議会決議書に
サインした。
ハンター・スコット君は2007年で21歳になるという。


参考文献
「少年が救った提督の名誉」文芸春秋社
「伊58潜帰投せり     学習研究社


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