涅槃までの14万歩!ハッピーリタイアできない100kmウォーカー

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戦前日本(大日本帝国)と石油

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日露戦争直後からの石炭(固形燃料)から石油(液体燃料)への世界的な大きな
動力エネルギー転換時期に残念ながら明治対象の日本の要人達は乗り遅れ、気がついた時は、
世界列強国の石油獲得に周回遅れとなりました。
これは戦前日本、特に最大消費者であった海軍の様々な施策の中で最大の失敗
ではないでしょうか?

ここで軍艦動力についておさらいしますと古代の奴隷動力を主とした手漕ぎ軍船から、
ギリシア時代前後より風を利用した帆船に長い時間をかけて切り替わり帆船は発達を続け
16世紀にには西洋人により世界周航も可能になりました。
帆船は風力により遠距離に移動可能でしたが海流や風力風向きの自然の影響を強く受けました。
19世紀の汽船時代にいりますと石炭で罐を焚き発生した水蒸気でタービンを廻し
スクリューや外輪を廻し自律的に動けるようになりました。
しかし革新的な蒸気船にも二つの欠点がありました。
ひとつは風力から石炭に変えたため石炭を積出港が各地に必要となりました。
石炭を船に積み込み労力や時間、石炭搭載量にもよりますが帆船より結果的に航海距離が
短くなりました。
また、それ以前の食料としての水とは3ケタ違いの水蒸気を発生させる「真水」の確保も
大変でした。
ちょうど日本の外国船打払令の時とかさなりますが水や石炭を求めて以前より航続距離の
短くなった各国の蒸気船が日本周辺をうろつくようになったのもそれなりの理由が
あったようです。
黒船に驚きつつも西洋文明に感化された日本は海軍力にも注力し石炭焚きの軍艦を欧州から
買い込み日清日露戦役では勝利いたします。
清国やロシアの石炭は燃焼力の弱いベトナムや日本の三池炭でししたが日英同盟後の日本は
同盟国の英国より良質なカージフ炭を使用する事ができ常に敵艦隊より優速であり続ける事が
でき戦闘の主導権を握ることができました。

ようやく次に石油時代の到来ですが石油の利点は液体燃料のため船への積み込みが簡単省力化され、燃料タンクを大きく設ければ石炭焚き船に比べ大航続距離を可能とする事ができ従来の
石炭ボイラー焚きの20ノット前後から、石油と燃焼ボイラーで30ノット以上の高速の
発揮も可能となりました。
石油時代に入り高速、大航続力を両立させる事が可能となったわけです。

実は英国を中心とする列強は19世紀末から次世代燃料として「石油」に目をつけ各国が
水面下で秘密裏に獲得に向け動きまわりますが残念な事に日本は完全に出遅れました。
英国は1903年国内に石油備蓄基地建設しビルマ油田からの石油の貯蔵をはじめました。
更には中東(イラン)の石油油田を1908年獲得し1910年から軍艦の動力源を石炭から
石油に一斉に切り替えました。
米国も元メキシコ領のテキサスから油田が溢れ出し幸運な石油時代のスタートをきりました。
何と米国では有り余る国内石油に目をつけ1864年(明治維新の4年前)から石油ボイラー船
の開発を行っていました。
オランダも1883年にロイヤルダッチ・シェル社を英国のシェル・トランスポート社と
合弁させ蘭印(インドネシア)の植民地を「金のなる木」としました。
その時、未だ石油の重要さに気づかない日本海軍は石炭の改良品加工品であり燃滓(もえかす)
の少ない練炭の製造装置をフランスより買い求め御満悦でした。
日本国内でも質の悪いながらも石炭が産出されてましたので海軍としては石炭への執着が
あった事は理解できるのですが英国のように良質な国内炭がありながら石油に切替えた英断の
はやさや世の中の先を見通す軍人や選良は近代の日本に少なかったようです。

次回不定期ながら
【三】日本海軍の石油獲得への怠慢と本音 その2(日本海軍の本音)
に続きます。

【一】 戦前日本の石油事情


最古の正史と伝えられる日本書紀にも現在の新潟県胎内市産と思われる石油が「燃ゆる水」として
朝廷に献上されたとの記述もあるそうですが近代まで石油が有用に利用される事はなかったようです。
太平洋戦争の開始前は日本国内では海軍が最大の石油消費者であり続けましたが昭和12年から
はじまった支那事変により陸軍も海軍なみに石油を欲しがるようになりました。
それまでガソリンで走っていた民間の自動車(バス・タクシー)は木炭車に改造され木炭ガスで
走れるようになり国内すべての民間バス・トラックは昭和17年までに木炭車に改造されました。
つまり統制経済により戦略的に貴重な石油は陸海軍が中心に使う事と決まりました。
昭和15年当時陸海軍を中心に日本国内で年間400万キロリットル(以下kl)前後の石油を
消費していたようです。
当時日本国内でも30万kl前後の石油は産出されていましたがこれでは消費量の6〜7%の需要を
満たす事しかできず石油はの大半は外国(特に米国)からの輸入でした。
ちなみに現代の日本は2億5千万klと戦前の60倍の使用量となっており国内から産出できる石油は
約100万kl弱ですので国内自給率に限れば0.3%と戦前の7%台よりも悪化してます。
(その他に、国内備蓄量の問題もあるわけですが・・・。)


戦前の石油の輸入量もだいたい年間500万klでしたが、何と全輸入量の8割近い石油を日本海軍の
仮想敵国第一位とされる米国からの輸入に頼っていました。
日本海軍は仮想敵国である米軍から石油を買い続け、もし戦争が始まると米海軍が日本に攻めて来る
との想定でマリアナ沖や小笠原沖で迎え撃つべく漸減邀撃作戦を30年以上も演練を重ねてました。
もしかして20世紀の日本海軍は米国を川中島での上杉謙信のように戦闘中に「敵に塩(この場合石油)を送る」とでも思っていたのでしょうか?
また結果論となりますが当時の日本海軍は米軍との短期決戦ばかり夢見てばかりでシーレーン防衛、
対潜作戦、レーダー開発、対空兵装、航空機用大馬力エンジン、仮想敵国の暗号解読等多方面でも
遅れをとりつつありました。
しかしこれら多くの怠慢も石油が管掌できていたら大きな問題にはならずにすんだかもしれません。
もし昭和16年時点までに日本が石油の消費分を超える産出地を確保、又は油田を確保・開発できていれば
無謀な対米英戦に突き進む事は無かったと思われるからです。


日本海海戦のパーフェクトな大勝利に酔い呪縛された歴代海軍参謀の頭が「艦隊決戦」から自由に
なれなかったようです。
米軍が攻めて来るなら史実通り圧倒的戦力差で責めてきますから、得意の「艦隊決戦」といえども
どの様に戦い護っても戦前の日本海軍には勝ち目はありませんでしたが、性懲りも無く図上での
漸減邀撃作戦の改定を繰り返しました。
しかし昭和10年代に入り日本海軍は米海軍に勝つべくアウトレンジ(オーバーレンジ)戦術という
摩訶不思議な戦術を編みだします。
航空戦でも砲撃戦でも魚雷戦でも敵の射程圏外から(より離れた間合いから)日本海軍側のみが
連続攻勢できるような飛行機、大砲(砲弾)魚雷、潜航艇等を創りだしました。
でも日本の海軍機は航続力は優れていたものの、兵装搭載量が少なくかつ機体の防弾装備が弱く
敵艦に辿り着く前に墜されました。
自慢の大艦巨砲主義の大砲も米海軍のレーダー射撃の前に遅れをとり自慢の夜戦も通用しなくなり
野戦でも昼戦でも優位性が消え逆に米軍の航空優勢下において敵艦隊に水上部隊が近づくこと
さえ難しくなりました。
射程40キロ(射程40キロだと到達まで40分以上)を誇る自慢の長射程酸素魚雷もそもそも
調整が難しいうえに、大射程に頼った遠距離雷撃では米艦に簡単に回避され戦争後半は役にたたず
むしろ危険な酸素と火薬を艦内や甲板に装備する事で対空戦等で不利となりました。
どうも日本海海戦当時の「肉を斬らせて骨を斬る」発想から「敵の威力圏外からの攻撃」を重視し
結果的に攻撃力はあるものの防御力の弱い艦や飛行機を造り「攻防のバランス」が欠けていたよう
にも思えてきます。

本来なら日本海軍は石油が失くなってから米国と戦おうと思いつきで考えてみたりオランダ領東インドの石油を無茶な手法(脅しや戦争)で確保しようとするよりも、それ以前により合法的に石油を管掌すべきでした。
世界全体が石油動力に切り替わり30年も経過していた時代に戦前日本は石油を合法的に手に入れる事に関してはことごとく失敗しました。
次に何故、戦前日本は石油の獲得にこうも出遅れたのかを少し見てみたいと思います。


次回不定期更新になりますが
戦前日本と石油 【二】日本海軍の石油獲得への怠慢 その1 (日本海軍の石炭好き)
に続きます。

【はじめに】 開戦原因となった石油の枯渇

戦前の日本は支那事変(日中戦争)開始に伴う石油需要逼迫に対し中国よりの米国からの
石油輸出禁止措置でやむなくオランダ領東インドネシア(現在のインドネシア=当時は蘭印)
の石油産出地を確保する為にに大東亜戦争(太平洋戦争、対米英戦)を日本側から仕掛けた
とされている史観が一般的のようです。
私が生まれたのは戦後ですが子供の頃、母や祖母から戦時中「ガソリンの一滴、血の一滴」なる
スローガンが存在したと聞いた記憶もありますし、当時の昭和40年代は太平洋戦争という言葉
とならんで「石油戦争」なる言葉も書物の背表紙等でみた記憶があります。

開戦の理由については左翼・右翼の主張、では前者(左翼)は日本の膨張・侵略主義とか、
後者(右翼)は米国や、支那・ユダヤの謀略に嵌められやむなく戦争に突入したとの相反
する手前勝手な論調が多いようです。
共通点は昭和16年からの米国からの本格的対日石油禁止の措置に対し、日本側が
蘭印石油資源奪取のためにその邪魔となりうる米、英、に対して奇襲開戦(マレー上陸作戦、
真珠湾攻撃)を行い戦争状態に移行した事は事実のように思えます。
日本は米国との外交を隠れ蓑に真珠湾奇襲を1年半前から構想していたようにも思えてきます。
しかしここでは真珠湾攻撃の是非には進まず戦前の日本と石油の事について触れてみたいと
思います。

私はABCD(米、英、中、蘭)包囲陣なる言葉は戦後の左翼系の造語のような気がしています。
昭和15年夏以降はオランダ(蘭)は本国を占領されておりインドネシア(蘭印)には
植民地軍しかいませんでしたし、中国とは4年前から事実上戦争状態ですし英国は
逆に日本を刺激しないようにマレーや香港の軍隊も兵力を抑えていました。


石油資源の獲得だけが目的ならば蘭印だけにたいしての宣戦布告又は武力進駐で済みそう
なものですが、当時の日本は台湾より南方の策源地(軍港や基地)は存在せず、蘭印石油を
獲得するために海上交通路の妨げとなる、英領マレー・香港、シンガポール、米領のフィリ
ピンも放置したままだと、蘭印の石油を手にしても日本への還送(輸送)に支障をきたす
恐れが多分にあり、最終的には支那事変中(事実上の日中戦争)や満洲への大量動員で国力
(特に経済・産業面)が弱まりつつある中、更に結果的にも無謀である全面戦争へと突入
していったように思えるてくるのです。

もちろん昭和16年の夏ともなれば大日本帝国としてもこのまま禁輸が続くならば、
未だ石油がある内に米英と開戦するか、米国に膝を屈し中国戦線より撤兵するかの
二者択一状態でしたが、かたや昭和16年6月から独の奇襲ではじまった独ソ戦で独の
勝利を信じた日本陸軍や外務省も(希望的観測で)海軍の石油ジリ貧論に同調しだし
無謀な対米英戦にひきづられていきます。
他力本願な独ソ戦のドイツ勝利を信じ込んで対米英戦に突き進んだ大日本帝国でしたが
開戦日となる12月8日にはドイツ軍はソ連の首都モスクワ40キロ手前から撤退を
開始するありさまでした。
大日本日本帝国の要人達の先読みの甘さがあったのかもしれません。

ここでは日露戦争後から大東亜戦争(太平洋戦争)までの期間、戦前の日本、中でも
海軍の動きを中心に戦前の日本と石油に纏わる話を記してみたいと思います。

 次回 不定期ですが
【一】 日本国内の石油事情 に続きます。

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