日本が敗戦した1945年の8月(昭和20年)海外には日本人は
660万人以上もいました。
中国大陸にも300万人以上の日本人がいました。
大まかですが日本軍人105万人、日本人100万と云われています。
他はソ連占領区の満蒙、朝鮮半島・台湾などです。
異国の丘 この曲は軍歌ではありません。
終戦時、支那通として知られる日本陸軍の岡村大将が現地支那派遣軍
(日本軍)のトップでしたが、日本の政府や陸軍省の云う事を聞かず
独自に蒋介石らと停戦交渉を行い、毛沢東の共産軍には降参せず、
蒋介石の国民党政府には降参するが降参後も日本軍は帰国復員まで
武器を保持したままでした。
蒋介石 岡村 寧次
この停戦や武装解除は蒋介石に理解を示す日本人も多いのですが
蒋介石側からすると日本軍がこれから敵となる共産軍に降伏すると
共産軍の戦力が増加するのでやむなく日本軍自身による降伏後の
自治を任せたのでしょう。
尚、中国北部では心ならずも毛沢東率いる共産軍に降伏した部隊や
占領された土地の日本人は酷いめに遭遇しています。
1946年2月には中国共産軍に拘束され引揚できない日本軍民との間に
通化事件が起き日本人が一方的に3千人虐殺される事件も発生しています。
1937年の通州事件とは全く関係ありませんがどちらも
多数の日本人が虐殺されてます。
そういう意味で満州や朝鮮半島に樺太等に比較すると日本軍民の
中国からの引き揚げは比較的スムースに行われたようにも思えますが
交渉で必ず見返りを要求するのが中国的クォリティです。
一部の地域(山西省等)では日本軍は国府軍やに地方閥に
協力を求められ毛沢東の共産軍と戦う状況に追い込まれ
終戦後から数年で日本軍民は約5万人が戦病死・行方不明になっております。
つまり岡村大将と蒋介石や地方閥軍との謀議により早く帰国できる
はずであった日本国民が終戦後に共産軍との戦いに巻き込まれ
死者行方不明5万人という膨大な犠牲者が出ておりますが、
日本政府も山西省等では元日本軍の兵士が勝手に残留したとして
相手にしてないようですが私はソ連軍のシベリア抑留についで大きな
戦後の事件じゃなかろうかと思います。
日本側も終戦時に中国大陸からの民間人の引揚に積極的でなく
「現地自活」を方向づけたり暗に「棄民政策」を採用しようと
したり全体的にに消極的でしたが米軍の協力もあり大連港や
葫芦島から多くの日本人が引き揚げています。
葫芦島からだけでも105万人が帰還したといわれてますが葫芦島
周辺には多数の日本人の御遺骨が埋められているそうです。
また中国北東部や満州朝鮮半島では日本への引揚の犠牲者として
終戦後5年経過した1950年に残留者?3万名、死者15万名、
行方不明2万名、合計20万人以上の数字を算出しています。
この中国大陸での終戦から引揚(復員)にともなう最中の
約5年間で20万人近くの犠牲者数は東京空襲10万人の犠牲者
より大きく、沖縄戦の軍民20万人、広島・長崎原爆の犠牲者数
約20万人と横並びの「数字」ですが忘れられた「数字」
となりつつあります。
運の悪い人を除き大半の日本人は1946年中に中国から日本に
引きあげますが、岡村大将は東京裁判での戦犯から逃れようと
最後まで中国に匿われていましたが東京裁判が終わると
1949年に日本に帰国いたします。
結核という仮病まで使って戦犯から逃れようとした岡村大将と
岡村大将を4年間も匿った蒋介石との間に何もなかったという
のは不自然だと思います。
尚中国側でも岡村大将の処遇について色々あったようで中国側で
岡村大将を戦犯裁判で裁き有罪とし蒋介石の温情で「無罪」と
しています。
1949年民間人となり日本に五体満足で帰国した岡村元大将は
帰国後も懲りずに旧軍人(部下)らをかき集め人選し非合法組織
「白団=ぱいだん」という軍事指導組織をつくり毛沢東との国共内戦に
敗れて大陸から台湾に逃げ込んだ蒋介石らの救援に日本を密出国させ、
台湾防衛作戦に協力させ、事実台湾海峡の金門島での戦いの
作戦立案や戦闘指揮を行っています。
その後1960年代になると米軍時顧問に替わり累計80人以上も
存在したとされる旧日本軍将校団(白団)は日本に帰国し多くは
自衛隊に再仕官されたようです。
やはり白団の台湾派遣は「防共目的」で日米と蒋介石の台湾で
思惑が一致してたのでしょうか?
また岡村元大将は戦前は敵であった蒋介石を戦後派「聖人」
と表現したり感謝してますが感謝への自己表現が白団ならば
戦後83名の元部下を台湾に密行させるより一兵卒として御自身が
先ず密出国するべきだったのではないかと思います。
このあたり戦後に完全責任を120%果された今村均大将
に比較するのも失礼ですが人として岡村大将は劣ってるようです。
中国からの引揚復員について岡村大将と蒋介石らの間にネゴは
あったのでしょうがソ連支配地、や共産党支配地、朝鮮半島経由
からの日本への引揚に比較しますと一部を除きスムーズに行われた
点では岡村大将の個人腹芸も評価されるべきなのかもしれません。
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永かった日本軍と中国との戦争は昭和20年日本の降伏で幕を閉じますが、
戦争開始については昭和6年の満州事変から始るとする「15年戦争説」
昭和12年からの盧溝橋・第二次上海事変が発端のシナ事変からとの
「8年戦争説」の両説が有名というか今も向い合ってます。
どうも左翼側は「15年戦争」を主張していますが、私は昭和12年以降が
日中戦争と呼んで良いのではなかろうか?と思います。
(ちなみに岩波書店等からの出版物に15年戦争と書かれた書物が多いです。)
昭和12年以後は毎年、日本軍も中国との戦いで4万〜5万人が戦死し続け、
最終的に8年間で47万人前後が中国大陸で戦死しました。
この47万人という英霊の数はもちろん多すぎて各地の神社や
忠魂碑の戦死者の名前も多すぎて彫られなくなったりしています。
逆に日中戦争全期間の中国側の軍人?戦死者は140万人前後とか昔、
本で読んだ記憶がありますが中国側の戦死者や民間犠牲者の合わせた
数は増え続け日中国交回復時の1970年代で約1000万人前後、
80年代、90年代も中国側の日中戦争の犠牲者数は増え続け現在では
3000万人前後もが日本軍の侵略戦争?で亡くなったと
日本側に真顔で通告してきています。
私は太平洋戦争で200万人の日本軍の犠牲の対価として
米兵を10万しか殺せなかった日本軍が、中国国民を8年間で
3000万人も殺したとは普通に考えて無理があると思います。
もし15年で3000万人の戦死や殺害があったとすれば一年間で
200万人ですが、この数字だと毎月、彼らの主張する南京大虐殺
(30万人説)が毎月行われてようか感覚に陥りますね。
8年戦争説でもし3000万死亡なら毎年400万人が死亡してた
ことになります。
ですからいくら中国が犠牲者3000万人説を今後主張しても
ノーマルな日本人は本気にしないほうが精神衛生上もいいでしょう。
終戦直後に話を戻します。
1945年9月2日、米戦艦ミズーリ号での降伏調印で太平洋戦争は終結し
日本は敗戦国となりました。
8月15日を「敗戦(終戦)記念日」と表現が主流ですが、これは敗戦を喜ぶ
「反日思想」ではないでしょうか?
たしかに「日本は負けたほうが良かった」という大人も戦後はたくさんいたようです。
私の父や母も昔の私が小学生の頃
「日本が負けて一時は苦しかったが4.5年して戦前より良くなった。」
とか言っていたような記憶があります。
実際には日本が昭和12年日中戦争開始前の国力に戻るまで戦後も
12年(昭和32年)を要したのです。
戦争で負けた日を国民を喜ぶようではその国、その国民の将来は
あまり明るいものではないようにも思えます。
1945年9月2日の米戦艦ミズーリ号の降伏調印への出席へは、
戦時中事のほか威張っていた政治軍人達は屈辱と感じ嫌がりましたが
陸軍参謀総長梅津大将がやむなく出向き渋々と署名します、
いつもしゃしゃり出た海軍は陸軍のバランサーとなるべき将官クラスの
要人は出向きませんでした。
降伏調印の全権、外務大臣の重光葵
(1932年上海で朝鮮人に爆弾を投げつけられ片足が無い)
は当日苦労しながらミズーリ号への階段を汗をかき黙々と登りました。
重光外相は艦上にあがり調印式前に米兵に水を所望したが冷たく断られています。
突然、自己演出の巧みなマッカーサー将軍が調印式の予定にはなかった
演説を上から目線ではじめます。
「日本民族がその才幹を建設的に活用するならば、 やがて惨憺たる状況を脱して 栄誉ある地歩に進むであろう。」と、、、、。
この時から日本はGHQ史観を植えつけられ戦前戦中とは異なる
方向にアメリカのハンドリングで向かいます。
日本国・国民は良い意味でも悪い意味でも大変貌を遂げることになります。
尚、連合国側から蒋介石率いる中華民國代表者の徐永昌(じょ えいしょ)も
戦勝国の一員として調印式に参列しておりました。
日中戦争その後の太平洋戦争でも戦闘では全く日本に勝てなかった
中国も戦勝国の仲間入りを認められたのです。
中国本土に常に100万人もの日本軍を拘束していて、太平洋戦争の
地味な裏方としてのアシスト的貢献でしかしておらず
勝てない中国軍ながら日本軍の対米英戦突入による日本の自滅で、
蒋介石は逃げ回りながら辛うじて第二次大戦での勝利国となったのです。
でもミズリー号上での調印式に参加した徐永昌代表は冴えない表情で
終始おっかなびっくりで他の国の代表に比べると印象が薄かったそうです。
中国人に多い白人コンプレックが徐永昌にも残っていたのかもしれません。
もちろん降伏式に臨んだ日本の運悪い要人達も米英に負けたのであって
中国に負けたとは全く内心では思って無かったでしょう。
調印式に代表ではありませんが居合わせた海軍の淵田美津夫大佐
(真珠湾攻撃の空襲隊長)は自叙伝のなかで、中国代表の徐永昌を
見つけ「お前らに負けたんじゃね〜ぞ〜!」と睨みつけていたそうです。
中国大陸では日本軍が戦闘開始となるや追撃しシナ兵が逃げるのが
当たり前でしたから蒋介石の国民党より毛沢東の八路軍の方が
強かったとか戦後言う方もいますがあれも嘘だと思います。
正規軍のゲリラ兵が正面からは正規軍に勝てっこ無い事は
歴史が証明してます。
(その後の朝鮮戦争でも、ベトナム戦争でも北のゲリラや 解放軍は中国人多数が混ざった事実上の正規軍であると思います)
次回は未定ですが日本敗戦の中国大陸の日本軍の状況や 引揚について投稿したいと思います。
【メモ】
9月2日の降伏調印では陸海軍外務省が揃って
出向いたが外務省まで出向く必要が無かったのではないか?
ソ連も連合国として出席したが、まだ自衛戦闘を行ってる
地域部隊もあり日本側視点からソ連を連合国の一員と
簡単に認定した事は早計でではなかったろうか?
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戦前の日中関係はややこしいので太平洋戦争終結から現代までの
日中関係史を簡単に記してみました。
メモ下記程度で突っ込みどころ満載ですから間違い等、
皆さんからのコメントで残して頂けるとありがたいです。
はじめに(戦前のおさらい)
昭和12年に始まった日中戦争(シナ時変)では日本軍は強くて残虐、
中国軍(蒋介石・八路軍)は弱く逃げ足がはやいとわれてました。
しかし日本軍は大陸の幾多の戦場で勝利をおさめ続けたものの
中国を最終的に屈服させる事は適わずにいました。
当時の首都南京を日本軍が占領しても蒋介石は重慶という更に奥地に
避難し戦争はドロ沼化しました。
陸軍の参謀本部は長年ソ連を第一の仮想敵としてきたので、
日中戦争を早く終わらせないとソ連との戦いの準備ができないと、
近衛首相や外務大臣にも和平の要求を求めましたが、
近衛首相は「蒋介石政権を対手とせず!」と無責任に終始し、
海軍に至っては中国奥地への都市爆撃(戦略爆撃?)を強め中国は
もとより米英の反感を日本国は買ってしまいます。
シナ事変から3年経過してもケリをつけられないまま、昭和15年になると
日本は、中国を屈服できないないのはソ連・米国・英国が中国にたいして
裏側から経済・軍事援助しているから、いくら日本軍が戦場でいくら中国兵を
倒しても戦争に完全勝利できないと思い込みました。
昭和15年春ドイツが西部戦線での電撃戦でオランダ・フランスを倒すと
日本は鉱物資源の多い東南アジアの仏印(ベトナム)蘭印(インドネシア)へ
目を向けその資源を手にする作戦を練り始めました。
日本的な独善性のある考えですが英国からの対中国援助ルート遮断する
という目的で北部仏印(今のベトナム)に進駐し、まだ行けると見るや機を
みて南部仏印にも進駐しました。
日本海軍もフィリピンから近い海南島(鉄鉱石が豊富)も占領しました。
これを看過できず米国も日本に石油や精密工作機会などの禁輸を開始し
徐々に日本が日中戦争を継続できないように日本の中国への覇権王手に
「待った!」をかけて妨害を開始します。
昭和16年、米国に石油を禁輸され中国との戦争勝利に自信を亡くした
日本陸軍は本気で中国からの撤退を考え米国と「日米了解案」を
とりきめますが昭和16年6月突如ドイツがソ連に対して奇襲攻撃を開始
(独ソ開戦)して大きく状況が変わります。
ドイツとソ連の戦争開始で日本はドイツが勝つと考えドイツがソ連に
勝ってる間に蘭印(今のインドネシア)を占領し石油等の資源を手に
入れようと中の悪かった陸軍・海軍が「南進」でともに手をとりあって
対米英蘭戦争への準備を進めます。
しかし米・英・中国は独ソ戦の開始で最終的にドイツが負け
ソ連が勝つと推測しました。
米国からソ連への援助物資も膨大に贈られました。
それまで米国からみたソ連は、中国を痛めつける日本同様にフィンランドに
侵略したりバルト3国を併合したソ連は道義上許せない極めて
悪質な国でしたが、独ソ戦の開始で米国とソ連はパートナーとなったのでした。
当然ソ連と米国が手を結んだことで怖い国が無くなった米国・英国は
独ソ戦以後の昭和16年夏以降は日本に対し急に強気にでます。
しかしそれを察知できない日本は実力行使で蘭印をはじめとする南方占領を
準備、日米外交は継続しますが外交を隠れ蓑としつつ12月に真珠湾攻撃や
英領マレー半島上陸で太平洋戦争を自ら開始し、誰もが知っての通り
3年8ヶ月後の滅亡に突き進みます。
太平洋戦争直前の日本はアメリカの石油禁輸政策などを逆に好機とも
捉え石油や資源確保のため蘭印を占領しようと模索し、米英開戦に
踏み切りますがよく考えるとおかしな話です。
終わらない日中戦争に決着をつけようと太平洋戦争をはじめています。
普通に考えると中国に完全勝利できない日本が世界最強の米英2国家
と本気で戦い勝つ自身が何処まであったか判然としないのです。
陸軍の敵はずっとソ連でしたが、なぜにか中国と戦い、中国と決着を
つけぬまま米英も敵に廻し、最後の昭和20年は宿敵のはずであった
ソ連に満州まで差し出す覚悟で英米との和解調停まで頼みますが
ソ連に弱みを見透かされ終戦間際に侵略攻撃を受け満州はおろか
日本領であった千島列島・樺太南部も不法に奪われ追われて
てしまい現在に至ります。
戦前・戦中の日中戦争を中心に駈足で端折りましたが軽く理解
したことにしていただき戦後の日中の歴史を日本降伏時点からみてみましょう。
【メモ】
日本は少資源国家であり長期的な戦争に国力が耐えられず、
との考えで戦争初端に大兵力を準備集中して相手軍隊の殲滅戦を
企画したが中国側は日本を泥沼の消耗戦に引きずりこもうと画策し
時間の経過が中国に味方するとの判断で戦争をデザインした。
結果は中国の思うままとなった。
(つまり日本外交の敗北、中国外交の勝利であった)
このあたりは小林 英夫 氏の出色の日中戦争モノ
「日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ」が詳しい。
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