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2017年11月にタイトル変更・・・中身は変わりません。 ぷらっとして行ってください。

日本の爆撃機の限界

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マレー沖海戦での海軍陸攻隊による活躍まで筆をすすめましたが
これからの戦闘をすすめるまえにしつこくなりますが、
陸攻の生みの親とされる本庄季郎技師と氏が開発に携わった
陸攻との事に触れてみます。
すみませんが前章の【5】一式陸上攻撃機の開発へと一部重複しています。

九六式陸攻も一式陸攻も本庄技師が三菱側の主開発者です。
三菱重工の飛行機の開発者として零戦の堀越二郎、曽根嘉年技師、
本庄氏の後輩で後に四式重爆「飛龍」を開発した小沢久之丞技師が
有名ですが私は本庄季郎技師が一番優れた名設計者だと思います。

ならば何故?本庄氏の御造りになった九六式陸攻、一式陸攻を
naomoe3よ、お前は批判ばかりするのか?というご意見にお答
えしなけければなりません。

本庄季郎氏の何処が優秀かというと海軍の無理な要求や意見を
取り入れつつも、その性能を実現している点です。
堀越二郎氏のように九六式艦戦、零戦、雷電(烈風)のような
ホップ→ステップ→自滅のような後の機種に行くほどの破綻の
流れがありません。
九六式陸攻、一式陸攻の生みの親 主設計者 本庄季郎氏
イメージ 1
















また戦闘機開発の堀越二郎氏とは異なりますが本庄氏は前作の
九六式陸攻の成功に有頂天に踊ることもなく自分なりに九六式陸攻
の問題点である燃えやすさ、を克服すべく頭を悩ませその対応を考ぬきました。
ちなみに零戦の堀越氏は軍側から防弾化の要求指示がでないとその

対策を講じないタイプの設計者であられるようです。

戦闘機も爆撃機(攻撃機)も戦争が始まると燃料タンクの防弾(防漏)化
や操縦席周りの防弾化が各国においても為されて行くわけでして
特に日本海軍は陸軍に比べても航空機の防弾対策で出遅れるわけです。

戦闘機は防弾対策なしでもベテランパイロットが乗ることで見張り能力
回避能力等で敵の弾を受けない戦闘も行える場合があるのですが、
爆弾や魚雷を抱いたままの爆撃機や攻撃機となると敵の対空砲火や
敵戦闘機に襲撃される場合でも爆撃や雷撃コースに入ると命中率を
高めるために投下地点までほぼ等速直線運動でまっすぐ飛び続ける
必要があり敵の砲火を回避できないケースが多いのです。
ですから味方の戦闘機も防弾対策を採ってないのに爆撃機だけ防弾対策
を施すのはエコ贔屓ではないか?との質問はよく合理的に考えると愚問
だと思いますね。
それに戦闘機は乗員1名ですが陸攻は5〜8名も乗ってましたからねぇ〜。
戦闘機より爆撃機の防弾の優先度を高めるべきだったでしょう。



話は一式陸攻の開発直前まで遡りますが1937年の日中戦争当時
世界でも航空機の防弾対策に本気で取り組む以前の頃なんですが
本庄技師は海軍との話し合いの場で要求されたエンジン2基(双発)
での一式陸攻の要求実現は達成できるものの双発だと防弾が施せないので
エンジン4基(4発案)を提案し
「エンジン2基で軍の要求する飛行性能と大搭載量を実現し残る
エンジン2基で防火、防弾、装甲板付加、消火装置を施し墜されにくい
4発陸攻の開発」を具申しますが、、プライドの高い空技廠の
和田操少将に逆上され発言を遮られ「用兵については軍が決める三菱は黙って
軍の仕様通り作ればいい!」と一喝され議論に至らずにそこで終わってます。
もちろん本庄技師はここで海軍側の4発化拒否を受けるや、海軍のポリシーライン
である双発機での大航続力得るためインテグラルタンクを採用していくわけですが。
(この瞬間で、日本の4発爆撃機の実戦配備はは実現不可能となりました。)

そんな訳で一式陸攻4発案はどんなものかも解りませんが戦後の雑誌丸等での
回想を読むと本庄技師は何も貴重な大馬力エンジンである火星(1460馬力)
を贅沢に4基も使おうとしたのでなく、栄や金星(1000〜1,200馬力)の実績もある
量産しやすいエンジンを使用の予定でプロペラも火星の複雑な4枚でなく
3枚ペラを予定主車輪の降着も短くて済み4発ながら実現性にも優れていたもの
だったようです。

ちなみに海軍空技廠側は三菱以上に4発機の経験の無い中島に一三試大攻
「深山」の開発を命じますが中島はオリジナル開発力もなく米国旅客機を
コピー生産しますがコピー元のダグラスDC-4E機自体が欠陥機であったので
当然のように失敗しわずか6機の製造で実線にも参加する機会も
ありませんでした。
その後の海軍は深山の失敗にこりず連山という米国のB17とB24のいいとこ
取りした大攻の開発をすすめますが本土空襲等で戦争には間に合いませんでした。
もしかするとのタラレバ話しですが海軍が一三試大攻「深山」の失敗が明らか
となった昭和16年夏ごろに見切りをつけて、次期4発機の大攻を真面目に開発
するか、一式陸攻の4発化を推進すれば一七試大攻「連山」のような
高高度性能は期待できずとも戦争後半に間にあう四発攻撃機を持てたのかも
しれません。

失敗作となった一三試大攻「深山」 生産機6機
イメージ 2





一八試大攻「連山」 戰爭に間に合わず 生産機4機
イメージ 5












そう考えると海軍として一番、撃たれ強く実現の可能性も高い4発機案が
本庄技師の提案した一式陸攻の4発版だったのではないでしょうか?

ちなみにイギリスの成功したとされる、どんな大きな爆弾でも積めた
4発重爆アブロ社のランカスターは前身は双発のマンチェスター
(1,760馬力X2)で失敗作でしたがエンジンを1200馬力の4発装備
としたことで名機として生まれ変わっています。
双発機 アブロ マンチェスター
イメージ 3







四発機 アブロ ランカスター
イメージ 4









どうも日本海軍の航空界の重鎮も大西瀧治郎を除けば、識見の広い人物
には恵まれなかったようです。
海軍側としてはドンドン墜されても4発機より双発機のほうが
2倍以上の機体を生産でき機数を揃えやすいと考えた節があるようです。
でも後付、後知恵で物申しますが結果的に機数が2分の一以下に
なっていても落とされにくい防弾対策を施した4発陸攻を開発し
危険な雷撃任務を解き、大編隊による米艦隊への水平公算爆撃や
緩降下爆撃を行わせたほうが、敵飛行場や敵艦隊に与えた戦果も
増えていたのではないでしょうか?

次回は【11】は 日本爆撃機の爆弾搭載量について考えてみます。



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やっと太平戰爭の開戦二日目簿の海軍陸上攻撃機による
大戦果!となった「マレー沖海戦」にすすみます。

何度も書きましたが海軍陸上攻撃機は山本五十六連合艦隊司令長官が
航空本部長時代から、水上艦隊の対米劣勢をヘッジすべく開発した
魚雷や爆弾で遠距離の敵艦船を攻撃する特殊というか米海軍や
英海軍にも存在しない日本海軍独特の機種でした。

でも実戦で魚雷攻撃のチャンスが訪れず、長年陸軍の重爆(九七式重爆)が
担うべき中国奥地爆撃を海軍の航続距離が長い九六式陸攻、
一式陸攻が主役交代ででおこなってました。
ここで注意すべき点は支那事変(事実上日中戦争)では緒戦の
第二次上海事件を除くと陸軍が中心となり戦ったのですが
航空戦での対中国への爆弾投下量は海軍機の投下量の方が
約二倍と陸軍機より顕著に活躍してました。
そんなせいか太平洋戦争開戦時に海軍は九六式陸攻、一式陸攻で
合計400機をを超える陸上攻撃機を保有してましたが、
陸軍は百式という名称で1年前に正式採用されたと錯覚しそうな
重爆呑竜が全く日米開戦には間に合わず開戦時すでに旧式となりつつあった
九七式重爆をわずかに5個戦隊135機揃えるのがやっとでした。

この日昭和16年12月10日が陸攻隊85機による今までの
水平爆撃と異なり敵戦艦に魚雷をぶち込み、多数を命中させ、
敵英国戦艦二隻を轟沈させた事で世界的軍事ニュースと駆け巡りました。

それまでも一年以上前に英海軍雷撃機によるイタリア艦隊へのタラント港
泊地攻撃や二日前の真珠湾奇襲攻撃の米戦艦軍の撃沈(多くは大破による着底)
等航空機による停泊中(動いてないから命中率が高い)の攻撃による撃沈事例
はありましたが、洋上を対空砲火を振り回し自由運動で魚雷を回避する戦艦を
航空機が魚雷で仕留めることは不可能とも思われていました。
つまり洋上で戦艦を沈められるのは砲戦力、装甲で勝った戦艦しかないと。

しかし日本海軍の陸上攻撃機は世界戰爭史に前例のない快挙をなし遂げました。
シンガポール軍港からマレー半島北部の日本軍上陸地への攻撃に向かった
英国東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ巡洋戦艦レパルス他駆逐艦4隻
の艦隊に対し白昼堂々仏印から飛び立った一式陸上攻撃機59機、九六式陸上攻撃機26機合わせて85機の陸攻隊が突進し両戦艦に各魚雷4〜7本、500キロ爆弾、250キロ爆弾数発を命中させ両戦艦ともに撃沈しました。

大戦果をあげた陸攻隊の被害は敵艦隊上で3機が失われた他に一機が
不時着大破他に2機が帰投するも機体大破で使用不能で6機の損害で戦死者は
戦闘中喪失の3機の21名ですが、何と攻撃に参加した85機の内喪失分6機を差し引いた79機の内25機もが被弾してました。
もちろん海軍陸攻隊の大戦果には違いありませんが被弾機数の多さが気に
なるところです。 (注1参照

イメージ 1

しかし私には気になる部分があります。
太平洋戦争開始後2日目の戦艦2隻撃沈の大戦果でしたが、実はこの戦いが
陸攻隊が戦艦を撃沈した最初で最後の戦いとなったことです。

その後陸上攻撃機が米艦隊を攻撃する機会は何度も訪れたのですが
マレー沖の英艦隊より米艦隊は対空砲火の威力が大きく、空母機を随伴
してエアカバーがあったことなどにより陸上攻撃機が殺到しても多くが
撃ち落とされてしまいました。


例えば昭和17年2月ですとラバウルを襲った空母レキシントンには
一式陸攻が17機爆装で反撃に向かいますが15機が撃墜されてます。
(命中弾なし)
同月のマーシャルでの空母エンタープライズ攻撃では陸攻7機が
爆装で攻撃し2機が投弾一機が体当たりして残りは投弾せずに
帰投してます(撃墜は2機)が至近弾で命中なしでした。
空母レキシントンへの攻撃で17機中15機が撃墜され100名以上の
搭乗員を一挙に失い大きな戦果が上がらなかったこの戦いで
海軍が何か戦訓や対策を講じなかった点は残念でなりません。
たしかに全機が魚雷が間に合わず空母攻撃に爆装で飛び立たせた
ましたがもし魚雷を装備していたら、レキシントンかエンタープライズが
何方かに撃沈は敵わずとも魚雷を命中させ長期戦線離脱の可能性が
高まった可能性があります。

英軍40㍉ポンポン砲            米軍 ボフォース40㍉機関砲
イメージ 2イメージ 3











何を言いたいかと申しますと、陸上攻撃機によるマレー沖の
英戦艦撃沈は英国側の対空機銃システムの欠陥が甚だしく高角砲も
日米海軍の高角砲に比べると低性能なので陸攻隊は演習に近い
大成果を残せましたが米艦隊となると開戦当初から英艦隊よりケタ
違いに濃密かつ正確な対空砲火で、開戦後が更に機銃類が質量ともに
大幅に強化されて行きますが、トップに明晰さを欠く海軍航空隊は
昭和18年半ばまで味方戦闘機の護衛のないまま、敵戦闘機や
対空砲火が待ち受ける敵艦船攻撃に陸攻隊を昼間出撃を強要
されて行くのでした。

(注1参照
開戦数ヶ月前の昭和16年の夏に陸攻隊は味方の戦艦長門や
空母に対し雷撃演習を何度も繰り返し「戦艦撃沈確実!」の
判定を得ていますが戦艦や空母の対空射撃の担当士官達から
「演習で押し寄せた陸攻の3分2の機数は対空火器で撃墜できていた・・・
・・・米海軍との実線でも3分の2は撃墜されるのでは?・・・」との
意見がでていたそうです。

追記
英戦艦 プリンス・オブ・ウェールの主力対空機関砲40㍉ポンポン砲は
大口径の割に射程短いが、ある一基は戦闘中に12回も故障したという。
(それでも陸攻6機喪失、25機が被弾)


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日本の爆撃機を書き込むにあたり名著「中攻」を県立図書館で
借りて読みました。
著者の巌谷二三男氏は海軍陸上攻撃機の緒戦期から
太平洋戦争を中攻指揮官として戦いぬた人ですから一級の価値がございます。

イメージ 1






















通読して感じますのは海軍で佐官級の指揮官であった巌谷氏自身が
暗に中攻(九六式、一式陸上攻撃機)が3500機も生産されながら
日中戦争や太平洋戦争の緒戦記を除けば役に立たない
(特に雷撃機として)お認めになっていることです。

p365 昼間雷撃の夢想
少なくともソロモン海戦依頼、艦隊又は戦隊の航空主務参謀が
戦場の実態を知る目的で攻撃隊とともに雷爆撃戦を視察体験
した例を知らない。
勿論、自ら砲火の間に戦闘を指揮することはこれら司令部職員
の任務ではない。
しかしいやしくも長官、司令官をたすけて戦闘を指導する任務
を持つ参謀達が優れた案出計画するためには、敵を知り己を知る
ことがその根本要素をなすものであるから、戦が困難になればなるほど
一層性格にその真相を洞察していなければ一日と謂えどもその職に
堪えられるものではない。
「百聞一見に如かず」で百の報告から一の推察をするより、唯一度
その実際を体験する方が優れた効果を生むところが多い。
参謀の配置に就く人達は二,三の例外を除いては大体参謀街道を
のみを歩かされたので、その体から身体からは飛行機乗り独特の
ガソリン臭も消え失せていくように見え、戦が苛烈になるに従って
、司令部と実施部隊との離反に傾向が見えてきたことは悲しい
現実として回顧反省されることである。



p130 飛行場の被爆
顧みれば、戦場にあって防御を口にすることを武人最大の恥辱と考え、
空襲時に避退することさえ知らなかった当時の軍隊というもの
非科学的でもあり、滑稽でさえあった。
あれだけの被害を受けながら、なおその翌年、われわれが漢口に進出した
時にもこと防空に関する限り何等の対策が施されていなかったことは
驚くべき怠慢であったと思うのだが、それにも拘らず、われわれ自身も
また別にそれを不思議とも思わず、防空にも殆ど無関心であったことは
驚くべき事実であった。


通読しまして旧軍の事を悪く書くのは私も気がけるのですが
当時の日本軍の問題として、上記のような深刻な戦訓や課題が
あるのに戦訓を放置というか見過ごしてきた部分が多々あったと思えてきます。
一式陸攻が水上艦に昼間雷撃して成果が上がるのか、損害と戦果
のバランスシートを精査すべく指導層方々が最前線の実情を
自身の眼で見ようとせず戦前の対米戦メソッドを何ら変更しよう
とはせず従来(戦前)の仮装論を消耗著しく新人が増える
前線部隊に押しつけ無残な結果となりました。

九六式陸攻、一式陸攻の生みの親 主設計者 本庄季郎氏
イメージ 2
















p130の 飛行場の被爆についても日中戦争当時からソ連製
SB爆撃機の空襲(奇襲)を何度の受けても警戒システムを
構築しようとせず、4年も無策のままでインド洋やミッドウェーで
空母が奇襲を受けミッドウェーでは惨敗する結果となりました。
さすがに空母戦ではその後の南太平洋海戦では改善されてますが。。
陸攻の島嶼基地ではトラック、パラオと奇襲ばかり喰いましたが
日中戦争の戦訓が活かされてなかったように思えます。

また陸攻(中攻)による対水上艦の攻撃も白昼攻撃、夜間攻撃
人間爆弾桜花を使用する特攻攻撃と後退していくのですが
昭和18年2月のレンネル島沖海戦を最後に損害に見合う
戦果を上げることは敵わなかったのですが、陸攻は最後まで
対米戦の主力攻撃機として使用され続け損害ばかりが増加していくのでした。

陸攻及び銀河の人員の損害(戦死)は1万人以上にも及び海軍戦闘機隊
約3500人、陸海軍合わせた特攻隊の戦死4200人を遥かに上まって
いたのでした。
航空戦の特性を無視して、過大な攻撃力だけに最重点を仮想した
海軍の陸攻の蹉跌は、ただ海軍だけの失敗でなく現代も分野は
違えど日本社会のあちこちで繰り返されてるある種の一部の人は
気づいて指摘しても組織的には結局改善が為されない
失敗の連鎖かもしれません。

この一九五六年に出版された「中攻」はその後も数度書名を
変えて「海軍陸上攻撃機(上下巻)」「雷撃隊、出撃せよ!」
復刻されましたが現在は絶版です。
こちらはかなり内容が縮められており海軍参謀等への
内部批判は削除されており資料価値は薄くなってます。

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一式陸攻航空の謎はどうして最初から防御力の向上が考慮されていながら
後手後手にまわったのか?という部分ですが他の項目でも触れてますので
他の多くの謎を見つけみみましょう。


【胴体の太さ】
前作の九六式陸上攻撃機に比較して胴体が太すぎる点の謎に
ついてですが昭和12年頃の開発当初は細い胴体を予定してた
かも?と思います。
九六式陸上攻撃機は胴体内にも燃料タンクがありましたが
これを中国軍戦闘機に狙い撃たれると機体胴体内が発火
や爆発炎上をおこしたり、ガソリンは漏れ蒸気化するだけでも
胴体上部の機銃を撃つと引火する恐れが生じ機銃応射どころ
でない場合もありました。
そこで開発サイドは燃料タンクを全て翼内に納め、胴体内の
発火を減少させるべく務めたようです。
大西大佐が翼内の燃料タンクの半分くらい胴体内に移設
できないかと強く具申しても技術サイドは「胴体にそんな
余裕はない」と受け流しています。
でも完成した一式の胴体はでかい。

私の想像になりますが、一式陸上攻撃機は当初は細い胴体
を予定していたのでないでしょうか?
当時三菱は局地戦闘機雷電のように胴体中央部が太いながらも
空力特性を高めた機体を開発もしてましたが、途中から
山本五十六中将が買い付けたエリコン20ミリ機銃(旋回機銃・零戦は固定機銃)
を一式陸攻の胴体の最後部に取付けるため、射界を広げる為にもいっそのこと
胴体を大きくしたのではないでしょうか?


【20ミリ機銃の銃座】

一式陸上攻撃機の胴体尾部の20ミリ機銃ですが
ガラス戸のようなカバーを開け20ミリ機銃を人力で操作してたようです。
(他にも7.7ミリ機銃が機種、上方、後部側面に4丁装備されました)
機銃がでかいし弾倉のマガジンは45発入りですから
かなりな高率で尾部の射撃手が戦死してたようで開放
された銃座窓から落ちた人や、他の機上戦死者が出た場合
等も空中投棄する事もあったそうです。

20ミリ機銃に関しては当時海軍は7.7ミリ機銃しかなく
12.7ミリ機銃よりエリコン社の20ミリ機銃をライセンス権を
得て製造したようですが、20ミリ機銃があれば米軍の12.7ミリ機銃
装備の戦闘機を掃討できるように思っていたようです。
実際は米軍の12.7ミリ機銃の方が射程が倍以上あり口径とは関係なく
アウトレンジされていたようですが。


【一式陸攻のデザイン】

ソ連のイリューシン4型爆撃機の側面図が一式陸上攻撃機に
似ています。
私はソ連が真似をしたのだと思いましたが違ってました。
イリューシンのほうが開発も実用化も3.4年早いです。(汗
この頃はソ連ともシベリア鉄道で行き来してましたから技術情報や
日本武官のスパイ活動でソ連機の技術や写真を入手しており,
ある程度は参考にしていたのかもしれません。
でも側面図は本当に似てますよね。
イリューション4の胴体延長して尾部銃座を設けたら似てますよね。

ソ連軍 IL−4 1935年より生産開始 生産数約6800機 雷撃型もあり
イメージ 1

海軍一式陸上攻撃機 1939年初飛行 生産数2435機
イメージ 2



そして全くの余談ですが戦後は逆にソ連軍が帝国海軍の
陸上攻撃機をパクったような機体を多数整備してますね。
目標は同じ米空母ですが、、、ソ連側からみると帝国海軍の陸上攻撃機や
銀河は命知らずと云うか健気というか、やはり影響受けてたんでしょうかね。
もうF14やF18戦闘機に桜花のようなミサイル積んだツポレフがバタバタ
落とされる事もなく時は過ぎ去ろうとしていますが。。



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今まで海軍の爆撃機(攻撃機)を眺めてまいりましたが
陸軍の爆撃機ににも少し触れておきます。

実は海軍モノ戦記に比べると陸軍戦記は人気がなく
航空関係に限ってもやはり戦闘機モノを除けば陸軍爆撃機
関係の出版物は少なすぎます。

陸軍爆撃機モノに限れば、30年も前に出版された伊澤保穂氏の超名作
「陸軍重爆隊」を超える内容の陸軍爆撃機関連本は未だに出てないように
思えます。
何故、陸軍機の戦闘機を除く航空機本が出版されないのか?
答えは簡単で海軍モノに比べ売れないからであります。
私や貴方達戦記ファンが買わないから出版社も出さないという図式です。

しかも福岡県では福岡市の総合図書館に唯一?閉架書庫に残っていた
「陸軍重爆隊」がついに処分されたようで読めなくなりました。
しかたなく年末、私は1996年出版の文庫版の「陸軍重爆隊」を
アマゾン古書で手に入れました。
超貴重本ですので定価750円を超える古書価格を覚悟しましたが
ナ、なんと99円と手数料(送料込)250円で入手できました。
この価格からも陸軍機の人気の薄さが臭ってきます。

イメージ 1こんな貴重本が
amazon古書で99円
























で、「陸軍重爆隊」の本題といいますか、感想に移りますが。。。
正直に感想を書くと数少ない陸軍航空機ファンも皆様から
袋叩きにあいそうですが、あくまでも私個人の感想ということで。。。

陸軍には地上襲撃機・軽爆撃機・重爆撃機という3種の
攻撃分野の一般的には爆撃機のような機体がありました。
支那事変では爆弾搭載力300キロ〜400キロ以下の襲撃機や
軽爆撃機もそれなにり活躍しましたが太平洋戰爭に移行すると
航続距離が足りず爆弾搭載量が少なく中国大陸での一部を
除いて使い物にならなくなりました。

そこで陸軍の重爆撃機の出番となるわけですが、海軍の陸上攻撃機並に
多数(三千機以上)造られたにも関わらず、海軍機以下の活動内容となり
もちろん海軍機以下の成果しか残せませんでした。


陸軍は対ソ連戦の敵飛行場の攻撃しか考えておらず重爆撃機と
いっても日本陸軍の重爆であり世界標準(2トン〜6トン)
から程遠い0.7トン程度の爆弾搭載量で海軍機に比べても
航続距離も短く世界標準でいえば双発機の戦術爆撃機以下の
レベルでsた。
乗員は7-8名と世界標準並に多数が乗り込みながら爆弾搭載量は
世界標準の15%〜30%も運べず、海軍陸上攻撃機に比較
すれば多少の防弾対策は施されてましたが、遠くまで飛べない
海上も航法できない重?爆撃機でした。

以下時系列で機種別に追いかけます。

三菱 九七式重爆撃機(キ21)
イメージ 2






それ以前もまともな重爆撃機がなかった陸軍はイタリアから
フィアットのBR20爆撃機を購入したりでお茶を濁してましたが
何とか九七式の登場により支那事変やノモンハン事件に間に合いました。
九七式重爆撃機は一型、二型合わせて2054機と多数製造されましたが
後継機の百式重爆撃機呑竜が全くパッとせずに終戦時まで八年間も
精一杯戦わされる事になります。
しかし海軍と異なり戦訓に応じて順次燃料タンクの防弾化や自動消火装置、
操縦席廻りの防弾ガラス設置、装甲板の追加等の対弾性(抗堪性)を
高めていった事は評価すべきとも思います。
しかし二四〇〇機造られた海軍の一式陸上攻撃が投下した爆弾重量
に比較すれば全戦線を通じても九七式重爆撃機はその半分も投下
してないように思えます。
海軍とほぼ同予算を航空分野に注ぎ、海軍以上の人員組織であった
陸軍航空隊ですが海軍に比べ投下した爆弾が異常に少ないという事は
世界的に観ると異様です。
海軍が陸軍機(空軍機)以上に爆弾を投下した国は古今東西でも
戦中の日本だけでしょうか。

中島 百式重爆撃機 呑竜(キ49)
イメージ 3












九七式重爆撃機の後継機で、戦闘機の護衛を必要とせず
敵地に殴りこみを果たす・・・という高速重武装の爆撃機として開発されました。

百式という年号から昭和15年(1940年)に採用されたような
感じがしてたのですが、実際には昭和16年後半に正式採用されますが
、空冷なのにエンジンの不調がおさまらず、実戦に登場したのも昭和18年夏
という制式採用年から2年も遅れて実戦参加した戰爭に間に合わない
戰爭に使えない爆撃機でした。
エンジン不調以外にもメーカーが大型爆撃機の経験がない中島
でデザインや空力特性も悪く、九七式から5年以上も経過して
実戦に登場したのに改善目標であった最大速度向上も九七式二型
の478キロに比し 百式二型でさえ492キロとそれ程速くもなく
二型もエンジンの信頼性が回復せず昭和18年の豪州爆撃
以外はパッとした活躍をしておりません。
昭和19−20年になり中国奥地やサイパンや硫黄島への
夜間爆撃を命じられた百式重爆呑竜のクルー達は必死に懇願
して前作の九七式重爆撃機に乗って出撃して行ったというケースが
多かった事からパイロット側からも不人気だった事が判ります。
(前線や現場では呑竜でなく鈍重とも呼ばれてたようです)
尚、初期生産型の一型は全く実戦には登場してないとの話も聞きますが
昭和20年ともなると特攻出撃させられた機体もあったかもしれません。
登場から終戦までの期間がわりと長いにも関わらず生産数も813機と少ない
のは造っても使えない事を当時の陸軍航空関係者も十分理解できていたのでしょう。

三菱 四式重爆撃機 飛龍(キ67)
イメージ 4
陸軍航空隊の最後を飾る重爆撃機で高速(最大速度537キロ)
運動性にも優れ軽快かつ防弾性や銃座も強力な前作の百式呑竜
の汚名を晴らすべく待たれていた高性能な爆撃機でした。
メーカーが海軍の一式陸上攻撃機と

正式採用も昭和19年の初めと戰爭の後半に間に合っての登場でした
が陸上爆撃機として活躍する前に海軍との協定で雷撃機(魚雷投下機)
として実戦参加している点が変わっています。
海軍側は期待していた一式陸上攻撃機や新鋭機銀河(欠陥機)が
米空母への夜間雷撃で成果をあげる事ができずに陸軍の新鋭重爆
飛龍に目をつけて、航空兵も機体も陸軍機ながら海軍の指揮傘下に
洋上や夜間航法・海軍式無線暗号通信の習得等準備に時間をかけそれ
でもあまり訓練が上手くすすまず航法員や無線士を海軍予備学生出身者
を乗込ませる形で昭和19年秋の台湾沖航空戦に100機近くが参加して
大本営発表として有名な誤認大戦果が発表されますが実際には
大きな戦果を上げる事はできませんでした。(レイテ海戦の前哨戦ですね)
戦果が不振の理由は後述予定の海軍機銀河の記事で触れる予定です。

19年初頭に生産された飛龍を海軍にごっそり持っていかれた陸軍は
陸爆として昭和19年末頃からフィリピン航空戦で使用しはじめますが
日本伝統の爆弾搭載量が1トン以下の800キロでの、しかも少数機の
出撃では敵に大打撃を与える事は敵いませんでした。
それでも米軍に占領されたサイパン島、硫黄島、沖縄に夜間を中心に
通常攻撃をかけ続け最後は櫻弾という大型爆弾を搭載した特攻機や
戦車砲を積み込みB29を一発で撃ち落とす(予定)の防空戦闘機等に
改造され、陸軍の本機に対する期待は高かったようです。
生産機数も635機と昭和19年登場の機にしては多数造られたと思います。

陸軍の爆撃機の系譜を鑑みて九七式、百式、四式重爆と合計
3,500機も造りながら(この他に軽爆も3.500機生産)たいした
活躍ができなかった陸軍の爆撃機ですが、損害に見あう戦果を
あげられなかったのは何処に問題があったのでしょう?

海軍機攻撃機(爆撃機)にもいえる事ですが、双発機に七−八名も
乗員が乗り一トンにも満たない爆弾を遠くまで運ぶ事もできず
敵機の待ち伏せにあえば落されてしまう運命を変えるには
米英のような四発爆撃機を開発するしか無かったのでないか
と思われてきます。
しかし当時の日本海軍にも航空戦の思想でも運用でも劣っていた
陸軍航空が海軍が四発機を実用化しないうちかから陸軍が先に
四発爆撃機を開発しようとの構想など生じなかったのも当然かも
しれません。
陸軍航空は役に立たない爆撃機を作り続けましたが航空予算は
常に海軍と同じ額を要望いたしました。
海軍の九六式陸攻撃、一式陸攻、陸爆銀河の双発攻撃機の
合計が約4,500機、陸軍の重爆3機種の合計3500機に双発機
の99式軽爆撃機を加えると陸軍は約5,500機を海軍の双発
攻撃機の合計を上回りますが、対米戦には使えない爆撃機ばかりでした。

陸海軍の双発攻撃機を合計すれば約1万機になり皆双発機ですので
生産され使用された貴重なエンジンは2万基にも及ぶのです。
後世からの後知恵史観からだけで物申すのでなくこれだけの
双発攻撃機の機体とエンジンを創りだす事ができれば日本版4発の
長距離重武装な爆撃機(真の重爆撃機)を4,000機くらいは陸海軍
共同(合計)で持つこともできたのではないでしょうか。
英空軍の代表的爆撃機 ランカスター
イメージ 6














ちなみに日本より人口は劣り、戦備も日本と同様だった英国は
ランカスター(7,377機)、スターリング(2,383機)、ハリファックス
(6,176機)と三世代で1万6千機も生産しています。

イメージ 5
 川西 二式飛行艇
 生産機数 僅かに167機













当時の日本に4発機の製造は無理だったとか、四発機用の離発着可能な
飛行場が足りなかったとか整備力等で四発機は使いこなせなかった
とかのタラレバ与太話も今でも盛んに聞かれますが、海軍専用の弱小メーカー
である川西が戦前から九七式大艇や二式大艇を進空させていた事を
思えば言い訳に過ぎないのではという気を私は強くしました。

2月23日 以下 追記

よく陸軍の飛行隊は航法特に海上航法が弱かったとされてますが
97式重爆撃の場合でさえ七名も乗員がいて正航法士が存在せず
多くは正操縦士(多くは機長)が片手間に航法を行なっていたとか。。
海軍の場合複座機以上なら航法できる偵察者が乗っていましたが。


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