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2017年11月にタイトル変更・・・中身は変わりません。 ぷらっとして行ってください。

日本の爆撃機の限界

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一式陸上攻撃機は昭和12年9月に現用機の九六式陸上攻撃機の
欠点を克服し、大航続力、高速化をめざし開発された機体でした。
九六式陸上攻撃機の欠点とは
爆弾倉がない(胴体下に爆弾や魚雷を吊るすと空気抵抗増加)
前方、胴体後尾に銃座なし
防弾防漏タンクなし 操縦席廻りの防弾板なし
といったものでしたが、一式陸上攻撃機の開発段階で燃料タンクの
防弾(防漏)化や操縦席廻りの防弾板の設置は見送られました。
この時点日中戦争で九六式陸上攻撃機が中国空軍の旧式戦闘機に
バタバタと落とされつつありましたが戦訓はいかされてません。

胴体後部に20㍉銃座を設け、胴体内に爆弾や魚雷を収容
(半埋込)したため太い胴体となるが燃料6000リットルは
翼に収納され敵機の銃撃を受けると発火・炎上から墜落した機が多い。
イメージ 1

海軍側から出された新型陸上攻撃機の性能要求は搭載爆弾や魚雷は
九六式を踏襲し、高出力(1460馬力)の火星エンジンを搭載し最大速度は
400キロ以上航続距離4800キロ(偵察時6000キロ)と米国の4発爆撃機B17以上の航続力をめざした一見無謀とも思える要求値でした。

この海軍側の要求に対しメーカーである三菱の本庄季郎技師は
双発(エンジン2基)で燃費もよくない火星エンジンでは
要求性能実現はなんとか実現できても96式陸上攻撃機の
戦訓を採り入れた防弾タンクや操縦席廻りの防弾対策は全く
無理と考えてある対案を密かに用意しました。
対案とは一式陸上攻撃機の4発化で火星エンジンより小型で
燃費もよく生産も安易な千馬力級の(栄or金星)エンジン
4基積むことで速度、防弾、航続距離のバランスを両立
させようとしたのでした。

しかし海軍とメーカー三菱との開発検討会の時に本庄技師が
対案として考えぬいた「4発機計画」の説明を行おうとすると
航空本部技術部長の和田操少将が凄い剣幕で怒りだし
「用兵については全て軍が決める。
三菱はだまって軍の仕様書どおり双発の攻撃機をつくればよいのだ。
お前たち!黒板に描いてある四発機の図面はただちに消せ。」
とあくまで海軍要求の双発でかつ防御軽視で開発される事となりました。
この和田操という人物は今後も海軍航空をミスリードする
キーマンとしてでてきますので覚えておいてください。

でも当時の和田操少将の立場で考えると一式陸上攻撃機は
米海軍の戦艦や空母を日本側の島嶼基地から航続力を活かし
米空母が艦載機を発進させる以前に強襲しようとの考えと
長大な航続力があれば広大な西太平洋は島と島の間隔が
千キロとか千5百キロとか離れていてもスムーズに移動して
攻撃できるとの考えが強かったようです。
また陸上攻撃機というカテゴリーは雷撃(魚雷の投射)が
最重要視されていましたから4発化による機体や翼の大型化
は許容できにないものであったようです。


しかし海軍側でも実際に九六式陸上攻撃機で爆撃機に乗り僚機の多くの
機を失い帰還した大西瀧治郎大佐は一式陸上攻撃機の開発にも関わり
開発者や空技廠のお偉方に「燃料タンク」や操縦席の防弾対策の
強化を強行に意見具申しますが、航続力が二割以上減少するとか
最高速度が減少するとの理由で却下されます。
それでも大西大佐は喰い下がり九六式陸上攻撃機に比べ遥かに
大きな胴体内部側に翼の三分の二の平面面積を持つ翼内燃料
タンクの半分程度を胴体内に移設し、往路に翼内に燃料タンクの
燃料を消費させ戦闘中は胴体の燃料タンクを使用させる事で
敵戦闘機の側から見れば(後方から見る)燃料タンクの
正面面積を著しく小さくし燃料タンクを小さく見せる事で実際に
も命中しにくくい仕様に改めるよう具申しますが
技術者側に(大きな胴体なのに)胴体に燃料を積むのは無理である
と断られています。
米国の爆撃機はドロップタンクのような燃料槽を胴体内や爆弾倉に
積む手法は在ったのですが。。

また海軍側は一式陸上工芸機の速度もかなりテコ入れしており、操縦席
などの要部防に防弾板(鉄板)を設置すれば速度が10〜20キロも低下する
という理由で見送っています。
当時の海軍航空の上席者達は一式陸上攻撃機の最大速度430キロが
防弾対策により速度が20キロ程減ってしまえば、それだけ敵戦闘機に
捕捉される可能性が高まり、防御力の向上や耐弾性を高めることより
運動性(機動性)や速度を高めて敵の攻撃を回避しようと努めました。

また銃座については前方、さらに胴体後方にも新たに設置し死角は
少なくなりました。
また従来の7.7ミリ旋回機銃から20㍉機銃を尾部に備え大型機銃で
敵機を撃破しようと努めました。
しかし大型で重量のある20㍉機銃を人力で操作する事は困難で
ドラム型(45発以下)の弾倉で連射するとすぐ消費してしまい
、予備の交換用のドラム弾倉も重量が10キロ前後あり交戦中に
片手での素早い弾倉交換は困難が伴いました。
つまり戦闘中に45発の弾倉を撃ち終わると正直そこで
終わりでした。

前おきがながくなりましたが、開発当初から防弾、不燃化が多くの
関係者から問題視されたのに前作の九六式陸上攻撃機よりも多くの
翼部分に2倍の燃料(6000リットル)を積み(爆弾はたったの800キロ)、
まるで空飛ぶ双発の空中タンカーともいうべき一式陸上攻撃機が
誕生したのでした。
ちなみに6千リットルといえばドラム缶(200L)30本に相当しますし
ガソリンの比重は0.75で水の4分の3の重さですから仮に6千リットル
も積み込むと4.5トンの重さになりますし艦船の重油や洗車の軽油とは
異なりガソリンは発火点は似ていても蒸気圧が高く空気と触れた状態で
発火すると危険です。
つまり一発の機銃弾なら発火しなくても、一発被弾してガソリンの蒸気が
漏れだした時に2発、3発目が命中すると燃料タンクや機体の発火の蓋然性が
非常に高いわけです。
でも海軍航空本部の関係者の多くはベテラン搭乗員が乗り込めば
なんとか大丈夫とばかり対米英戦もかなり気楽に考えていたようです。

性能要目  
九六式陸上攻撃機21型     一式陸上攻撃機11型

最大速度  373Km                       453Km

航続距離  2854Km          4200Km
乗員     5〜7名           7名
爆弾魚雷  720kg〜900kg      同左
機銃     7.7X3            7.7ミリx4
20ミリx1 上部      20ミリx1 尾部

尚、胴体の太い一式陸上攻撃機には胴体後部に
用を足せる厠(トイレ用の缶)が着いてました。
また長大な航続距離を活かすため、操縦員は2名
自動操縦装置も備えていました。
無理をかさねた一式陸上攻撃機ですが飛行機というか
機械としては優れていたと思うのですが戦う兵器として
見た場合は優れた戦闘マシンだったのでしょうか?

私には防御力を向上したいと現場側が本音を言い難く
もし言うと「命が惜しいのか?」と切り返す組織
風土があったように思えてなりません。

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日中戦争といっても空の戦いについてですが日本陸海軍は
特に戦闘機で中国軍側の欧米の旧式戦闘機に常に空中戦で毎回
勝利してましたが九六式陸上攻撃機は戦闘機の護衛なしでは
中国奥地に出撃すると大きな犠牲を出しました。

日本海軍だけで昭和12年からの日中戦争で千人前後の貴重な
搭乗員が死んだと知ってもピンとこない方もいると思いますが、
太平洋戦争の転換時期となる珊瑚海戦とミッドウェー海戦での
日本海軍の戦死者は其々100名前後ですからいかに中国軍との
「空の戰爭」で陸上攻撃機を中心とした海軍搭乗員の犠牲が
膨大な数字であった事がわかります。

イメージ 3


















元海軍参謀の奥宮正武氏の名著「海軍航空隊全史 下巻」には
海軍搭乗員数を記載してますが操縦員や偵察員を合計した
搭乗員総数が昭和に入り年々海軍搭乗員総数は鰻登りで
増加の一途だったのですが、、、。
昭和9年1931名、
昭和10年2387名、
同11年 3839名が
日中戦争のはじまる昭和12年には500名以上もの
練習生卒業させて第一線に配置したのに年度末の
搭乗員総数は3341名と前年より500名も減少しています。
つまり昭和12年だけで戦死や負傷で約千人、総数の25%近い
搭乗員を三流国の中国空軍との戦いで喪失していたのですね。

九六式陸上攻撃機登場より5年の歳月をかけて昭和
16年に登場した一式陸上攻撃機11型、九六式陸上攻撃機の
血の代償で得た戦訓を生かすことなく防弾対策は考慮され事はなかった。

イメージ 1














そういうわけで次期陸上攻撃機である一式陸上攻撃機には
搭乗員の犠牲を減らすべく防御面を強化し耐弾性を高めた
攻撃機が必要となるべきでしたが海軍上層部は攻撃力と
航続力を最優先し防御は機銃座を多数設けて死角を減らすような
対策しか行いませんでした。


どうも日中戰爭で佐官クラスの優秀な飛行隊長の多くや
陸上攻撃機の育ての親クラスの方々が早々と戦死したり、負傷
で航空の現場から退場し前線部隊からのまともな意見が上に
通じなくなっていった風通しの悪い様子も感じてしまいます。

昭和15年〜17年前半の2年近く無敵で万能戦闘機だった零戦

イメージ 2











しかし、幸いなことに九六式陸上攻撃の部隊は昭和15年秋に
なると待望の新型戦闘機零式艦上戦闘機が空母配備よりも先に
中国奥地に爆撃を続行する陸上攻撃機の長距離援護任務機として
優先配備されることで九六式陸上攻撃機の損害は激減します。
零戦がデビューした中国の首都重慶上空では瞬く間に
中国軍の戦闘機を20機以上も叩き落としそれから
約一年後の対米英戦を迎える頃まで旧式となりつつあった
九六式陸上攻撃機も犠牲が激減し長距離爆撃機が無かった
陸軍機に替わり要地の爆撃に専念できたのでした。
九六式艦上戦闘機の片道のエスコート距離は400kmでしたが
零戦の登場により800km以上のエスコートが可能となりました。
たしかに零戦出現後中国軍の戦闘機は戦闘を避けるようになり
零戦にエスコートされた九六式陸上攻撃機の損害は激減しました。

このような経緯で零戦の出現に気を良くした海軍航空関係者
達は次期後継機の一式陸上攻撃機も防弾対策は疎かにし、
機銃座の増加と高速化で済ませつつ開発を進行させていくのでした。
三流空軍国の中国では零戦の護衛で陸上攻撃機の被害は激減できたの
ですが一流空軍国の米英戦闘機の多重化された機銃威力は複葉戦闘機
が主の中国軍戦闘機の2倍〜5倍以上もあったのでした。
1937年頃から一流空軍国の戦闘機の機銃が従来の7.7ミリクラス
機銃2丁標準から7.7ミリ8丁(主に英国)、12.7ミリ4〜6門(主に米国)
と急激に強化されつつあったのですが、日本海軍の陸上攻撃機、
は防弾不燃化対策は現場から小さな声での要望具申は上がっても
顧みられる事はありませんでした。

イメージ 4
九六式陸上攻撃機とほぼ同時代に
デビューした陸軍の九七式重爆撃機
初期型はデザインや性能も似て見えるが、同じ機体を陸海軍採用し
海軍仕様、陸軍仕様とすれば
生産効率も上がったのでなかろうか?
生産機数は
九六式陸上攻撃機1,048機
九七式重爆撃機  2,054機













尚、今まで陸軍機には触れませんでしたが九六式陸上攻撃とほぼ
同時代に採用された九七式重爆撃機は九六式陸上攻撃機と同等の
爆弾搭載量で航続距離は短いものの中国戦線の戦訓をとりいれ
対7.7ミリ機銃を想定した燃料の防漏対策を既に実施していました。
ちなみに、海軍の九六式、陸軍の九七式の双発機はデザインも
多少は似通ってますが何とどちらもメーカーは同じで三菱重工でした。

海軍の航空部門の偉い開発者、用兵者達は三菱重工で陸軍仕様
の爆撃機が防漏燃料タンク(後期型は防弾板も装備)を備えていた
事をたぶん知ってたと思うのですが、特に気にもとめず対米英戦争
に向かっていったのでしょうか。


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長い前置きから各機種のウンチクのスタートライン
が近づきました。


昭和10年(1935年)に登場した海軍「九六式陸上攻撃機」は
山本五十六が航空本部技術部長であった当事、水上の主力艦の
劣勢を補完すべく陸上から米艦隊を攻撃する特殊な攻撃機と
いう位置づけで開発されました。

三菱 九六式陸上攻撃機

イメージ 3











 
 
それ以前の海軍機は固定脚や鋼管・布張機が殆どでしたが
九六式陸上攻撃機は全金属製(超ジュラルミン)、引込み客を採用した
外見的にもスマートで垢抜けた機体として登場しました。
九六式艦上戦闘機とともに海軍航空の新しい時代を築きました。

海軍航空関係者も「これでようやく欧米に肩を並べた」と
安堵の色を浮かべたようです。
九六式陸上攻撃機は実際にはドイツのユンカース社の輸送機の
技術を導入したり参考にした部分があるようです。
(そのせいか胴体内に爆弾倉はありません)


日本海軍がドイツとの三国同盟に当初反対したのは事実ですが
米英から科学・軍事技術の導入が難しくなると日本海軍もドイツの
技術が欲しくなり渋々ながらドイツとの連携を深めたのでした。
山本五十六もその一人でドイツからの技術導入と引き換えに
空母赤城の設計図や空母の運用方法をドイツ側に渡しており
ドイツは赤城の図面を頼りに丸コピーの空母グラーフツェッペリン
の建造に着手しております。


九六式陸上攻撃機の性能要目は日中戦争で主力となった21型(G3M2)で

自重 4.8トン   総重量7.8トン
発動機 三菱金星 1075馬力
最大速度 376km 高度3000m
航続距離 2854キロ〜4380km
武装   7.7mm旋回機銃  x3
20mm旋回機銃  x1 
800キロ魚雷   x1 叉は爆弾500キロ〜800キロ
乗員    5名
生産数 1048機

超ジュラルミンの輝く機体で全金属製機体という事から海軍は
中国空軍の戦闘機の7.7m機銃の射撃を受けても30度以下の浅い
命中角度なら超ジュラルミンの外版が跳ね返してくれるのでないか?
とも甘く考えてましたが日中戦争で淡い夢と終わることになります。

おかしな話ですが昭和12年当事の日本海軍内に源田実少佐を中心とした
「戦闘機無用論」まで流行し本気で戦闘機を削減しその開発資材と人員を
攻撃機に振り向けようとした時期があります。

山本五十六も源田実→大西瀧治朗大佐と上がってきた戦闘機無用論案を
一時は盲判の施策として採用しています。

しかし日中戦争がはじまると九六式陸上攻撃機を味方戦闘機の援護できない
中国の奥地まで空襲させて中国軍戦闘機のにバタバタと落とされるや
戦闘機無用論の間違いに気づき戦闘機部隊は遅まきばがらも
増強されていくことになります。


九六式陸上攻撃機をスペックを見て驚きますのは航続距離の最大4380キロ
という異常な長さです。
(爆弾を700キロぐらい積んでも2800キロ程飛べたようですが。)

4380キロの数字は爆弾を積まず燃料だけを満載した状態です、
当事の海軍は戦艦の大艦巨砲主義とおなじで自分達にだけ都合の
よすぎるアウトレンジ(オーバーレンジ)戦法に固執していました。
相手側の弾が届かない遠距離からこちら側だけ一方的に撃ちまくり
爆弾を降らす戦法ですが敵軍も人間であり、距離の非対称性
を利用して対抗策を講じるという事を子供っぽい海軍上層部は
どうも忘れていたようです。

次に何故、九六式陸上攻撃機よりも速度の遅いと思われていた
中国軍戦闘機にいとも簡単に叩き落されたのか様子を観ていきましょう。

九六式陸上攻撃機の最大速度は11型348キロ、21型373キロと
伝えられていますがある程度の深読みが必要なようです。

この場合の最大速度とは爆弾や魚雷を搭載しないクリーンな
状態の速度であるようです。
ですから爆弾倉のない九六式陸上攻撃機は重くて空気抵抗の増す魚雷や
爆弾を胴体げ面に吊り下げると実際には速度が50キロ以上も減少
するようです。

日中戦争後期に登場したエンジン馬力・武装強化型の21型も
胴体下方の垂下式の銃筒を戦闘中に下に伸ばすと40〜50キロ
も速度低下しましたので、燃料満載、爆弾満載、各銃座のブリスター
を開放したり下部の銃筒を露出すると最大速度は280キロ前後となり
カタログ上のスペックよりも100キロ程度も速度低下してしまうのでした。

中国空軍側の戦闘機はソ連製のI-15(最大速度360km、7.62mm機銃x4)
や米国製のP26戦闘機(最大速度377 km 12.7mm機銃x2)
カーチスホーク主力で何れも日本海軍の九六式艦上戦闘機よりも遥かに
劣りそうな旧式機や複葉機でした。

ソ連製 i15bis戦闘機       米国製 P26戦闘機
イメージ 1イメージ 2









 

本海軍は中国側の旧式戦闘機に安堵して九六式陸上攻撃機に味方の
九六式艦上戦闘機のエスコートできない中国奥地まで昼間堂々と
爆撃を繰り返しました。

日本の戦闘機の護衛がいないと知るや中国軍戦闘機は戦意旺盛に転じ
九六式爆撃機に果敢に挑みました。

300キロ台の水平最大速度の中国戦闘機ですが事前待受で
高空から急降下しますと600キロ代の速度は出ますし、
九六式式陸上攻撃機は前方に銃座がないので前上方からも
かなり機銃掃射を受けたようです。

地上の中国軍が上海から南京そのまた奥地に逃げると日本軍は追いかけ
その日本軍を航空から援護するため九六式陸上攻撃機は本来なら
陸軍機が担当するべき中国奥地への爆撃を肩代わりしますが、
奥地に向かうと味方の戦闘機の護衛は無く中国は陸続きな事から
日本軍機が大編隊で飛び立つと直ぐ肉眼で発見され電話や
無線通報で連絡され中国側の戦闘機に邀撃されてしまうのでした。

特攻の生みの親と目される大西瀧治郎大佐は日中戦争当時
航空部隊の参謀長でしたがあまりの九六式式陸上攻撃機の
撃墜破や搭乗員の機上戦死や負傷者の多さに驚き悩み自分でも
九六式陸上攻撃機に乗り込み戦闘機の援護のない敵地に空襲に
飛び立ちましたが6機編隊中の4機を撃ち落され、幸いな事に
運良く残った2機で生還し、中国軍戦闘機の実力とあまりの
自軍の犠牲の凄さと搭乗員の消耗と補充を天秤にかけて損得勘定
で上司の司令長官に即刻戦闘機の護衛のない陸上攻撃機のみの
単独爆撃の中止を進言しましたがその後も日本海軍は陸上攻撃機の
犠牲を顧みず中国奥地の要地の空襲を続けました。

大西大佐はこの血で学んだ戦訓を活かそうと国内に戻り
時期陸上攻撃機である一式陸上攻撃機の開発に用兵者側から関わります。

大西少将(大佐から昇格)は新型機の燃料タンクの防弾化や操縦
席周りの防弾鋼板設置を強く進言いたしますが、飛行性能が
悪化し航続力が弱まるとの開発者側からの強い意見で銃座を
増やし死角を少なくする事で一式陸上攻撃機の開発は
進行していくのでした。

尚、1936年から1941年の中国戦線での九六式陸上攻撃機の
損害は被撃墜100機以上、被弾機200機以上搭乗員の戦死や負傷
千人にせまり、墜落による戦死のみでなく運良く生還できた被弾機の
中には多くの機上戦死者や負傷者がいたと事は忘れてはいけない
ような気がいたします。


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陸軍機は爆撃機と地上襲撃機という対地攻撃分野の機体が
ありましたが海軍機は呼称も独特で細かく定義されてたようです。

艦上爆撃機(主に急降下爆撃) 
 九九式艦上爆撃機 艦上爆撃機彗星
艦上攻撃機(魚雷装備の雷撃、水平爆撃)
 九七式艦上攻撃 艦上攻撃機天山、流星
陸上攻撃機(雷撃、水平爆撃) 
 九六式陸上攻撃機 一式陸上攻撃機
陸上爆撃機(雷撃、水平爆撃、 急降下爆撃)
 銀河 

注意点 日本海軍の場合「爆撃機」は「急降下爆撃機」
の事を意味します。

陸上攻撃機というコンセプトの機種は世界広しといえども当時の
日本海軍にしか見当たらない独特の機種でした。
では何故是界に類を見ない独特の攻撃機が誕生したのか
追いかけてみたいと思います。

日本海軍は当初は空母から出撃する艦上攻撃機に力を入れていた
ようですが、1940年に米海軍がスターク案と新たな軍艦の建造計画
(135万トン)を公表するや日本海軍(軍艦の総量147万トン)の
上層部は顔色を失いました。
米国が135万トンを建造すると300万トンを軽く超え、日本海軍の
二倍半(日本4:米国10の比率)になりますから、ワシントン条約の
(日本6:米国10)の主力艦比率でも」「勝てない!勝てない!」
毎年図上演習で
悩んでいた日本海軍にとり絶望的な格差が
生じつつありました。

そのような意気消沈する日本海軍内で「俺に任せれば大丈夫!」
考える元気な人物もいました。

イメージ 1
















 
 
 
そう今話題の映画でも出てくる山本五十六連合艦隊司令長官であります。
山本五十六は、水上艦の対米劣勢状態が長く続いては日本海軍が米海軍に
海上決戦に勝てるチャンスは到来しないと考え、「軍艦」から「航空機」
への転換を昭和10年前後から本気で考え海軍の空軍化を推進しました。
具体的には陸上基地からの攻撃機(魚雷の投射)で米国の戦艦や
空母を叩けないか?と考えいち早くその具現化にむけ努力し
実行に移そうとし後の九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機の開発の
裏の功労者でもあります。

そういう意味で日本海軍の戦艦中心思想から航空機中心思想に転換
するのが米国に遅れたというのは「神話」や「嘘」であろうと思います。
日本海軍は昭和10年頃より、米国より遥かに航空優先を意識してました。
ただ空母の建造増加と空母機の増加よりも陸上攻撃機の増強に
努めていたようです。


実際に日米開戦となりミッドウェー海戦後の日本空母の減少により
空母同士の戦いが不利と見るや、不沈空母と謳われた陸上基地から
日本独特の陸上攻撃機を出撃させ水上艦の対米劣勢基調を陸上からの
雷撃や急降下爆撃の出撃により趨勢挽回させようとしましたが
当初の予想以下の戦果となり多数機の出撃に比し少ない戦果と
多大な犠牲という事実認識から昭和19年秋以降は「対艦攻撃」への
主戦力は体当たりによる「神風特攻隊」が中心となりました。

ここまでほぼ通説に従い書いて参りましたが私には大きな疑問があります。
大戦当初は、旧式機になりつつあった九九式艦上爆撃機、九七式艦上攻撃機
九六式陸上爆撃機が大活躍したのに比して、戦時中に量産配備された格段
に高性能と思われていた、艦上爆撃機彗星陸上爆撃機銀河が満を持して
登場したのに全くといっていい程に活躍できず(戦果が上がらず)に
統率の邪道ともいわれる体当たり特攻に至った本当の攻撃機の不振の
原因はなんであったのか? という点まで迫れればいいのですが・・・。

ただ私なりに大戦後半に登場した彗星、銀河、天山が高性能機である
はずなのに何故不振な戦果に終始したのか?
この疑問は明確な答えはでていないものの考察したいと思います。
旧来謂われていたような、搭乗員の消耗、練度不足、機材や燃料の
劣化と不足などだけでの説明だけを鵜呑みにできないというか
魚の小骨が喉奥に突き刺さったような違和感も感じます。
そういう事で従来のカタログスペックとは違う場所から
も考えてみたいと思います。

では初めての日本海軍の陸上攻撃機という「コンセプト機」である
九六式陸上攻撃機から眺めて行きたいと思います。
日本の爆撃機のタイトルですが海軍機中心となりそうです。
陸軍爆撃機は海軍機との比較や末尾に軽く触れる予定です。
   ( 不定期で続く予定です)


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昔、子供の頃に聞いた話ですが山本五十六連合艦隊長官の乗ってた
一式陸上攻撃機(海軍の爆撃機)が何故いともたやすく敵機に
撃墜されたのか?
と不思議に思ってました。

高校生になり戦記本等を読むようになると一式陸上攻撃機は敵側の
米軍からだけでなく日本海軍の搭乗員(パイロット)達からも
敵弾を受けると直ぐ引火や火災をおこしやすく墜落するので
「一式ライター」と自虐的に語られていた事を知りました。

昭和16年に登場した一式陸上攻撃機 7人乗り
イメージ 1


















現代からの後知恵史観で物申せば
翼に燃料を積みすてぎいた?
攻撃力を優先し防御力を犠牲にした設計だった?
といくらでも批判はできるのですが実は昭和16年に
制式採用された一式陸上攻撃機は「航続力」とともに
「防御力」も大きな課題として設計審査されつつ開発された機体でした。
対米線の始まる以前の昭和12年から日本は日中戦争に突入しており
日本の新聞では一式陸上攻撃機の前作機「九六式陸上攻撃機」が
中国要地に爆撃を繰り返し華々しく「渡洋爆撃」などの大戦果が
報じられてましたが、実態は中国軍戦闘機の要撃でバタバタと
百機以上が数ヶ月で落とされてしまい長年手塩にかけて養成した
搭乗員が千人近くも戦死や負傷してしまい海軍航空隊は戦果に
見合わぬ大打撃を受けてしまいました。

一九三六年当時一見高性能機に見える九六式陸上攻撃機でしたが
中国空軍の旧品な複葉戦闘機にも直ぐ撃墜されてしまう事に
見切りをつけた海軍は現用の九六式陸上攻撃機よりも格段に
落とされ難い次期陸上攻撃機(一式陸上攻撃機と深山)の開発が
急務となっておりました。

出現した当時は超高性能機と思われたが中国空軍の旧式戦闘機機
にバタバタと落された。 乗員5〜7人
中国軍にも戦訓で胴体や翼内の燃料タンクが弱点と知られており
狙い撃ちされて落とされた機が多い。
イメージ 2

しかし九六式陸上攻撃機・・の欠陥部分を改善するべく昭和16年に
実用配備された一式陸上攻撃機は何故、敵味方から「一式ライター」
とも揶揄されるような新型機として登場し、中国軍よりも格段に
手強い米軍と戦うようになった日米開戦以後も防弾や対弾を怠ったまま
でほぼ戰爭を戦い抜き、結果的に多数の機体の損失と尊い搭乗員達の
命を奪ってしまったのか?
海軍の爆撃機(攻撃機)を中心に機種ごとに見つめていきたいと思います。
果たして先の対戦時の日本の爆撃機の実相はどのようなもので
あったのでしょう?
またどのようにあるべきだったのでしょうか?


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