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夏目漱石の「こころ」って1千部以上の小説では超がつく
売れた小説だそうで新潮文庫だけでも「こころ」は700万部と太宰の
人間失格を抑えて断トツだそうですが、実はそうでもないらしいです。
実際に私も20代で読んでみて先生の奥さんが不憫でなりませんでしたが
その後の日本の作家も読者も高等遊民化させてしまった趣です。
日本の近代文学ってとにかく高等遊民が出てきまして生まれや家柄もよく、
東京に出てきて下宿し、実家からの仕送りで働きもせず勉強に専念できる環境
なのに失恋し人に裏切られ落ち込みそこからもがき苦しむのが
王道パターン化してしまい、戦後もその流れが続いてるわけです。
「こころ」は主人公の先生の自殺の理由が大きなテーマなんですが漱石は
明治天皇の崩御や乃木将軍の殉死に刺激を受けてしまったゆです。
漱石の文学面でのライバル森鴎外も同じ時代を生きつつ乃木将軍を冷遇
したかのような殉死は馬鹿らしいという視線で「阿部一族」を顕しました。
でここから本日の御題ですが皆さん「こころ」を読んだ事ありますか?
私の周りでは親も家族もちゃんと読んでませんし、成人後に知りえた人にも
質問しますとほぼ全員がちゃんとは読んでない、つまり私の身近な交友データから
すると創●学会を続けてるI君以外でちゃんと読んだ人を知りません。
私が思うに読んだ気になっててもちゃんと最後まで読んでないと思うのです。
出版当初は2万部もいかずの本小説でしたが中学か高校で教科書にも三章の一部が
載ったり、岩波文庫に収録されたり、他人に奨められたリで気にはなって本屋に
行っても立読みしても他の書籍に目が行ってしまったり「こころ」買って家に
帰っても途中で読むのを諦めて本棚の肥やしに変質してしまったのでしょうか?
文章も巧みで登場人物らの台詞はドキリとするものが多いです。
ベートーベンの名曲「運命」のメロデイ一部を聴いたり思い浮かべた
だけでベートーベンの全てが理解できたような錯覚感と同じかもです。
最後に漱石ファンには冒涜ともとれるかもしれませんが
最近はネットでの深読みでしょうが先生は実は同性で
あるKに憧れるを遥かに超えた恋心を抱いていたのが真意で、
Kが自殺した後にお嬢さんと結婚に至るのですが、子供にも生まれず
「天罰だから子供が作れないのさ・・・」って台詞も出てきますが
これは結婚しものの先生は性的不能かKへの想いで奥さんは処女の
ままとも推測させてしまう部分もあるんですね。
またKと先生の自殺へ導いた黒幕は奥さんとお嬢さんの二人でKより
先生の方が資産家なので財産狙いの後妻業の先駆けだった説も。。
最後に私の思い込みで名作「こころ」を描いた漱石の
内心を探ると小説の中の先生は夏目漱石本人じゃないかとも思います。
乃木将軍にはなれない自分を小説として描きたかったとも思えるんです。
漱石は若い時に日露戦争への参加が嫌で軍隊から遠ざかるため人口の少ない
北海道に本籍を移したり、国費留学による英国留学でも大学にも下宿にも
馴染めず引き籠りとなり精神に異常をきたし外務省より強制的に
帰国させられてますが、その後はエリートコースから少し外れた
松山・熊本大学勤務となり国家や世間に負目もあったと思ううし、
屈辱感もあったと思います。
そんな時に明治帝の崩御とそれに続く乃木将軍の殉死に自らも憧れながらも
真似もできない自分に責めて文学の衣で装飾した小説の中で自分自身を
投影させた主人公を自殺させるという道筋を追体験的に描きたたくなって
しまったのかもしれません。
でも後付けの小説ながら死に至る理由が100年後の今の読者にも理解
できない内容なんで事実(乃木の殉死)という事実は小説より勝るを地
でいった感があります。
漱石没後100年を経た私をも含む日本国民の大半は
領土問題を経済活動やお金で片づけたがる高等遊民化一直線
の時代に生きてるのかもしれませんがほんの少しでも自責という
視線で自戒したいものですね。
子供や若すぎる人には理解は難しいですが今は無料でも本作品を
読める時代です。
高等遊民の無料読者化も文学界や著作権の壁と絡まる別の問題と
なりますが・・・。
改めて読めば読むほど感心する凄い小説ではあるのですが
無理に慌てて読む必要もなく小説「こころ」とはまた無縁の人生も
それはそれで其の人の活き方でもあろうと思うのでした。 ランキングに参加しています。
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歴史学習妄想メモ
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最近、映画シンゴジラの人気の影響でしょうか? アクセス解析で調べると6年以上も前に投稿した第五福竜丸の事件記事に 毎日2〜30名の方のアクセスがございます。 よって文字を大きくしたものを再投稿しておきます。 知られざる歴史【42話】 第五福竜丸事件被爆事件の真相XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX戦後の日本国民を徹底的な核アレルギーに陥らせた事件に米国の水爆実験による白い灰を被った「第五福竜丸事件被爆事件」がある。 この事件は当時報道された内容は偏向していた事が判明しつつある。 【1】 事件のあらまし 1954年(昭和29年)3月1日午前3時50分、静岡県焼津漁港の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」(乗組員23名)太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁近くで、米国の水爆実験による死の灰を浴びる被爆事件が起こった。
米国は1945年世界初の原爆を実用化し日本に二種類を投下、以後米国の核独占が数年続くがソ連が1949年に原爆を開発しその勢いで1953年には水爆まで実用化する。
ソ連に遅れまいと焦った米国は広島原爆の千倍の威力を誇る水爆実験を太平洋のマーシャル諸島で断行、この実験で危険地帯から離れていた日本の漁船第五福竜丸も被爆した。 水爆実験3時間後の午前7時頃、白い灰が雨といっしょに降り始めた。
白い灰は第五福竜丸の甲板に足跡が残るぐらい降った。 第五福竜丸の船長は事前に水爆実験の通知を受けており安全地帯にいたが被爆した。 被爆後日本への帰港コースを取るが船長の判断でSOSは発信しなかった。 SOSを発信した場合は米国の飛行機や艦艇により証拠隠滅の為に撃沈射殺 又は拉致されると船長達は考えており低速5ノット(時速9キロ)で3000キロ以上も離れた日本をめざしたのだった。 被爆後2日目から乗員達に異変がおこり、顔色が変色し、髪が抜けたり
頭痛,吐き気,目まい,下痢等の症状が出た。 それでも第五福竜丸は電波を発信せず航行を続け母港の焼津港についたのは 3月14日で被爆後2週間を経過していた。 日本では昭和20年の原爆に次ぐ核被害に大騒ぎになり乗員23名は
緊急入院、船倉の冷凍マグロからも異常な放射能値が出た。 23人の乗組員は二つのグループに分けられ、入院して治療を受けるが, その年の9月に無線長・久保山愛吉(当時40歳)が放射能症の悪化により死去、第一の犠牲者となった。 残る22人は,とりあえずはその後無事退院するものの,後遺症に 悩まされ,死の恐怖と隣り合わせの人生を送ることを余儀なくされる。 2003(平成15年)年までに亡くなった乗組員は計12名で,うち 10名の直接の死因は肝臓ガン、あるいは肝機能障害によるものであったと されている。 事件から50年も経過すれば死が全てが放射能の影響によるものなのかは 判別できない点もあるのだが。。。。 ビキニ水爆実験の後、日本本土でも放射能を含む雨が観測されるようになり,
いっそう人々の不安をあおった。 広島、長崎の原爆投下から僅か9年目で日本だけがこんな災禍を 再度(3度)も受けるとは、と日本の原水爆禁止運動は社会党共産党の 音頭取りで俄然盛り上がった。 もちろん当時の国民も反核運動に感化され核兵器を開発し続ける米ソに 対する日本世論の反発は日増しに強くなっていった。 全く謝罪しない米国との交渉に弱腰の日本政府は焦りわずか200万ドル (約7億2千万円)の「見舞金」(賠償金ではない)と引き替えに, 政治決着にふみきった。 尚米国側は久保山氏の発症原因は放射能だけでないと主張していた。 死亡した久保山氏を除く第五福竜丸乗組員22名に渡された見舞金は, 平均でおよそ200万円という当時としてもわずかなものであった。 翌年1955年広島で第1回目の原水爆禁止世界大会が開かれるまでに 発展し、その反核運動は当時より下火になったとはいえ今日に至っている。 しかし世界の趨勢はその後も核開発保有国は増加の一途である。 【2】第五福竜丸事件の真相(裏側)
ビキニの水爆実験は計画値の三倍も大きな爆発であり爆心地から150キロも離れた安全地帯でも被爆者が相次いだ。
もちろん、この水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではなかった。
米兵28名とマーシャル諸島の住民役200名がこの実験で被曝したという。 又、当時太平洋上で操業していた900隻にものぼる日本の漁船も被曝したと考えられている。 遠洋漁船ばかりなので仮に1隻10名乗組みとしても1万人近くが被爆した可能性がある。 では何故、第五福竜丸だけが大きな問題となってしまったのだろうか?。 実は被爆半年後に亡くなった久保山愛吉氏の死因は水爆放射能の被爆より、
慌てた日本側の病院医師達が良かれと考えて行った大量な輸血血液による 肝炎が原因だという。 (高田純 核爆発災害より)。 つまり放射線障害が直接死因ではなく売血時代の輸血血液(黄色い血液時代)のなかに肝炎ウイルスが混在していたからではなかろうかと?。 日本の医師団は米軍側からの被爆者救助への情報提供が皆無だったから
としているが、この肝炎説で考えると第五福竜丸以外の900隻の
日本漁船員やマーシャル諸島の住民から被爆半年以内直後の死者が
でてないことから信頼性も説得力もある。
もちろん被爆米軍人もビキニ島民も、その後長年にわたり被爆による
後遺症、白血病や癌に苦しめられて行くことに変りはないのだが。。。 日本側ではビキニ水爆実験と第五福竜丸事件は事実以上にセンセーショナルに マスコミや社会党・共産党に取り上げられ水爆から誕生した怪物ゴジラの 映画が製作され国民の「反戦」「反核」運動を盛り上げた。 この事件以後の日本人は大人も子供も「核」や「放射能」を理詰めで 知ろうとはせず西洋中世での「魔女」のように「放射能」を恐れるようになり、実はそれは今でも続いてるのである。 実は日本は1960年代の中国のよる核開発保有に対抗すべく国産の核弾頭開発に着手しようと本気で考え、そのためにこそ科学技術庁を発足させたのあるが遂に歴代政府関係者は国民感情(核アレルギー)を憚り科学技術庁にはその後も本来のタスク=仕事をさせては来なかったのである。 【3】余談
私は高田純教授の「核爆発災害-その時なにが起こったか」を読み
第五福竜丸事件の真相を知りました。 私は読後(2007年6月)に感想を本ブログ 核爆発災害-高田純 希望の良書と書きました。
今でも東京都の運営で夢の島の資料館に第五福竜丸は
展示されています。 第五福竜丸も被爆後も東京水産大学で練習船として10年以上使用されました。 しかしこの資料館を見学しても犠牲者、久保山愛吉氏の本当の死因を 知ることはできないでしょう。 核の原爆及び水爆被害を受けた日本国民は被害悲惨さを世界に訴えるのも 方法のひとつです。 「怖い!」「恐ろしい!」「絶対保有すべきでない!」だけの思考停止 よりも、いかに核災害(攻撃含む)から身を護るか? 広島・長崎原爆でもどうしたら被害を局限できたのか? 今後も核から身を護るにはどうすればいいのか? という視点も今後の日本人は重視して行くべきではないでしょうか? xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx 感想は人により其々でありましょうが 自分ながら何でも決めつけようとす固定観念からの解放を意識した文章 であっとように思います。
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第27代沖縄知事である島田叡(あきら)をご存知でしょうか? 本日のBGMです。 長渕剛 - 「俺たちのニライカナイ 」 (長渕さんと沖縄の因果は存じませんが) 島田叡(1901〜1945年) http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201502/img/d_07716505.jpg 戦前・戦中は地方自治という言葉も聞かれず全国の県知事は地元の 選挙ではなく内務省が官選で知事を任命してました。 そう殆どが内務省のエリート官僚の出世街道の為にある出世会談職が 各県の知事職でもありました。 またここが大事なんですが大正以降の選挙で当選した国会議員は皆さん 無給でした。 (今の政治家の皆さん ココ忘れないでくださいね) 昭和19年(1944年)秋以降の沖縄は平穏な島から火薬臭い戦場へと 移り変わりつつある時期でした。 大陸からの軍隊の移駐、台湾や本土への沖縄県民の疎開、米軍の空襲など 急激に戦のはじま島に変貌いたします。 政府も内務省も可能な限り予定戦場の沖縄中・南部から沖縄北部や 本土や台湾に県民を疎開しようと努力してましたが遅遅として 進展しませんでした。 それでも20万人近くが最終的に疎開しています。 疎開中の犠牲は米潜水艦による対馬丸撃沈のみです。 今でも左翼歴史観では千人以上の疎開も対馬丸の犠牲もケシカランと 決めつけますが、もし20万の県民(半数が学童)が沖縄本島に残れば 対馬丸以上の犠牲者が増えしまう結果になる事は彼らはスルー致します。 その疎開の遅れの責任をあえて追求し、犯人探しに行き着けば当時の 第26代沖縄知事泉守紀氏と沖縄32軍司令部とのトラブルでありましょう。 島田の前任の泉知事は昭和18年7月に沖縄に赴任、県民や県職員とも 陸軍とも協調関係を築けず、自分には甘く部下や周りに厳しく接するような インテリで昭和19年になり米軍上陸の確率が高まると色々な手を使って 沖縄から逃げ出そうと画策します。 沖縄に赴任した1年半の間の3分の一にあたる半年は出張などで東京などで 過ごしてました。 そして昭和20年1月内務省という組織を動かして自身は危険な沖縄から 逃げ出し香川県知事に横滑りします。 (軍と強調できない泉知事に内務省も困り果てて後任者を 探していたのかもしれません) 内務省は泉氏の抜けた沖縄知事の職、大阪府内務部長を務めていた 内務省エリート島田叡に打診します。 その時期は沖縄知事の昭和20年1月ですが後2ヵ月半で 米軍が沖縄に上陸してくる直前です。 家族も友人も皆島田の沖縄行(沖縄県知事赴任)に大反対します。 しかし打診を受けた島田は一発返事で打診を諒承し 周囲の反対者たちには 「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、 言われた俺が断るわけにはいかんやないか。 俺は死にたくないから、誰か代わりに行って 死んでくれ、とは言えん。」 と告げ昭和20年1月末に沖縄に飛びたちました。 島田氏も断固拒否すれば沖縄行きは免れたかもしれませんし この時、島田氏以外にも沖縄行きを打診されていて断った 内務官僚もいたかもしれません。 沖縄に赴任した嶋田知事は前任者との違いを鮮明にし、陸軍との関係も 改善し、県民の沖縄本島北部への疎開も急ピッチで行い、防空壕や 避難所をつくり、北部の糧食が不足すると知り陸軍とも交渉し、 それでも足りないと2月には台湾にも飛び米3千石を緊急輸送するなど 縦横に活躍し県民からも期待が寄せられたのでした。 昭和20年4月1日以降米軍が沖縄本島に上陸し本島で戦いがはじまると 島田知事は慣れ親ししむ間もない県庁からでて防空壕を次々と移りながらも 軍や職員と協力して露天や壕で行政組織を維持し執務も行います。 沖縄戦の後半は5月に入り首里戦線で日本軍が全滅するか、南部に撤退して戦いを延長するかで大きく揉めました。 (史実では軍は南部に転進し南部に追い込まれた軍民は時間稼ぎとは裏腹に 米軍の徹底攻撃を受け犠牲者を増やしてしまう結果となりますが。。。) この大事な時点での作戦会議に島田知事も出席し堂々と知事(行政官)としての立場を述べます。 「南部には多くの住民が避難しており、住民が巻き添えになる。」 「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に 撤退し、住民を道連れにするのは愚策である。」 島田知事の正々堂々の意見にも関わらず、軍は本土決戦への為の時間潰しを 優先し南部に転進(撤退)が決まり島田も少なくなった職員と共に南部の 地に撤退しますがこのころから(6月)何処をどう動いたか記録も あまりみつかりません。 6月9日に島田に同行した県の職員、警察官に対し、 「どうか命を永らえて欲しい。」 最後のと訓示を行い 県及び警察組織の行政組織の解散を命じました。 その後、島田知事は荒井警察部長とともに行動を共にしていたようですが 6月26日以後消息はわかっていません。 (沖縄軍の総司令官牛島中将も6月23日自決) 米軍の銃火に倒れたのか自決・入水なのか未だにわかりませんし御遺骨 も見つかっておりません。 沖縄の日本軍が全滅したと思われる昭和20年7月、安部内務大臣は 国と沖縄県民のために命を投げ出した故島田叡に行政史上初の 内務大臣賞詞と顕功賞を贈りました。 「其ノ志、 其ノ行動、 真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」 と称えました。 (↑全国の自治体職員の皆さんどう受けとめますか?) 内務大臣が一県知事に対し賞詞を授与することは、戦前戦中も 前例がなかったそうです。 この島田への顕功賞を戦後も長く生きた泉守紀は どう受けとめたのでしょうか? 少し気になるところです。 現在も磨文仁の丘に建つ島田知事をはじめ県職員453名の慰霊碑を 慰霊する「島守の塔」が戦後沖縄県民の浄財により建立されました。 毎年沖縄の高校野球夏の大会の優勝校には島田叡の名を冠し、 最後の官選知事島田叡に感謝の気持ちを表す「島田杯」が贈られています。 沖縄や本土の左翼人は戦前の日本の軍人や政治家・官僚を全て悪で あったと攻撃します。 陸軍の牛島勇中将は今でも「戦前戦中の悪」と彼らから看做されています。 でも歴史を捏造する彼らでさえも今のところは「島田知事」の事を ひと言も悪くは書けません。 頭の良い彼ら(左翼人)は島田叡の事を徹底的に無視スルーする事に より歴史の表に出さずに歴史地層に埋没させる「化石化戦略」を 採用中のようです。 私は島田知事はもっと知られるべきだと思います。 興味をもたれた方は田村洋三氏の「沖縄の島守-内務官僚かく戦えり」 を読まれるとよいかと思います。 島田知事を支え行動を共にした荒井退造警察部長もとても立派な人物である事が理解できます。 組織のリーダーや長たる方が読んだからとて誰もが島田叡の真似が できるはずもありませんが 「人のために働く人は美しい」という事を再確認できようかと も思います。 日本の政治家や行政従事者は必読の書でしょうか。。。ね。 (でも今はそれよりもカネですか?) 以上、沖縄戦を通じて私が一番に魅力を感じ 今も静かに感動を持続させる人物を紹介させていただきました。 ノブレス・オブリージュとは 直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」という意味合いですが 判り易くすれば
高い地位にある者はそれだけ重い責任と義務を負うという自覚
を身で心で行動で示すべき・・・ともなるのでしょうか?
こんな外来語を今さら持ち出さずとも日本には古来から文武両道こそが
真のエリートであり、エリートでなくても武士道や切腹という
世界に類をみない立派な責任オプションが存在し、明治大正までは
そのDNAが軍隊や旧制高校にも多少は受け継がれましたが、1945年の
軍隊の消滅、1950年の旧制高校の廃止や武道などの「道」が名につく
スポーツの廃止(占領軍政策)により文武両道は廃れ、エリート教育は
受験丸暗記秀才の試験結果重視となりかっての気概や責任感は薄くなりました。
組織や自分らに関わる責任をとらずとも受験秀才の勝者のままで何とか定年
天下りができ、省庁のトップ人事はは首相や政治の任命でなく自分達の互選
で選ぶ事が何故か今も許されています。
(政治家は選挙が国民の審判となり責任をとらされています)
受験エリートではない一般大衆も「平和・馬鹿デモクラシー」思想が蔓延し
危険な事や戦争ごとや紛争は誰かが解決してくれる、、、経済不況も・・・
いつか誰かが解決してくれる、外交ではとにかく相手がどんな冷酷な国で
あっても友好や協調とう名の屈辱外交を繰り返してますが、他力本願な
国民大衆も、今も今後も責任をとろうとはしないしない日本の
受験秀才エリートを不安感一杯で横から目線で眺める状況が今現在です。
私が外来語で書いた裏には
最近というかここ10年くらい日本で高い社会的地位を占めている人々が,
そこそこの年齢に達するや、上から目線で自らノブレス・オブリージュを
言い出す傾向が強くなってきたからです。
何と自分自身を高貴な人間と位置づける傲慢さが鼻持ちなりませんし
人前で口や言葉で喋らずとも,いつでもどこでも淡々と決断し実行して
みせればよいだけの話でではないでしょうか?
現在のエリートの皆様が昔から日本に存在した武士道的な 気概を持ち続ければこの国はまだ大丈夫と思いたいのですが。。。
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この書庫も尻切れとならぬよう旬の話題を 投じたいと思います。 本日は私の一番好きな応援歌がBGMです。 この曲をNHKで流すと某国が怒りまくるんだそうです。(笑) 8月になるとリオ五輪がはじまりますね。 オリンピックといえばメダルですがその裏では 常にドーピングの問題が浮上してまいります。 ー今回は簡単に国際的なド-ピングの歴史と日本人の ドーピングに対する執着や認識について私なりに考えます。 狭義のド-ピング定義は スポーツにおいて、競技能力を高めるために、使用が禁止されている ドーピングを行う側の起源といいますか発祥国は間違いなく英国です。 19世紀から初めから各種行われてますが、英国の利点として 人間に使う前にギャンブルである競争馬に様々な興奮剤から 失敗すると即死するような劇物までを組み合わせて、うまくいくと 近代オリンピック以降の競技で選手(人)に使用して効果(好成績?) を挙げてきました。 第一次大戦や第二次大戦でも戦う兵士に敵が怖くなくなる興奮剤や 安定剤、覚醒剤を与えた国家は多いのです。 ドーーピング嫌いな(理由は後述)日本でも本土防空戦や特攻隊 の一部の部隊で栄養剤とか暗視ホルモンとか呼称した怪しげな 覚醒剤(ヒロポン)を飲まされて戦後もその後遺症に苦しまれた 方も少なからずいらっしゃいますが。。。 英国発祥であったドーピング技術も戦争などで他国にも真似られ 戦後は人間を人とは観ずモノと考える共産国家のソ連や東ドイツで ドーピングは驚異的に進歩を遂げます。 当時は米ソの冷戦中でもありましたからアメリカだって黙認はできません。 ソ連よりも進んだ医科学研究で検査でバレないドーピングを創造します。 ドーピングに使われた薬品を時系列で追いかけますと 19世紀 興奮剤トリメチル カフェイン コカイン 馬から人へ※ カフェインはドーピング指定薬物とされた時代もありましたが 現在は外されております。
サッカーにしろ1970年頃はイタリアセリエAの選手の9割がドーピング依存でした。 更にソ連や東欧を中心に、女性選手の一部は妊娠と中絶を繰り返して 妊娠初期のタンパク質同化ホルモンが大量に分泌されるのを利用して 競技に役立てようとまでしました。 それらの女性選手の多くは夫や恋人にも内緒でコーチや監督と 妊娠中絶作業を秘密で繰り返したのです。 今やドーピングの検査技術も向上し競技の前後だけでなく常にアポなし で検査を行い選手が拒否すれば出場停止や資格はく奪となりますが 逆に様々な抜け道を考える選手やチームや国が後を絶ちませんし パラリンピックの選手にさえドーピング剤やグッヅが蔓延ってます。 長々と書いてきましたが私の興味はドーピングに対しての日本人選手 並びに日本チーム、及び日本人全体の意識が薄いことです。 更に下種に勘ぐると日本人選手は何故?ドーピングをしてまで 勝とうとしないのか?という点です。 この点の日本人の意識を褒めてるのでも馬鹿にしてる訳ではありません。 私なりに考えますと日本人の強みでも弱点でもあるんですが 徹底的に悪魔に魂を売り渡してまで悪になりきれないし、 戦争でもオリンピックでも格闘技でも中途半端なんです。
ドーピングがバレたら会社やチームやコーチや監督に迷惑がかかり もう日本では生きていけないとチキン心となります。 もちろん日本選手団も敵対する各国の選手団は違法なドーーピングを やっているであろう事は肌感覚で判ってはいるのです。 でも日本人選手の多くはたぶん今後もドーピングには関わらない。。 主に外国が定めた統一ルールを護りさえすればドーピングを行う 相手に勝負では負けても悔いなしの精神もあるわけです。
(外国は自分らに有利な規定をさだめながら、裏側でドーピングも有り)
私はこれは本当に日本人の長所であり短所だと思うのです。 振り返れば、第二次大戦で食料資源も少ないのに南方の戦場に 腐りやすく保存し難い生米を持ち込み、最前線で飯盒炊爨していた 日本軍ですが主食は「コメ(米)」以外を代用できませんでした。 そうです。 「コメ喰えないのなら、戦争に勝てなくても構わない」 という自分にも身内にも「負ける事を許してしまう甘い考え」も 浸透してしまいました。
悪く言えばね、ちゃんとルールを護って戦えば勝負(競技・戦争)に 負けてもしかたないといいますか、身内からは負けても ドーピング抜きでのノーマルな努力は認められて彼(彼ら)なり
によく戦ったとなる訳ですね。
国民性に絞れば、核兵器にしても近隣や北方の某大国や日本の GNPの1%にも満たない某・某小国まで核の保有や投射手段に
やっきとなる国際情勢の中です某半島南部の国の体を為さぬような
国でも核兵器保有を隙あらばと考える中で我が日本は古い原発燃料等、
核弾頭に相応しい原料が揃っておりながら、これだけ近隣諸国が
火薬臭くなってきても、タカ派を気どるA首相でさえ
「今後も我が国は核兵器を保有しない・・・」ですからね。 何処が改憲?ヒトラー的な独裁者なんでしょうね。(苦笑 最後に日本を罵ったように感じた方もいるかもしれませんが 日本人の心(精神)の清さ、美しさがグローバルな世界との闘いの 中では時に短所にもなるという事を来月のオリンピックを観戦しながら 時に少し想いだしていただければ私も幸いに思います。 リオ五輪では私個人の妄想ですが、人類の記憶に残る記録に挑戦を 続けるウサイン・ボルトさんがもしドーピングをしてくれて
100mを8秒台で疾走(後に失踪)して欲しいものです。(苦笑 そろそろオリンピックも
●日本に有利なノーマルオリンピック部門(ドーピング無)
●裏表の多い自称先進国に向いたガチドーピング有部門
(ドーピンピック?)
●パラリンピック部門
の3部門に別けあった方が観客や視聴者も判り易いのでは。(苦笑
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増やし筑後の名将、立花宗茂の籠る立花城も開城させてしまい だけで自身は欲の無いふりをします。
関ケ原当時は司馬遼太郎の作品等やNHK大河では 天下取りの野心が黒田孝高にあったとされるわけですが 実は九州全域を占領し九州の地にキリシタン国家の構築 を夢見たわけです。 頭の良い黒田孝高の事ですから日本のキリシタン政策は
禁教弾圧に向かう方向にある事を見抜き、それならばと九州を
自身で切取り大友宗麟も描いた日向の宗教国家の拡大版を
目指したのではないでしょうか?
普通の人はそれならば親子二代でキリシタン大名であった
大友義統とキリシタンペアを組めば良いのでは? と思われるかもしれませんが、黒田孝高は自分の名声を 日本国内にいる宣教師達にも、ひいてはローマカトリック界隈にも 伝えようとしていたので凡庸な大友義統をある意味ライバル視し 朝鮮征伐での大友義統の消極的な戦で家督を失った時も軍監でも あった黒田孝高は庇おうともしていません。 ローマ側や宣教師の多くも人の器の違いから義統より 黒田孝高の方を政戦ともに利用しやすいと考えた事でしょう。 しかし史実の通り息子長政の大活躍で関ケ原本線は1日で 勝敗が別れ黒田孝高のキリシタン王国建設の夢は儚く消えたのです。 ![]() 黒田孝高の葬儀 秀吉や家康の前では黒田孝高は熱烈なキリシタンの顔は 出しませんでしたが37歳で洗礼を受けてからのその後の 生涯はキリシタン人生でした。
そのような黒田孝高の葬儀はどのように行れたのでしょうか? 1604年慶長9年3月20日に黒田孝高は伏見の藩邸で亡くなった とされていますが、葬儀は地元の福岡で簡素に行われたとされています。 「黒田家譜」にも 「歳五九 法名龍光院如水円清 筑前国那珂郡博多崇福寺に葬」 名目50万石の大名家の藩祖にしては簡素過ぎる何かを隠してる ような表現です。 そう実は黒田孝高(如水)の葬儀は壮大な教会式でも行われたのです。 息子の長政にも遺言で博多に大きな教会を建てるように命じ、 長政もそれに応え長崎よりも大きな教会を博多に建て
黒田孝高の三回忌はその博多の新築された大教会で荘厳に行われました。 用意周到な息子の長政もここまでは幕府にすべて許可や許し をとっていたと思いますし、一応教会葬の後に仏式の葬儀も おこなっておりますから、「黒田家譜」も嘘は伝えてないわけですが 真実100%には程遠いようですね。 しかしその後の慶長18年に長政は徳川家康と秀忠から 博多大教会の閉鎖を命じられ父よりもリアリストであった 長政は逡巡もなくそれを受け入れ博多大教会を閉鎖破壊し キリシタンの転ばない部下を秋月等に追い出しその教会の後に
場所に後から勝立寺(現:福岡市中央区天神4丁目)寺を建てています。
※ 詳しく知りたい方は「石城問答」で検索ください。 もし貴方が軍師官兵衛 ファンなら福岡の天神を訪れた際は 勝立寺も見学されてみてください。 どことなく不思議な寺であることは理解できると思います。 今回は文才もなにのに孝高(如水)の後半生のキリシタンぶりを 描きましたが、案外と後世に消されてしまった「歴史の真実」 は数多く存在するのかもしれません。
キリシタン視線で考えると考えると秀吉に嫌われた孝高は 九州の豊前に入国するわけですが、秀吉は野心家としてではなく キリスト信者としての孝高(如水)を毛嫌いしたのかもしれません。 私の思うところは天下取りの野心を見抜かれないように家督を息子 長政に譲って如水となったのでなく、秀吉に会う回数が増えると 自身がキリスト信仰者である事を殊更知られてしまう事を避けるため 自ら隠居を選んだものと思います。 。
ちなみに如水円清は僧籍ではありません、事実はシメオン という洗礼名の根っからのキリシタンでありました。 「ヨシュア(Josue)=如水」だそうです。 ヨシュア(Josue)を調べると旧約聖書のモーゼの 部下でもあり参謀のうような人であったようです。 少し詳しい日本人は秀吉をモーゼに診立てたのでは? 考える人もいるらしいのですが、そんな事はないでしょう。 彼は神エホバの参謀の心算でいたのではないでしょうか? 生涯 妻だけで妾はいない、部下の殉死を禁じたので 清廉な人柄ともいいますが、妾も殉死も神に禁止されて いたんで人物像を少し割り引く必要もあるかもですね。 しかしNHKは政治も経済も大河ドラマでも核心や 真実を伝えてくれませんね。(苦笑 ランキングに参加しています。
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