涅槃までの14万歩!ハッピーリタイアできない100kmウォーカー

2017年11月にタイトル変更・・・中身は変わりません。 ぷらっとして行ってください。

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歴史学習妄想的メモ 【39話】

 実現不可能な爆撃機「富嶽」を提案した中島知久平氏の真意(後編)です。


ここで中島知久平氏のおさらいですが、元々が海軍機関大尉で
大正時代より航空分野の将来性に期待した軍艦より航空軍備優先派の
人物で国内では民間航空会社が皆無なため、自身が海軍を辞めてしまい
民間航空会社を立ち上げて後に戦争でも活躍する隼、疾風、また海軍の零戦や
他に様々な多くの軍用機を生産いたしました。


敗戦とはなりましたが機体・発動機ともに三菱航空機を上回る
航空機の製造を行いましたが、もし中島知久平氏が中島飛行機
を大正時代に立ち上げなければ太平洋戦争はもっと悲惨な負け方を
をしていたように思えます。

つまり中島知久平氏は実業家で大物政治家ながら飛行機についても
詳しい人物でありながら実現不可能な詐欺っぽい富嶽開発計画を
本人はどこまで本気で持ちかけたのでありましょうか?

ワタシは当初は中島氏が戦争を利用してライバルの三菱航空機を
凌駕するため資材や新技術を優先的に手中にするため、つまり
戦争を利用して会社を大きくしていく事をねらっていたとする説が
正しいように思ってきました。


当時は三菱と中島飛行機と川崎が三大航空機メーカーですが元々の規模は
三菱や川崎が圧倒的に大きかったのですが、戦時中は中島飛行機の方が沢山の
数の軍用機や発動機を製造し三菱や川崎よりも多数の機体や発動機を造り遂げます。。

理由は経営者の理念や戦争への貢献意識の違いが大きいと思いますが
三菱航空機は日本が戦争に負ける事を当初から見通しており、戦争中の航空機
の増産や設備投資に消極的でもあり、逆に中島は積極的でした。

実は中島知久平氏本人も開戦前から米国の国力を熟知しており戦争の立場に反対で
戦争もいずれは負ける事は最初から覚悟していました。

そんな訳で海軍も陸軍も戦時中の後半から三菱よりも何かと中島に
頼るようになり昭和19年ともなると中島が三菱を生産数で上回りました。

堀越二郎氏の設計で有名な三菱が誇る零戦にしても発動機「栄」はほぼ
中島で製造し、零戦の機体製造も三菱が増産に応じないので中島にも
製造依頼がありました。

零戦は日本では空前絶後の唯一1万機を超えて製造された軍用機としても有名ですが
内実は三菱製4000機弱中島製零戦が6500機前後ですから三菱の代名詞
ともいうねき零戦も1.5倍以上も製造し更に中島は自社設計の隼5000機、鐘馗1000機、
疾風3000機と陸海軍の単発戦闘機の6割ほどを1社で手掛けております。

同じ性能の飛行機なら三菱に発注するより中島の方が安いので
陸海軍が中島に多くを発注したとの説もあります。

戦争の後半の事実上中島が三菱を追い抜いた頃に中島飛行機の幹部が
中島知久平氏に
「この戦争でこんなに飛行機を造って中島(会社)はどうなるのでしょう!」
とオフレコの質問をしたそうです。

それに中島知久平はこう即答したそうです。
「戦争に勝っても負けても中島飛行機は滅ぶ!」

そうです、戦争に負けると米国の意向で飛行機は造れませんし
仮に日本が戦争に勝ったとしても過大な設備投資を軍から回収
できませんし、戦争が終わるとラインで製造中の飛行機も発注
キャンセルとなりのは必定です。

実際に戦前は2万人規模の中島飛行機従業員も終戦時には
各工場を合計すると25万人にも達して昭和19年の後半からは
中島や工場の土地から工作機械まで国に貸し出し、国からの賃貸支払いを
従業員の給料に充ててました。
そうでもしないと戦時中でも中島飛行機は潰れてたと思います。
※ どうも中島飛行機は他の財閥系航空機メーカーとは違い資本蓄積が少ないようです。

終戦でもちろん中島飛行機は潰れました。
非軍需産業での再建も目指しましたが日本で断トツに戦闘機を造り結果
米国の軍用機を墜とした日本メーカーでは中島製が断トツですから15社以上
の企業に解体(財閥解体)されてその中の1社が後に富士重工(現在のスバル)
となるわけですが。。

会社が潰れた時に中島知久平氏は授業員達に退職金代わりに
金額の記載のない手形を渡しこういいました。
「各自が好きな金額を書き銀行に手形を渡しなさい」

第一次世界大戦でのドイツ敗戦では瞬く間に数千倍とかの
スーパーインフレとなった事から日本の敗戦でも超インフレ
を察知しあえて高額な金額を書かせたのでしょうか。。

結果的に中島知久平氏は日米戦争には航空戦では絶対勝てない
と知りつつも大企業三菱以上に航空機を安くたくさん作り過ぎ
戦争に勝っても負けても中島飛行機は戦争が終わると存続できなくなる
事を誰以上にも知りながら、国家総力戦の先頭となり敗戦となるや従業員の
解雇に対しても超インフレを見越し高額な手形を発行し、占領軍であるGHQにも
睨まれ、飛行機の制作も敵わず中島飛行機は解体され中島知久平氏もA級戦犯
指定され 公職追放もあり無一文となりました。
(中島知久平氏 1884年生〜1949年没)

でも飛行機を造る事で国家に貢献する中島知久平氏の夢は
最低限はかなったようにも思います。

では最初の疑問の何故、実用の軍用機の製造や工場拡大だけでも
火の車であった事業にプラスして壮大過ぎる富嶽の開発計画を
陸海軍共同事業としてまでプレゼンし実施に向けて動いたのでしょう?

以前のワタシは中島知久平氏は武器商人として戦争で富嶽開発で
大きく成長させたいのでは?考えていましたが考えを訂正しないと
いけないようです。

中島知久平氏の絶対に戦争に勝てないし戦争にも絶対に間に合わない
富嶽計画を国に認めさせようと動いたのでしょうか?

今のワタシなりの解釈と理解ですが中島知久平氏本人は私利私欲は
ないものの25万人を超えた技術者や作業員を本土決戦等の赤紙召集から
救うためまた一度は敗戦するも戦後はいち早く富嶽開発で得ようとしていた
高度な技術習得による戦後の日本航空界の再建のため人材を確保
しようと夢に描いていたのではないでしょうか?

※ 事実、昭和18年ごろ中島飛行機で誉エンジンを設計主任を務めた中川良一氏が陸軍に
  赤紙一枚で一兵卒とされた熟練工まで陸軍に徴収されてます。

イメージ 1


















余談となりますが最近日本では一番の利益(内部留保)を稼ぐT自動車会社の社長が
「終身雇用を守って逝くのがは難しい局面に入ってきた」
と発言し物議を醸しましたが、あれだけの輸出額相当の消費税を免除されて
おきながら何という甘えた従業員蔑視の発言がありましたが、日本一稼ぐ会社
の社長が発言して従業員のモチベーションは維持できるのでしょうか?

そう考えると75年前の中島知久平氏は堂々の漢(おとこ)ぶりで
国家にも従業員にも情に厚い人ではありませんか?
ワタシは氏の事をもっと知りたくなりました。

今回は長い投稿文となりましたが最後まで読んでいただき
ありがとうございます。


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歴史学習妄想的メモ【38話】

実現不可能な爆撃機「富嶽」と中島知久平氏の真意(前編) となります。


戦争に詳しい方なら戦時中の中島飛行機(後の富士重工)の経営者かつ
政友会の総裁まで務めたり鉄道大臣なども歴任された政治家でもあった
中島知久平が戦時中に起死回生の爆撃機「富嶽」を開発しようとしていた事はご存知でしょう。

富嶽は実際に登場し日本へ戦略爆撃をおこなった米国のB29に対抗どころか
遥かにB29を超えたスペックで戦争を日本の勝利でケリをつけようと真剣に
計画され東条英機首相にも気に入られて前向きに陸海軍共同で開発や量産まで
国家的をあげて検討はされたようです。

 米軍のB29重爆 実際に4000機生産され主に日本に空襲を加えました。

イメージ 1


 
 B29でさえマリアナ諸島から日本本土への6000kmの往復爆撃がやっとでしたが
富嶽はB29の3倍もの爆弾を搭載し日本から無着陸で1万8000kmもの先の
米国本土を爆撃し大西洋に抜けてドイツの支配地域に着陸し、整備、燃料、
爆弾を補給し再度米国を爆撃し日本に戻るか、北極海(ソ連上空)を抜けて
日本に戻るという現在から考えてもかなり無理のある壮大過ぎる爆撃機でした。

 富嶽 1機も製造されませんでしたが 戦後プラモデルやIF戦記では人気モノ?

イメージ 2



















しかし中島知久平氏の壮大な富嶽プランは、昭和19年6月のマリアナ諸島の
失陥の責任を取らされた東条首相の退陣や日本が完全に対峙から本土を攻撃
されるため夢のような富嶽よりも戦闘機や防空兵器の増産や改良が優先される
事となり、1944年には富嶽用の組立工場建屋まで完成していたのですが中止となりました。

以下 富嶽と憎きB29  比較です。

      富嶽の計画性能     B29の性能
  
全長   46.0 m              30.0 m
全幅   63.0 m                           43 m
主翼面積 330.00 m2                  160 m2  
全備重量 122 t            63トン 
発動機  5000馬力x6基      2.200馬力x4基 
爆弾   20トン                            9トン
最大速度 780km                       570km
航続距離 1万9000km         9000km



これにより日本からの米本土攻撃計画は挫折しますが、もう一つのプラン
風船爆弾は大成功とはいえないまでも気流を利用し米国に一定数の風船爆弾が到達しています。

富嶽の大風呂敷過ぎる開発への漕ぎ付けと最終的な中止至る流れは
戦史マニアなら知ってる話しでワタシの大嫌いな1990年代に一世風靡
したIF戦記モノに「富嶽」が実用兵器として多数登場して来ます。


イメージ 3

 仮想戦記小説ですから
 全く史実でありません。(笑





























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イメージ 4

  こちらもあったらいいなの仮想小説。























しかし重要な点は中止となる判断は東条首相の退陣の結果という
「政治判断」だけでなく、本当に無理や創意努力で富嶽は完成実用化が
できたかのか?と問われれば絶対に計画通りの要求に応える事は無理でした。

※ 諸与条件を考えず脳内空想が実現できるのはIF戦記の中だけです。
  IF戦記の作家が脳内空想すればバチカン市国でさえ米国に勝ちますから。

つまり幾ら開発資材や燃料や飛行場を用意できたとしても
誉などの2000馬力の発動機の量産に苦労した日本の技術陣が
米国でも当時実用化されてもない5000馬力以上以上の発動機
を開発するなんてはなから無理な話でした。
中島飛行機の社内の技術者は中島氏から富嶽構想を聞いたとき
全員が反対というより実現は無理との返答であったようです。

ここにワタシの大きな疑問が生じます。

何故?中島知久平氏は最初から社内でさえ実現不可との見通された
詐欺的な要素も感じられる誇大プロジェクト富嶽計画を持ち込み
売り込もうとしたのでしょうか?


(後編に続きます)


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歴史学習妄想的メモ 37話であります。
10連休で書くつもりが怠慢で投稿遅くなりました。

いやあワタシも歴史好きを勝手に自認してますが、
この事実には驚きましたね〜。

昔の人は寿命が短くて、西洋医学が伝わった明治維新後に日本人の
寿命が急に伸びたんじゃなく、実は明治の後半から大正10年まで
日本人の平均寿命が駄々下がってたのが、或る人物の英断によって大正10年
以降から日本人の平均寿命が急激とまで表現されるように世界一に向けて
伸びたって話なんですが貴方は信じますか?

信じる方も信じない方も暇なお時間があればおつきあいください。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

縄文時代や弥生時代なんかは人の平均寿命が15歳前後だったらしいですよ。
ワタシなんか既に61歳ですから世が世ならばもう4回は埋葬されてて
生きてるのか怨霊かゾンビかわからないですよね。

日本人の平均寿命は鎌倉時代や戦国時代で30歳前後、江戸時代でも
35歳前後で明治時代に入り40歳代に上昇したかと思いきや、なんと
明治時代の後半から乳幼児の死亡が増えて明治末期から大正10年の間
は乳幼児が年間で30万人も死亡する年もあり日本人の平均寿命を
下げていたのだと判って一方的に近代化で世の中に全てが過去より
良くなるわけでもないんだねって思いましたね。
※昔も徳川家康のように長生きする人もいますが乳幼児の死亡率が
  高く平均寿命が低くなっていまうんですね。


明治時代から大正時代の日本は富国強兵の時代でもあり
戦争には続けて勝利し、どんどん右肩上がりで暮らしも向上したかに
思えてましたが、幼い子供達にとっては怖い時代であったのですね。

年間で生まれてるのに乳幼児が30万人も死に至っていたなんて
幻や捏造や推定の南京大虐殺(2万〜30万人)なんかとは違いこちらは正しく
乳幼児の毎年の死亡数です。

人口動態統計100年の年次推移
イメージ 1


 ↑ 明治末期から大正から10年まで年間で出生1000人に対し誕生日も迎えられず、
    150人以上の乳児新生児が亡くなっていました。
    
 実は、これから真相を書けばワタシは水道局の方々に凹られそうですが
明治20年頃から東京や関東で西洋を真似て水道事業が始まってるんですよね。

便利ですからこそ明治から大正期に都会では水道が普及したんですがその水道の
普及は乳幼児の命を奪ってしまう方向にも向かいました。

水道のない時代は井戸の水や小川の水を桶で汲んだり運んだりもしてましたが
都市部で水道が普及しだすと、命の安全性より水の利便性が優先されてしまった
ようで水道の発展期における「負の歴史」の存在も一時期ですがあったんですね。

そう大きな声では水道局の方に恨まれるので発声jできませんが当時の水道管の中を流れて家庭の蛇口に至る水は殺菌も消毒処理もされておらず或る意味危険な水
だったんですね。

当時でも聡明な親は赤子や幼児には可能な限り水道水は飲ませず、
煮沸したりしてたようですがその知識は庶民までは浸透せず
大人なら淀んだり細菌の混入した水を飲んでも下痢して寝込んだりで
なんとか回復できても幼い乳児や幼児は体力が弱く直ぐ死に至ってたんですね。

話しは急ハンドルで横にぶっ飛びますが、大正時代といえば第一次大戦とか
ロシア革命とか関東大震災やシベリア出兵とか大きな出来事がたくさんあったんですが実は日本陸軍は細菌や化学研究を応用して化学(毒ガス)兵器を水面下
で開発しており機会があればシベリア出兵やその後の戦争での液体塩素
ガスの使用も目論んでました。

今なら塩素って消毒や殺菌のイメージもあり怖くは思えませんが、潜水艦等が
敵から爆雷攻撃を受けたりして潜水艦内の電池が破損して狭い艦内で
塩素ガスが発生し乗員が多数亡くなったとか読んだ記憶がありますし、
第一次大戦でドイツ軍が世界に先駆けてイープル戦で使用した毒ガスも
塩素ガスが主成分でした。

塩素ガスを吸うと咳や嘔吐に苦しみ症状が酷い場合と死に至ります。
つまり初期の毒ガス=塩素ガスと考えていいと思います。

しかし日本陸軍の毒ガス開発は第一世界大戦もシベリア出兵も終了し
戦う国が一時的になくなり、軍事予算も削られ毒ガス開発もより小規模な
研究に移行しますが、とにかく軍事機密の壁に護られ一般国民は知らない
塩素ガスでした。
戦前も戦後も変わらない国家や国民の健康よりも軍の勝利や省益が大事な
お役人や軍人の一部からは
「国家機密の秘密兵器を民需に転用するとは何語とぞ!」
と強い反対もあったのでは?とも思うのですよ。

しかし軍事機密でもある戦場に運び易いように液体化した液体塩素を軍事
から民需に転用しようとして人物があらわれました。
塩素の液体化により細かい調整や精度で水道水への混入が可能となった。
彼こそが日本近代の中の偉人中の偉人、

後藤新平

であります。

イメージ 2


 
 後藤新平って現在ではそう知られてませんが、軍人の児玉源太郎とくんで
台湾や満州を開発や近代化したり、満州や台湾の阿片患者を激減させたりと
日本といわず「民政」にその持てる力を尽くした人物ですが若い時は
細菌学では日本の権威でもあり北里柴三郎らに次ぐ専門知識を
兼ね備えた人物でもありました。

ペスト菌などの細菌から日本人といより人類を護ろうとまで考えて
動き回っていたのですが、天の配剤とでも申しましょうか、
大正10年当時、後藤新平は関東大震災の復興責任者でもあり
東京都知事でもあり軍事機密の厚いベールに覆われ、一般国民には
秘密となっていた液体塩素の技術を応用し一定の割合で水道水に
混ぜて給水するという大英断を世界に先駆けて実施いたします。

馬鹿とハサミは使いようとは昔から申しますが、塩素も戦争に使用すれば敵兵の命を奪う危険な毒ガスとなり国内の民需に転用すれば殺菌消毒で国民福祉に大いなる貢献を果たしたわけです。

後藤新平の思惑通り結果は劇的な大正10年以降の日本人の平均寿命の
劇的な逆V字回復に繋がり現在に続く日本人の世界でも突出した高平均寿命
への大いなる助走となったのです。

もし、関東大震災がおこらず後藤新平が帝都復興の責任者かつ
東京都知事のポジションに就いてないない場合、水道水への塩素殺菌が
その後かなり遅れているとしたら・・・・後藤新平の英断に後世の私達日本人は
感謝すべきですね。

後藤新平については、大風呂敷過ぎるとか反米親ソでつまり
左翼であるとかフリーメーソンと繋がりがあるとかで現在でも嫌う人もいるのですが
識見もやり遂げた業績も素晴らしく思いますね。

現代の政治家や官僚は些細な事を自慢し、危険を伴う命を張ってまでの
国民貢献はやらないのですが、大風呂敷と揶揄されようとも
常に「あるべき姿」を具現化し実行しようとした後藤新平の爪の垢をご遺骨から
DNA採取して大量に複製して大量に飲んでいただきたいと思うのはワタシだけじゃないでしょう。。

また最近は水道事業を低コストに抑えるべく各自治体が民間業者に委託しようとする安全よりもコストを優先する論議も浮上しておりますが、常にあるべき姿を
イメージしていた後藤新平ならばどう考えるのでありましょうか?


※詳しく水道水の大正10年改革を知りたい方は竹村公太郎 
 をお読みください。


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自分用の備忘録として勝手に書いております
 歴史学習妄想的メモ 37話は題して
 「21世紀の中国は海にも万里の長城を築こうとしている」
 暇なお時間のある人はおつきあください。


 ワタシは中国の歴史については詳しくはないのですが
今の後知恵なら馬鹿馬鹿しくも思えてくる万里の長城のような
無駄な壁を国境中に構築して来たのか?不思議に思うのですよ。

一言で申せば、昔も今も中国人は自分達の住む(支配する)内界と
外界の間に壁を築こうとしてきたのでないか?とワタシは30年くらい
ぼんやり考えてましたが、最近というか21世紀の中国は太平洋や
インド洋にも海の万里の長城という壁を構築してるように思うのです。

犬が散歩してションベンして自分の陣地と他者にも知らしめる
マーキングするようなものです。

まあカッカせずに何故?あの国の人は壁を築くのか?
という視点で歴史を振り返りましょう。

最初に国境線に万里の長城を築いたのは紀元前3世紀の
秦の始皇帝が始まりとされていますが、それ以前の春夏戦国
時代(紀元前8世紀)から各内戦国同士の境に長城というか壁が存在し、
始皇帝が各地の壁を繋げて長城化させた点で固定化したようにみえますが
それ以前は、各地に何重 何層と長城のような壁が築かれてきました。

イメージ 6




 

 その後も王朝も暇さえあれば万里の長城を修復したり、延長したり
のくりかえし、逆に万里の長城に労力を投資しなかったのは外征民族
の「元」が支配したころで、明の時代になっても長城に手を加えてますね。

イメージ 4



 
また万里の長城だけでなく、中国国内は昔も今も壁が多いのです。
田舎でも地方権力者の城があると街中が城壁の壁で覆われてますし
権力者とはいえない庶民も暮らしていたと思われる世界遺産にも認定された
のような壁で覆われた世界を築き上げるのです。

福建土楼の外観
イメージ 1


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福建土楼の内側

イメージ 2


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現在の中国や香港等のマンションやビルの集合住宅も方形の建物を背中に
向けるように四方に壁のようにみせかけて配置し内部の中心部は広場の
ような空間となった団地のようなものを見かけます。

外から観ると集合住宅群の入口は一か所で外から
内部の様子が見えなようになってます。
ワタシの独断と偏見かもしれませんが、沖縄の昔の民家も
周囲に高い壁までありませんが、入口に壁のようなものがあり
風通しが悪くなっても外からは家の内部を覗けないようになってるのは
多少は中国の影響かもと思いました。

とにかく歴史的に中国人は壁を外に大きく伸ばしていこう
とする性癖が今も多分どころかDNAとしてあるようです。

それで今でも陸地ではロシアやインド、海洋では日本や
ベトナム、台湾、フィリピンとも揉めてますが、陸地の
長城化は流石に意味が無くなりつつあるので、現在は海洋に
外からも観える壁を造ろうと必死に活動してるように思います。

中国と日本だけを考えてみても、尖閣諸島や日本の経済水域内に
ガス油田を勝手に汲み取り日本と話し合いや共同運営するそぶりも
ありません。

やはり儒教体質なんだと思います。
同じ立場で話すとか、国際的な約束を守るとか、一時的にでも
国際的に決まった事なら下位者に甘んじる(我慢する)とかの
話し合い、譲り合いの精神が全くは発揮されません。

とにかく2者がいたらどちらが上か?下か?の序列
しかありません。
今や中国は日本どころか米国やロシアでさえ中国側が
上位者であると考えてますから、どちらの言い分が良いか
悪いのか?を話し合おうという流れにはならないのです。

中国は間違った事を行っても発言しても絶対に彼らの
内部的な政治力の低下にも繋がりますから下位者の日本の
要請なんかに耳も傾けません。

韓国にしたってプチ中華思想に染まった儒教体質ですから
レーダー照射事件で内心は「困ってる」のに素直に謝る事は
絶対にありません、論点のゴールポストをずらし日本側の怒り
が沈静化するのを待ちながら、それが納まると第二第三の徴用工
や慰安婦のぶり返しです。

判りやすいのが中国海軍で、国際貢献?のために中国の軍艦が
国連軍指揮下となってインド洋やらアフリカ沖に繰り出したりしますが
日本の自衛隊や英国海軍、オーストラリア海軍の派遣された軍艦は
一時的に米国海軍の指揮下で海賊退治等の国際貢献活動を行うのですが
中国海軍艦艇だけは一時的であろうと米海軍の指揮下に入ろうとはしません。

とにかく大中華思想の面子だけで戦争も行いますからね。
ここでミニ学習ですが近代の中国の各国との戦争は
アヘン戦争、義和団の乱、1929年の中ソ戦争、第一次、第二次上海事変、 
1950年のチベット侵攻、1962年の中印紛争、1978年の中越戦争
と中国側がい一方的に開戦したり責めてます。(基本は武力での侵略です)

2008年ソマリア沖での海賊対策でに覇権された6年間は
「我々、人民解放軍海軍は外国軍隊及び地域組織の指揮は受け入れない」
で通し抜きましたが、米海軍の警護や運用を勝手にパクリ今の
南シナ海では自分達が支配者として、他国からの接近や通行を認めない
海の壁を構築しようと必死になつてます。


イメージ 3



 
 南シナ海の島嶼や珊瑚礁に海の壁構築が構築できるまでの防衛ツールしては
南シナ海や更に外海に陸上基地を埋めてでも儲けて、哨戒機を飛ばして
海の領海を広げる戦略ですが、その海軍力となると米海軍に数段劣るので
沿海守備海軍から遠洋海軍に変身中ですが、目玉は空母(1隻→6隻)
と原子力潜水艦や補給艦を増やしています。

 2隻目の空母001A型  
 現在の処は通常動力、スキージャンプ型甲板で脅威度は低いのですが、
 今後の就役艦が原子力、蒸気カタパルト装備となると心配ですね。
 
イメージ 5


その中でもやはり空母が国民にも近隣の小国にも万里の長城のように
恐ろしくみえてぃるのでしょう。
中国では今後の空母の建造計画は6隻以上あり3グループの
空母部隊の保有をめざしています。

既に、上記のスカボロー礁、パラセル諸島、スプラトリー諸島に
基地や飛行場を造り続ける中国は今でさえ明確な国際法違反です。
完全に大陸や海南島の370km以上沖の上記諸島に基地を設けてますから。

このまま国際社会は中国の増長を黙認すると
ボルネオやスマトラの石油も中国のものとなってしまうでしょう。

かって蘭印(現インドネシア)の石油欲しさに南進を国策とし
ついには対米英蘭戦争に突入して失敗した日本の教訓も参考にしつつ
長期的に世界の海洋に海の万里の長城を造り続ける国それが現在の
中国なのでしょう。

このような中国の海上覇権の動きに対してですが
今年4月の中国海軍70周年の観艦式に日本からも
護衛艦を派遣しようと政府は約束しておりますが、
こんな国賊的な約束をしてしまうタカ派のふりして中国にもロシアにも
韓国にも媚びまくる安部首相は即刻退陣して欲しいと思うのです。
※安部首相の後任探しも大変ですが。。

戦後ここまで中国を増長させてしまった日本の為政者の
売国ぶりも今後は調べたいと思います。

以上、中国は壁や長城を国内のあちこちに造り今や
海洋にも長城や壁を構築してるという37話でございました。


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 自分用の備忘録として勝手に書いております
 歴史学習妄想的メモ 36話は題して
 「ドイツ軍の電撃戦を支えた陰の功労品ジェリカン」
 暇なお時間のある人はおつきあください。


昔のドイツ軍といえば陸軍国として有名ですね。
しかし世界中の国の軍隊は国土(本土)を護る陸軍が偉く
海軍大国と思われてる大英帝国でも第一次〜第二次世界大戦の
ような戦争となれば海軍も空軍も陸軍の下で戦うような組織図
がありましたが、昔の大日本帝国では昭和20年の敗戦まで
陸軍大国であり海軍大国でありどちらも同じ以上の予算を要求し
航空隊(空軍)を二重に保有し、機体も爆弾も機銃も燃料の規格も
バラバラでしたから資源が無い無いと言い訳しながらも実に
無駄が多い軍隊であった事が判りますね。 


ここでは、第二次大戦初期のドイツ軍の電撃作戦を支えた
陰の功労備品であるジェリカンのお話です。

ジェリカンとはドイツ軍の20リットル試用のガソリン携行缶です。
英軍がドイツ軍の事をジェリー(jerry)と蔑称してましたから・・・
jerry canです。

イメージ 1























第二次大戦のドイツ軍は瞬く間に、機甲部隊による電撃戦でポーランドを
占領したり軍事大国であるフランスに対しても国境地帯に鎮座するマジノ要塞群の
隙間であったアルデンヌ高原地帯を戦車部隊で突入しあっという間に首都パリを
占領してはフランスを降伏させるなど、強力な戦車部隊部隊や対地攻撃に
急降下爆撃機有効に活用したように思われがちですが、表には出てこない
本当の功労者と思いますのは、ドイツ軍が他国に先駆けて戦争直前に
ジェリカンを製造し実戦配備していた点に電撃戦の大きな成功要因があった
ようにワタシは思いますね。

19世紀までの陸戦では人間や馬が主役でして鉄道輸送が中心でしたが
第一次世界大戦の後半からガソリン等の液体燃料を使用する軍用車両、
戦車・大砲牽引車が中心となりエネルギーも石炭からガソリンにシフト
しつつありましたが各国ともガソリンの備蓄・輸送に頭を悩ませていました。

当時はドラム缶(200リットル)が世界標準のガソリン容器で各国で
ペンキ缶のような一斗缶(だいたい18リットル)のような小型容器も
ありましたが、自軍の策源地を離れて敵側に侵攻する場合は戦車や後に
続く装甲車、兵員輸送車、トラック等にどうやってガソリンや軽油等の
液体燃料を補給するかという点で頭を悩ませていました。
※特に不整地を走る戦車の燃費が悪く走行距離の短さが問題でした。
 当時のドイツⅡ号戦車の燃費は道路でリッター1.2km、不整地では
 リッター0.8kmと今のクルマの10分の一以下ですから大量のガソリン
 が必要でした。

ドイツ軍は再軍備は遅れましたが、第一次大戦の反省を活かし陸上での
燃料補給・備蓄・輸送の為に北アフリカでイタリア軍が小型容器である
燃料携行缶を使用していた事を参考に歩兵が簡単に運べる金属製20リットル
のガソリン携行缶を1935年頃より開発、生産し実戦部隊に大量に配備
しました。

1940年5月に始まる西部戦線開始当時は敵国のフランスは
タンクローリーのような専用車両や列車はありましたが、ドイツ軍には
燃料輸送列車しかありませんでした。
しかしドイツ軍は燃料輸送の為のタンクローリー車は造らず
ジェリカン一強で実戦に突入いたしました。


 ドイツ Ⅲ号戦車
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ドイツ軍の戦車は対戦後半は強大でしたが、開戦当初は実は貧弱で
主力のⅡ2号戦車は
重量8.9トン 燃料タンク170L 行動距離路上200km不整地130km

新しいⅢ号戦車でも
重量22トン 燃料タンク300L  行動距離路上 160km 不整地90km

ですから、戦場の不整地を突破となると約100km毎に燃料を補給しないと
停まってしまい固定砲塔となるわけですから、鉄道沿線から100km以上離れると
専用の燃料補給車の無いドイツ軍戦車は進撃ストップすると思われてましたが
戦車の車体後部や後続する戦闘車両の隙間スペースに20リットルジェリカンを
多数積載し、もし途中で戦車がガス欠して停まっても味方の車両から兵士が人力で
一人二缶(40L)を運び、迅速にガス欠戦車に補給することでパリまでの
快進撃を支え、対英米戦をドイツの勝利に導いたのです。

※ ドイツの西方電撃戦では戦車に無線機使用とか仏英の戦車より
  ドイツ戦車が快速で迂回作戦ばかり行ったとかの史観が今でも
  根強いのですが、ワタシはジェリカンが無ければドイツの戦車や
  機甲師団の進撃や勝利は遠かったように思います。

対するフランスはB1やS35各種3000両以上の各種戦車を配備し
侵攻するドイツ軍の1.5倍以上の数的優勢であり、燃料専用補給車まで
準備してましたが燃料補給車から各戦車に燃料補給するのに時間がかかり
フランス側は給油に思いのほか時間がかかり戦車の集中と移動に遅れを
とりました。

フランス軍と共にフランスで戦いダンケルクから逃げ出したイギリス軍は
後の北アフリカ戦線でのドイツ軍が燃料補給にジェリカンを重用してる事に
気づき即座にコピー品のジェリカンを配備し後の北アフリカ戦線では敗勢
から互角に、エルアラメイン戦後は米軍もドイツ軍イギリス軍のジェリカン
の有効性に気づき少しデザインは変更してますが真似ています。

ジェリカンは20リットルの企画ながら上部の持ち手が三ヶ所あり
一人の兵士で空缶なら4缶、燃料満タンなら人力で2缶を何とか運べ
燃料ポンプの力を借りず戦車や自動車に一人で迅速に補給できました。


残念なのは日本軍です。
ドイツと同盟をくみながらジェリカンの事も知りながらも
第二次大戦では真似てもいません。
金属が不足していたとか、ジェリカンに使用する金属があれば
他の兵器に使用したいとの考えもあったでしょうが、日本の兵士は
文句を言えず人力では運べない200リットルドラム缶と持つと
バランスの悪い一斗缶のままで戦争に負けました。

ジェリカンとは直接は関係ないのですが日本海軍でも
真珠湾奇襲へ向けて出港した南雲機動部隊の空母6隻の
うちの蒼龍と飛竜はハワイまでの航続力が足りず最初は参加が
見送られたのですが、艦内の通路や隙間に重油を入れたドラム缶を
多数収納しそのドラム缶から燃料を使用し空となったドラム缶は
ハンマーで叩き潰してハワイに近づくと格納庫や通路の空間を確保
した活模範もあるにはあったのですが陸海軍の風通しが悪く陸軍は
知らないままでした。


日本の将官は
「ドイツ軍の電撃戦や機甲部隊は凄い!」
と勝利の結果だけに目を奪われて日本ではドイツのような電撃戦は無理と
諦めてしまいましたが、太平洋やビルマの日本軍は退却や
後退戦闘(転戦と呼称)となるや重すぎるドラム缶を残置して
後退したのですが、もしジェリカンが日本軍にも潤沢にあれば
ビルマや大陸の戦闘では史実以上に戦えたのではないでしょうか?


戦時も戦後も日本の主要燃料容器であったブリキ製18L一斗缶
イメージ 2


 一応ブリキの金属製ですが
 持ちにくい、中の液体が揺れる
 隙間に起きにくい
 液体を車などに注ぎにくい
 昔は一斗缶でなく石油缶と呼ばれてました。

 金属とはいえ強度が弱いので
 1980年代から容器としてより
 レスリングの悪役やお笑いで相手にぶつける
 凶器にも活用されました。












敗戦後の日本は相も変わらず民間でも燃料容器はドラム缶と人間工学的に
最悪な一斗缶でした。
日本では敗戦後も高度成長期の60年代も何故か一斗缶の生産は続き
1970年代までに一斗缶は累計で2億個以上が生産されました。
一斗缶とジェリカン(ポリタンク含む)を両手に二個持ち比べたり
歩き比べてみたら一斗缶って手が痛くバランスも悪く中の液体が凄く
揺れて不便なんですね。

さすがに敗戦後から30年を過ぎた1970年台に日本にも
ジェリカンのような灯油用ポリエチレン缶(別名ポリタンク)が
一斗缶よりも便利であると知れると急激に替わって大流行します。
日本人の体力体格に合わせて18リットル缶主流ですが20リットルも販売中です。


イメージ 3



















1930〜1940年代、日本の軍隊でも
「今後は帝国陸軍も機械化!機械化!」と高官達は
 叫びながらも、いざ実戦では味方の戦車は燃料不足やエンジン冷却
 が上手くいかず動けなくなり、敵戦車に対し火炎瓶攻撃が主流でした。
 終戦まで燃料補給の容器はドラム缶と一斗缶でした。

ジェリカンと一斗缶の優劣は現場の兵士や将校にどちらが有効か
聞けば100%ジェリカンを要望したように思われますが人間工学的にも
劣る優位性のないブリキの一斗缶を戦時中も戦後も30年使用させた
日本の指導者と使いづらいのに不平を漏らさず使用し続けた日本軍兵士や
戦後の大衆はある意味合理性から遠ざかっていたようにワタシには思えて
くるのです。

以上、ドイツ軍の電撃戦を支えた日陰の功労者 ジェリ缶
でございました。

現代の自分の頭で考えない経営者ほど、何処かの講習会で聞いて帰り
「イノベーションだ!」
「技術革新だ!」
「アジャイルだ!」
と声高に社内で無いものねだり発言しますが、要は既存技術の選択と
集中でも時と場合によっては遣り様は有る事をドイツ軍のジェリカンは
教えてくれてるように思います。


寒い冬に鬼嫁様に命じられて休日の灯油を買いに逝かれる
全国のお父様といおうかワタシと御同輩の皆さまへ・・・(笑
「俺は今、マンシュタイン計画を成功に導いたジェリカンの
 子孫のようなポリタンクを担いで俺こそが、
 家庭のライフラインを 支えてるんだ!」
と意気に感じていただけたら本望です。(爆


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