涅槃までの14万歩!ハッピーリタイアできない100kmウォーカー

2017年11月にタイトル変更・・・中身は変わりません。 ぷらっとして行ってください。

無題

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やなせたかしさん

アンパンマンとともに日本のアニメの世界に
大きな足跡を残したやなせたかしさんのご冥福をお祈りいたします。

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私は月ごとの「ごあいさつ」が好きでした。
やなせさんは 戦争中はプロパガンダ制作で軍曹として
「日本の正義の戦争」を訴え(煽り?)ながらも自身が
従軍経験や深刻な飢えの経験から戦争の虚しさを悟り
戦後のアンパンマンでは
「正義のヒーローとは飢えてる人を助け食べさせる」
という自己犠牲ヒーローの発想からスタートしています。

今の金持ちは更に富み、中流が減り、貧乏人が増える
アベコベミクスを奨める偉い人達は誰にも負けない
アベコベ・アンパンマンになれるかな?



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いよいよ本日正午、行橋別府100キロウォークの
スタートです。

今年からゴールのライブ中継もするそうですよ。
http://100km-walk.jp/live.html

うまくいっても私がゴールできるのは明日の
午前4時過ぎだと思いますが、まっ頑張って歩いてみます。

参加されない方も、興味のある方はご覧になってください。


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ワタシのゼッケンは583です。

では準備して行ってまいります。



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毎夜、近所の騒音とウォークの朝練習でで絶好調的な寝不足私ですが、
皆さんいかがお過ごしですか?
今日は勝負するときの日本人論として自分ではうまく書けた気がします。

7年後の東京5輪開催で思うのですが、日本の選手や各コーチ監督やコーチは
地の利を活かして他国よりドーピングが遣り易いはずですけれど、
そこまでして勝とうとしませんよね。
実は盆休みにある体を筋々に鍛えてる方とお会いし
「何故日本人はドーピングしないの?」
質問したらその方は「結局に日本人は選手もコーチも臆病で、ドーピングで
勝つことよりもバレタ時の恥を考えて、その選択肢を放棄する

という名回答でした。

たしかにドーピングは違法なんですが、外人達はバレないドーピングを組織で
一生懸命に考え抜いて実行に移しますが、日本人の監督コーチは選手を指導
激励にプラスして恫喝、暴力、パワハラまで繰返すが
「俺(監督)が責任とるからドーピングしろ!」までは言わない。(苦笑

1980年代のスポーツ界(特に陸上競技)は欧州も米国も東欧もドーピングが常識でしたが日本人は行いませんでした。
当事のワタシは「勝ちたいならドーピングしろよ!」って思ってました。
ドーピングに手を出さない日本人はある意味、正しく美しいのですが、何処かで
勝利至上主義から脱落しているようにも思えます。
外国特に欧州は長い間に競馬の競走馬で100年以上に渡って馬体実験で
培った技術と経験を人体実験に応用してきた伝統がありますが、日本には
競馬界とスポーツ界の繋がりも見えないし。。

そんな風に考えると「そこまでして勝ちたくない!」という考えの日本人が
多い事に気がつきます。
例えば戦争と「米食」ですね。
米軍は戦闘食(Kレーション)、ドイツ軍はパンとジャガイモソーセージ、イタリア軍は乾パスタ日本軍は明治時代に牛缶、ビスケットという戦闘食でスタートしますが、
昭和の陸軍はご飯と乾パンになってしまいます。
ドイツ軍はソーセージから食べて最後はパンですが固くなってカビがついても
ナイフで削り硬く噛めなくなると粉にしてスープや水に溶かして食べますから
無駄が無いです。

日本軍の場合は実は米は南方ですと雨で長期貯蔵が難しく腐りやすく炊飯する
には水が大量に要り、炊飯時に煙が立ち、炊飯した飯も南方では翌日には握り飯にしても腐るし、寒冷地では飯が凍りつくし保存が難しく、実は大量に腐ったりして
廃棄もされてました。
つまり明治の陸軍が一生懸命に西洋食を食べさせて日本人の体質改善を
図ろうと企てましたが美味くは運ばず、当事の大半の将兵は「米食やめてまで
戦争に勝ちとうはないわい!」と腐りやすく、輸送、貯蔵の手間な米食を日本人の
「総意」として選択したんですね。
もしかすると米の変わりに腐りにくい缶詰やパン、小麦粉を用意しとけば
戦死者240万人中、餓死者が100万人という状況を少しは変えれた
かもしれないのですが。。。


また日本海軍は酒にウルサイ海軍でした。
米軍は軍艦には全く酒は積みませんでした日本海軍は
戦艦空母はおろか狭い潜水艦にも積んでました。
負けが込むと酒がないと戦えない軍隊になり果ててました。
戦艦大和の沖縄殴り込み特攻でも出撃前夜と当日午後は飲みまくり
翌日は二日酔いで対空戦闘に支障が出たとの伝聞もあります。
そうです。米軍のように
「酒やめてまで戦争に勝ちたくはない!」であったのです。
ここでも完全勝利主義から遠ざかってしまいます。
片方では神風特攻隊とか夜戦パイロットに栄養剤と騙し覚醒剤を
注射したりまでしながらも上から下まで「酒」を止めれなかった日本海軍。。。。
※戦争中も艦内で禁酒できなかった日本海軍と完全禁酒した
米海軍の差は組織文化と指揮官の差であった思います。

どうしても日本人として仕事前日の禁酒が守れないのなら大手バス会社で
問題となったバス運転手の翌朝の残留アルコールのテストも無意味であると
言う事でしょう。
だって日本人なんだもの。 翌朝はインチキしでも前夜は飲みますもの。
「そこまで
(禁酒)して仕事しとうないわい」と某N鉄ベテラン運転手さんの
怨念が聞こえてきそうですよ。

原子爆弾にしたってもし第二次大戦で仮にですが、日本が世界に
先駆けて原子爆弾を開発できたとしても、日本の指導層がヘタレてますから
こんな残虐兵器「使用する度胸」は無かったと思いますよ。
仁科博士博士も大量破壊兵器としての原子爆弾を米国やドイツが先に
開発実用化する事は予見できました。
つまり先に創らないと、敵が日本に原爆を投下する可能性を感じ取り
ましたが、色々な理由や障害を理由に真面目に開発しようとしませんでしたし、
もし日本が先に開発してもB29のような当事の重い原子爆弾を運べる
爆撃機もありませんでしたが、もしそれらの課題をクリアできたとしても
東條英樹、梅津陸軍参謀長、天皇陛下が原爆という大量破壊兵器の
世界での初となる使用許可をくだす度胸があったでしょうか?
今でも当事でもありませんよね。
「そこまで(原爆使ってまで)戦争に勝ちたくはないわい!」
つまり戦争に負けそうになって追い込まれても非常になれないのですよ。

日本人って、合理性の追求だけでは改善できない様々な
モノをを背負って生きてるのかもしれませんね。
でもワタシは日本人に生まれた事を幸せに思いますよ。

ところでこの駄文を読む機会のある東京五輪を目指される
選手・コーチの皆様 7年後はやはり ドーピングまでしてメダルを
獲ろうとまで思いませんよね。(苦笑
まあ、戦争ではないから日本はそれでも良いのだ〜ぁ。(苦笑


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最近巷でジブリの新作映画「風立ちぬ」が何かと話題です。
零戦の開発者の堀越二郎に焦点を絞ってますが作家の堀辰雄を
ミックスした統合人物として実在の人物像とはだいぶ異なります。


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実際に零戦などを開発した堀越二郎氏はどのような人物だったのでしょう?
戦後の昭和28年に零戦開発者の堀越二郎氏と旧海軍航空参謀の
奥宮正武の共著として「零戦-日本海軍航空小史」という名著が出版
されますが、実はそれまで零戦は一般国民には全く知られてません
(海軍は陸軍の隼のように公表しませんでした)でしたが、戦後一躍
有名となり、その後も坂井三郎氏の「大空のサムライ」等が刊行され
「零戦」は良くも悪くも日本で一番有名な飛行機と認知されます。

昭和28年の初版 当事の価格は380円

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「零戦-日本海軍航空小史」は資料価値の高い本ですが文章は殆ど
奥宮正武氏が書いています。
またその後も朝日ソノラマなどで復刊されますが内容は数値資料が
復刊の都度に省かれていき現在の「零戦」はテキスト文字だけの本となってます。

戦後の堀越氏は零戦人気に気をよくして、自身と零戦の神話化を図ります。
簡単に述べると堀越氏は初作の七試単戦で失敗し、後の九六式艦戦で
大成功を納めその勢いで零戦に挑戦し、この零戦が太平洋戦争での
主力戦闘機となり次々と部分改良をかさねて戦争を終始戦い抜く訳ですが、
昭和15年日中戦争で中国空軍機を全機撃墜という華々しいデビューから、
太平洋戦争では緒戦の快調とは裏腹に後半は米軍の新型戦闘機に無理な
戦闘をいどみ続け、最後は特攻隊の主力機ともなります。
零戦開発後の堀越氏はその後も零戦の部分改良と迎撃専門の局地戦闘機
雷電の開発にも苦しみ続け、体を壊し蝕んでいきます。
そして、日本にも堀越氏にとっても運命の戦闘機となる零戦の後継機
「烈風」の試作が昭和17年から始まります。
烈風は零戦並みの運動性、零戦より100km以上の速度向上、武装の強化や
かるい防弾対策等が織り込まれましたが問題は当事の日本に小型の2000馬力
エンジンが存在せず、海軍側からは堀越氏が勤務する三菱製ではないNK9
(誉)という中島飛行機製の事実上1800馬力クラスのエンジンを指定されました。

堀越氏会心の作 九六式艦上戦闘機

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緒戦の精強無比ぶりと終盤の落日が際立った零式艦上戦闘機

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開発実用化に5年を要した超問題作 局地戦闘機雷電
陸軍の二式単戦
鍾馗より二年も遅れ高馬力エンジンを積みながら鍾馗と同性能?

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ここから私は堀越氏の選択肢と氏が導き出した「解」について素人なりに
触れてみたいと思います。

先ず堀越氏は烈風用に自社(三菱)製で開発中の2000馬力エンジンMK9を
希望しますがエンジンの完成が遅れては戦争に間に合わないと考える海軍側に
他社中島製のNK9(誉)を強権で押しつけられた事に強い不満を抱きます。
そしてNK9(誉)を装着した烈風の試作機を遅れに遅れて昭和19年の5月に
送りだしますが速度が当時の零戦より遅い速度520km代で、その後も空気抵抗を
減らす努力をしたりエンジンの当たり外れを考慮し替えてみたりしますが
570kmと零戦52型とほぼ同じ速度で海軍要求の640kmに遠く及びません。
烈風という機体は翼が零戦の1.5倍くらいも大きく、機体の重量もそれなりに
重く戦闘機というより艦上攻撃機天山のような日本機離れした巨人戦闘機でした。
結局、戦闘機零戦の時期後継機として大きく期待された烈風は
太平洋戦争に全く間に合わず実戦どころか配備もできぬまま終戦となります。

         全長    幅    全備重量  発動機  最大速度
零戦52型  9.1m   11m  2733kg 1130ps  564km

烈風11型  11m   14.0m  4410kg  2000ps? 574km

天山12型  10.8m 14.8m  5200kg  1850ps  481km



昭和19年の半ばで海軍はたまたま高性能を発揮した紫電と紫電改を
正式採用に傾き烈風は開発試作中止が決まります。
憤懣やるかたない三菱と堀越氏は昭和19年10月にようやく完成した自社エンジン
MK9を装着し社内試作機烈風をテストし速度624キロを確認し海軍側に正式採用を
具申し海軍側もそれを受け入れ正式機への道を歩みますが、当事の日本は
空母も無くなっており艦上戦闘機は必要とされない状態でした。

その後も、昭和20年の東南海地震や相変わらずの三菱MK9エンジンの量産化の
遅れが響き正式採用となってから終戦まで10ヶ月もの期間がありながらも試作機
量産期を含めてわずかに8機しか烈風は造られず米軍機との空中戦もないまま
終戦を迎えます。

戦後、大人しくしていた堀越氏ですが昭和28年以降の零戦ブームと「烈風神話」
の国民への認知で俄然張りきります。
戦時中は零戦の改良には終始、1000馬力級の栄エンジン(これも中島製)に
こだわり続け自社製の1500馬力の三菱の金星エンジンがあるにも係わらず零戦に
金製エンジンを最後まで装着しようとの強い意志を示さなかった堀越氏が、後継機の烈風となるや自社のいつ完成するかも知れない大馬力エンジンに見切りをつけず、結果的に他社製エンジンと大型機体との失敗が約束されたマッチングで応えようとした堀越二郎氏のセンスというか選択肢の結果のその「解」に私は疑問も深く持ちます。 

大いに期待されつつ全く戦争に間に合わなかった烈風、果たしてエンジンの
問題だけで済まされるものだろうか?
全長は零戦より2メートル長く幅は3メートルも長い、無駄に大きい機体と
なってしまった烈風。 既に航続距離とか格闘戦性能など意味が無くなっていた。

イメージ 5

ともかく、昭和28年から堀越氏がタラレバ烈風神話で主張した
「もし三菱製エンジンに海軍が速く決めてくれてたら?
マリアナ沖海戦や本土防空戦に間に合い米軍機をバタバタ落した?」

という烈風神話は戦後も長く一般にも長い間信じられ1990年代は
シュミレーションIF戦争話の主役としても数多く登場しますが、実態は
三菱製MK9エンジンは史実の中島NK9エンジンより1年以上も遅れており
実際には量産に移行しても中島NK9エンジンなみに粗製乱造になった
蓋然性も高く、海軍の判断に関係なく烈風は戦争に間に合わない兵器でした。

では三菱と堀越氏はどうすべきだったか?
何とか戦争後半に間に合った中島NK9エンジンに見合う
小型で高速・高過重に耐えうる機体を作るべきでしたが、
超大型・大重量の機体で凡作というより失敗作となりました。
堀越氏は自分の肥満児のような機体設計を棚に上げ
中島NK9エンジンでは時速570kmしか出せなかった言い張りますが
その同じNK9エンジンで陸軍の中島社の四式戦疾風は624kmを出し、
海軍の川西社の紫電改は量産機では594kmですが試作機は640kmを
出したりと、烈風よりも速度面で素晴らしい成績をみせています。
(NK9のNは中島製、MK9のMは三菱製の略号)

また1985年に出版された「中島飛行機エンジン史」では
「烈風は、あの艦攻のような大きな機体に小さな誉(NK9)
が搭載されたが試作機自体が(大きさが)異常であった」

して堀越氏のエンジン選定ミス説より機体の大型化重量増加による
性能低下説でさりげなく反論をしています。

海軍航空の最大の失敗点は零戦の改良による大幅な飛躍は
無かった事と烈風の流産による零戦の後継機が事実上現れなかった
事に行き着くと思います。

その意味では零戦と後継機烈風の設計主務者としての堀越氏が
戦後に書いた、
「零戦-日本海軍航空小史」の中で述べている海軍側の
エンジン選定ミス説に誘導しようとした堀越氏の説には納得行きませんし
氏が設計者として係わった(特に烈風の)機体設計に真摯な反省が全く
観られない点は私には残念でたまりません。


戦記モノを読むと軍人や中でも参謀が自己の無能ぶりを
他に責任転換した著作を多く見かけるのですが、実は軍人以上に
負けず劣らずぶりで戦争に係わった技術者も自己の選択ミスや
判断ミスを何か他の原因によるモノへと責任転換した著作が目だちます。


ジブリ映画の中で「飛行機設計家の寿命は10年だ・・・」との重い言葉が
出てきますが堀越氏も飛行機設計から10年を経て九六式艦戦、零戦初期で
10年の絶頂期を超え後は雷電、烈風と設計家としての晩節を汚したようにも
思えてきます。

また話題の映画の宮崎駿監督自身も「千と千尋の神隠し」を境に
何を訴えたいのかが全くわからなくなり映画作品が続きその才能の
枯渇ぶりを見る人に印象づけています。

この烈風の開発失敗については「風たちぬ」というより
烈風吹かず」の方が相応しいような気がしております。





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沖縄戦については、沖縄本島に配備されていた日本軍最強と称された
第9師団を、台湾に移動し、その穴埋めの第84師団の沖縄派遣中止で
在沖縄の日本軍兵力が減少し、攻勢計画から持久計画に転じ
以後の作戦計画に齟齬が生じたと言われています。

当事、沖縄本島には大きな部隊として
第9師団 (編成地 金沢 3個歩兵連隊、1個山砲連隊)
第24師団(編成地 久留米 3個歩兵連隊 1個野砲連隊)
第62師団(編成地 中国・山西省太原 2個旅団・旅団は4個歩兵大隊)
独立混成第四十四旅団(編成地 熊本 6個歩兵大隊基幹)
(その他に海軍の沖縄根拠地隊約1万名)
他に宮古島・石垣島にに26師団を配備、


昭和19年12月の台北会議で沖縄の32軍より上部組織の第10軍(台湾軍)の
強い希望を大本営も聞き入れ「沖縄の最強師団を台湾に抽出せよ」と決まりますが
沖縄の32軍では第24師団か第9師団を抽出するかで会議しますが
八原高級参謀の意見で、最強とされる第9師団は師団の砲兵力は
山砲中心で短射程の砲が多く、野砲や15センチ榴弾砲等を保有する
24師団を沖縄から台湾に抽出した方が上策との判断で、事実昭和19年の
年末に第9師団が台湾に移動いたします。

台湾に移動した第9師団は第18師団とともに最精強師団と称されましたが
台湾には米軍は上陸せず、太平洋戦でも緒戦から終戦まで一切の戦闘参加
はありませんでした。
もちろん第9師団の将兵にとっては幸運な移動(配置)となりました。

この第24師団を残し第9師団を台湾に抽出した沖縄軍(第32軍)の選択は
当事の大本営からも戦後の旧軍人や軍事評論家からも概ね妥当と判断されて
おりますが、果たして本当に妥当な判断であったのでしょうか?

上記の第9師団と弟24師団の違いは、第9師団の精強さを度外視して
歩兵戦力は各3個連隊と横並びで違いは第9師団が山砲装備、第24師団が
野砲装備だった点が大きな違いとなるわけです。
沖縄戦で其々の師団がと山砲と野砲を何門ずつ保有していたのか正確な数は
今の私にはわかりませんが、正規編成通りなら第9師団が24門〜48門の
山砲を保有、第24師団が16門の7.5センチ野砲と8門の10センチ榴弾砲、
12門の15センチ野砲を保有していたと考えられます。

沖縄戦では別に軍直轄の砲兵部隊もあり各種の大砲を備えていました。

もちろん私は後知恵で卑怯な立場からではありますが、第9師団と多数の
山砲こそ沖縄本島に残したほうが沖縄戦で有効に戦い米軍に史実より
多くの損害を与えたのではなかろうかと思います。
では沖縄の戦場では野砲と山砲どちらが果たして有効な兵器で
あったのでしょうか?

あっ、この記事読んでくれる方3人くらしかいませんね。(汗

(続きます)


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