20世紀の初頭、当時の超大国ロシア帝国に陸・海ともに勝利し一躍
大国の仲間いりを果たした大日本帝国でしたが実は陸戦は日本側に
幸運に過ぎた部分が多く冷や汗の勝利の連続でした。
それでもロシア帝国に勝利したことには違いないので陸軍も
「優秀な参謀と徳のある指揮官」という虚像をまさに巨像と
と勘違いし、日本的勝利の方程式(実は日本的滅びの美学)を
追求してまいりますが、実は日本陸軍の上層部ではちゃんと
日本軍の弱点を認識していたのでした。
ロシア相手の勝ち戦となれば自分たち職業軍人の失敗は外部に
漏らしませんが日本軍の兵・下士官の限界というか弱点に日本陸軍の
上層部が気づいたのが日露戦争でありました。
ここでは日露戦争で露呈した日本軍の兵・下士官の意外な弱さについて
まとめてみます。
明治建軍いらい日本陸軍が重視した基調路線は「寡を以て衆を撃つ」でした。
つまり敵より弱い国力でも、
①ドイツ仕込の参謀と、
②幕末戦争で活躍した指揮官
③軍隊教育で精兵化した兵士
の三本セットに勝利への重点が置かれ武器や装備や補給等が
後回しにされていた点です。
薩摩軍を破った西南戦争でも百姓や町人が主体の官軍(国軍)は当社は薩摩の
プロ軍人達と戦ってかてるのか?疑問視されてましたが、官軍側の圧倒的な
火力と補給力と海軍力を併せ持った総合力で勝利しました。
続く日清戦争でも薩摩軍より遥かに弱く烏合の衆であった清軍をいともたやすく
打ち破りました。
続く強国ロシアとの日露戦争でも薄氷の勝利を踏みますが、ここまで健気に戦ってきた我ら日本市民軍であるべき日本兵(下・士官兵)の意外とも言うべき弱さを軍上層部は目にしてしまい日露戦争の勝利後も頭を悩ますことになります。
実は日露戦争では夜襲の際の「行方不明者」やロシア軍との戦闘中のパニック的な敗走が凄い件数で起こっているのです。
行方不明とは勝手な戦場離脱や逃亡ですが、日露戦争中の戦場離脱等の軍法会議だけで1600件以上と累計数万人単位での敵前逃亡者や敵前投降(捕虜)発生していたのです。
兵はともかく日本軍の下士官について言及しますと、・・・。
本来は下士官(伍長、軍曹、曹長)の多くは少尉中尉等の将校よりも遥かに軍隊経験も演習経験場合によっては戦闘経験も長いにも関わらず、部隊で少尉や中尉等の将校が先に敵弾や砲火に倒れると、日本の下士官の相当数は戦意を喪失し将校のいない部隊をまとめる事がままならずパニックや戦場離脱となったわけです。
よく日露戦争で講和せずとも陸戦でまだまだ勝てたのではないか?
とバカ論議される方もいますが実は日本陸軍の現場の舞台指揮官将校
(尉官クラス)は完全に底をついていたのです。
ロシアは日本軍以上に将校団は温存されてました。
その後の陸軍は第一次大戦でドイツ軍の篭る青島の近代要塞を攻略、
シベリア出兵、と楽な戦が続きましたが昭和10年代に入り中国との
本格的な戦争が聖戦と称され泥沼的な消耗戦が続くと東条英機陸軍大臣に
は日露戦争での兵士の弱点であった「戦場逃亡」等の復活に頭を痛めることになります。
しかも昭和15年頃からはソ連、以上の一流国、米国・英連邦との
戦いも始まろうとしてました。
もちろん陸軍は長年かけて兵士らにどんな状況でも戦い抜く精神教育を続けてまいりました。
つまり明治以来、武士を廃止したのですが百姓町人を武士化させようと努力したのです。
極めつけは「生きて虜囚の辱を受けず」の一節でも戦陣訓の制定でした。
私には昭和16年以降の対米英戦の行方とと共に将校が部隊からいなくなると下士官・兵が役立たず烏合の衆となる事を恐れた(日露戦争の再現)を恐れた陸軍上層部がくだした一つの果断な決断でもあったろうと思います。
でも下士官・兵側から物申すと日露戦争以降40年もの歳月がありながら
40年間に更新できた武器は数少なく、精兵教育の成果といっても
「上官の命令は絶対服従」
「どんな状況でも戦闘を諦めない」
「どんな状況でも捕虜にならない」
という受令的な義務感を植えつけられた程度でありました。
また過酷な訓練や戦闘を経験した部隊の兵士は今から考えると
数値化が怪しいのに「練度が高い」という表現で評価しました。
そういう意味で終戦時まで表向きは兵士の士気を高めることには
成功した陸軍でしたが周到に準備された初戦の破竹の快進撃が
途絶えたガダルカナル戦以降は全戦域で精兵揃いの日本軍は米英軍に
対して何故か?負け続けます。
結局、昭和の日本軍は優秀な下士官・兵を多数抱え養ながら、
日露戦争での敵前逃亡や大量捕虜の発生は少なくその心配は杞憂でしたが
押しつけがましい戦陣訓の制定等で、投降を清しはとしない
大量の餓死・病死者、溺死者を戦闘死者の数倍も出してしまいました。
やはり日露戦争での表面的な問題の対策だけを見つめ、モット大きな
問題を無為に見過ごしたようにも思えます。
その意味においては40年前の日露戦争での反省を昭和の陸軍も
十分に摂り込み活かす事に失敗しました。
でも明治の日本陸軍は勝利への問題意識から下士官の意外な弱さに着眼し
それなにり教育で改善しようとはしましたが、昭和の陸軍は兵・下士官に
どんな劣悪な環境下でも戦う事を命じ戦場離脱や降伏を許さない戦陣訓を
制定した事は私たち21世紀を生きる日本国民も覚えていても
損はないでしょう。
現代の大企業でもリストラ等で下士官にあたる中堅社員層の切り捨てを
よく目にも耳にもいたしますが、企業の下士官たちは本当に
今の会社で役立ってないのでしょうか?
長年納税してきても怪我や病、急な会社都合のリストラで
生活保護はおろか場合によっては失業保険もろくに出ない
場合もあるのですが。。
そもそもスーパー下士官や兵一人一人のランボー的な活躍で
左右されるような会社の業績とは何なんでしょう?
軍隊でも補給もなく弾もなくなった状況下、最後まで現場(戦場)の将兵に
降伏や自由戦闘を禁じた大本営の奥の院の人達は自身の初期作戦構想が
崩れるや全て現場に責任を丸投げ したわけですが。。
現在の政府要人や東電関係者のエライさんの発言、菅元首相の
後知恵で自己正当化の無責任発言を繰り返すエライ人達と比較してしまう
私なのでありました。
私は日本軍の兵・下士官の名誉を汚すつもりは全くありません。
ただ日本のランボーとも云われる「英霊の絶叫」に詳しいアンガウルの英雄
でもる不死身の分隊長 船坂弘軍曹のような活躍は意外と少なく、将校が
部隊からいなくなると敢闘精神から戦場での店仕舞いに転換した下士官が
多いのも事実でした。
もちろん私にそれらの是非を問う資格も資質も持ち合わせてはおりません
事は最後まで読んでいただいた皆さんならとっくに御推察のことでしょう。
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