大正生まれのおじいちゃんの蛍雪日記

盧溝橋事件についてはこちらをまずお読みください→http://www002.upp.so-net.ne.jp/keisetu/

補足

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全1ページ

[1]

もあいさんの書かれた、南京事件の記事を読みながら、
おじいちゃんと話していたときに聞いたことを書きます。

まず、南京であったと言われているような戦いの後の捕虜などの処刑など扱いについての話ですが、
南京に限らないことですが、

まず、捕虜をとる。
すると、話などを聞く。このときに多少の暴力などもあるかもしれない。
普通の国民で国の為にあまりよく知らず、戦闘に参加していたような兵や民間人は
いくつか問いただした後、まんじゅうなどをあげて解放する。

どうしても主義を変えず頑固で反抗的なものは、処刑などすることもある。

とのことです。
これは多少はその部隊によって違ったりするかもしれません。

各地方での戦いが終わった後は、救護班や処理班などが、戦後の処理をする。
一つ一つの家をまわり、残党などを探し、一般人がいた場合は、
食べ物や医療的な世話をしてやり、町が、健全な姿で生活できるように
面倒を見てやり、また次の町をめざす。

これが、戦争・占領のやり方である、とのことです。

中国の町をめちゃめちゃにして歩くのではなく、
日本が勝利した場合でも、そのまま市民生活が安定するように
面倒をみるところまでが、一つの戦いに含まれているとでもいうのでしょうか。

現在の各国の戦争をみれば、確かにそのようなことは理解できるのですが、
当時の日本もそういう考えで動いていたとは、考えていなかったので、勉強になりました。

開く トラックバック(1)

お返事1の補足

志村さんが伝令として出発したのは、発砲事件があって、演習を中止した後だとのことです。

初年兵の部隊は80名であっても、広原のあちこちに他の日本軍の部隊がいたような印象を受けたので
質問しましたが、そういうことはなく、数キロはなれたところまで連絡に向かったと言うことでした。

<おじいちゃんのお手伝いより>
ネットで調べてみると、牟田口連隊長が勇ましいことを言っていたというような記事を目にすることがあります。
私は当時のことはまったく知らないのですが、このような記事を読むと、発言が残っているのだから
本人が言ったんじゃないか・・・たとえば戦時中であれば勇ましいことを言う必要があっただろうとか、
新聞には本人が言っていなくても勝手に発言として載ってしまったりということもあったのではないかとか、思いました。
しかし、それをおじいちゃんに言った所、事実がおじいちゃんの見たとおりである以上、言った言わないは枝葉のことであって、問題ではないと言われ妙に納得いたしました。

開く トラックバック(1)

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事