十二支と戦争の周辺

十二支と戦争のまつわるあれこれ、そして拡散する興味の地平

全体表示

[ リスト ]

アジア・太平洋戦争の前後の動乱期に、日本のラジオ放送は何をしていたのか。
「20世紀放送史」(上) 日本放送協会 編 (2001 日本放送出版会)から抜粋してみよう。
 
まずは、「二・二六事件」から(※天気は、「二二六事件戦時警備日誌 陸軍習志野学校本部」(国立公文書館 アジア歴史資料センター)より。
(二二六事件は、ににろくじけん、と読む。にてんにろくじけん、ではない)
 
この当時、軍部は天皇を唯一の指揮者として従うべきとする「皇道派」と、現代的な課題については軍首脳が天皇の意思に成り代わって解決すべきとする「統制派」の勢力に別れ、軍の要職を奪い合っている状況で、「統制派」が優勢の状況下にあった。二二六事件の首謀者は国民の窮乏の原因は、無能な政府にあるとして決起したが、「皇道派」がこれを支持していた。
 
D-day(1936年(昭和11年)2月26日)水曜日 曇り時々小雪  
 事件は1936年2月26日(昭和11年) 午前5時頃から6時半頃に勃発した。
 ちょうどそのころ 東京愛宕山にある愛宕山東京放送局では、早朝出勤の局員が朝のラジオ体操放送の準備をしていた。
 午前7時20分 逓信局から東京放送局に事件発生の第一報が入り、「事件については、とりあえず放送禁止」の命令が出ている。
 
 東京放送局では、局員を至急に招集し、独自の情報収集を開始する。
 同時に、ラジオ番組の午前中の番組(経済市況放送、昼の演芸、音楽や家庭講座など)は取り止めとなった。
 
午後0時40分。ラジオ放送が行われる。
「東京・大阪両株式取引所は臨時休止となりました。日本銀行、三井、三菱その他の東京市内の各銀行は平常どおり営業を行っております。なお、東京手形交換所も本日臨時休業を発表しました」
 でも、事件のことは放送禁止だったので、リスナーは「なぜ臨時休止や休業になったのか」がわからない。
 
午後4時の定時ニュースでは、明日も株式取引所は休業と放送された。
 
午後7時の定時ニュースで始めて、事件を匂わす陸軍省発表が伝えられる。
このニュースは、東京警備司令部発表として
 
①本日午後3時、第1師管下戦時警備を下令せらる。
②戦時警備の目的は兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持 するにあり
③目下治安は維持せられあるを以て、一般市民は安堵して各々その業に従事 せらるべし
を伝えた。
 
でも、これでは、「なぜ」戦時警備が下令されたかが全く伏せられたままだった。
 要は、今日兵士が町中にあふれかえるけれども、みんなは心配しなくていいよ。と言っているだけだ。ここでいう戦時警備をしている兵士とは決起部隊のことだ。
 実際にこのときの決起部隊は、皇道派の将軍等々の助言援助を背景に行
していることや、軍の統制から逸脱させないために、あえて決起部隊の行動
を上級司令部からの命令に基づく行動であることを明示するためこのような
発表となったのである。つまり、まだ反乱軍ではないということだ。
 
午後8時15分になって、陸軍省から事件のあらましが公にされ、午後8時35分 臨時ニュースとなって全国に放送される。
内容はこうだ
「本日午前5時頃一部青年将校等は左記箇所を襲撃せり
 首相官邸(岡田首相即死)
 斉藤内大臣私邸(内大臣即死)
 渡辺教育総監私邸(教育総監即死)
 牧野前内大臣宿舎湯河原伊藤屋旅館(牧野伯爵不明)
 鈴木侍従長官邸(侍従長重傷)
 高橋大蔵大臣私邸(大蔵大臣重傷)
 東京朝日新聞社
これら将校等の決起せる目的は、その趣意書によれば、内外重大危急の際、元老、重臣、軍閥、官僚、政党等の国体破壊の元凶を芟除(さんじょ)し以て大義を正し、国体を擁護開顕せんとするにあり、右に関し在京部隊に非常警備の処置を講ぜしめられたり」
 
これでようやく、国民は 二二六事件の概要を知ったことになる。
それでも、発表を正直に理解すると、国難を解決するために、軍部が決起して、悪の元凶である政治家連中を誅殺した・・・と受け取れる。
これでは、なんとなく「いいこと」のようにも思え、非常警備に当たる在京部隊の意味が良くわからなくなる。
 普通ならば、趣意書など発表せず、最初から「決起部隊=安寧秩序を乱す悪」と決め付けるのだが、陸軍ではまだ決起部隊の行動を追認し、統制下に置こうとしていたことが良くわかる。まだ、反乱軍じゃないということだ。
 
午後9時13分臨時ニュースがあり、海軍が東京湾・大阪湾に艦隊を派遣したことを伝える。
午後9時30分の定時ニュースでは、内務省発表として帝都および全国各地の治安は維持されている旨発表された。
 これはあまり知られていないが、二二六事件で海軍まで動いたということだ。それに、決起と関係無い大阪にまで艦隊を派遣し、内務省の発表で東京以外の都市の治安まで発表されるいうことは、この事件が、東京だけでなく、全国同時多発の危険を懸念したが故だろう。それほどまでにこの決起は、皆一様に国家の行く末を案じているさなかに起こり、国家中枢の心胆を寒からしめたということになる。
 
こうして事件発生初日は暮れた。
決起部隊は反乱軍ではないし、陸軍も態度を決めかね、なんとか穏便に原隊復帰を図りたいと思っていた。そうしてお詫びをもって陛下へ奏上すればまだなんとか収拾は可能だろうと。
 
D-day+1 1936年(昭和11年2月27日)木曜日 曇      
 
明けて 2月27日 午前0時に臨時ニュースがある。
放送局の局員は、占拠地域まで入って取材をし、情報収集活動をしているが、臨時ニュースでは、内務省の午後11時30分発表の治安維持情報と、後藤文夫内相が臨時首相代理に任命されたことを伝えている。
 
 ところが26日の午後から、政府行政の要人は、事態収拾のため天皇の意見を伺い、別途に動いていた。天皇の意思は、事態の収拾にあり、26日午後9時には、政府主導で「行政戒厳」令を発動することを閣議決定し翌27日午前2時50分に施行されることとなる。
 
 この時点では、政府も軍部もまだ決起部隊を反乱軍とはしていない。なんとか指揮下に戻し、穏便に解決をしようとしている。
 
午前6時30分の臨時ニュースでは、午前2時50分に、東京市(※)に戒厳令が布告され、東京警備司令官 香椎中将が戒厳司令官となり、九段の軍人会館に戒厳司令部が設置された旨を放送する。
※東京都になるのは、戦時中の19437月。1889年〜19436月までは東京府東京市であった。余談だが、東京都と東京府東京市の違いは、自治権があるかないかが大きい。東京府の時代は、地方自治としての自治権があったが、東京都になる際に自治権が剥奪された。つまり東京は国家直属の帝都であり、指揮は政府自らが行うということだ。)
 
午前7時50分と8時30分にも同じ内容の臨時ニュースが流された。
一般の番組(演芸、音楽、経済市況、職業紹介、ボクシング中継など)は昨日に引き続いて中止され、講演などが放送されている。
 ラジオは、当時第1放送と第2放送があって、娯楽は第1放送、教育講座や経済市況などは第2放送だった。
 
 この間、午前8時20分の段階で、既に天皇は「戒厳司令官は三宅坂付近を占拠しある将校以下を以って速やかに現姿勢を徹し、各所属部隊の隷下に復帰せしむべし」との奉勅命令を裁可している。ところが、侍従武官長らは、決起部隊の趣旨を少しでも認めていただこうとして、天皇の説得にあたっていたため、奉勅命令は、戒厳司令部まで下達されていない。
 当然、放送局も知る由もない。
 以後、この日一日は、軍部と政府は、天皇の命令をめぐって説得・会議を繰り返し、国民はそんな動きをまったく知る由もない状態に置かれた。
 東京市民には、決起部隊を天皇の御意に基づく昭和維新部隊として歓迎したりするものも多く現れている。これで、国も良くなる・・と。
 
午後4時のニュースでは、高橋是清蔵相の死去が伝えられた。
午後9時30分のニュースでは「種々流言が行われているが、帝都の治安は確実に維持されている」旨の戒厳司令部発表が伝えられた。
 
そうして、決起2日目が暮れていく。
 
Dday+2 1936年(昭和11年)2月28日 金曜日 曇り時々小雪
 
28日 午前0時 とうとう奉勅命令が、決起部隊に伝わる。正式ではもちろんなく、皇道派つながりでの情報という。
午前5時8分、戒厳司令部に 奉勅命令が下達。天皇の勅命であり、速やかに実行しなければならないことになる。
直後に、戒厳司令部から決起部隊に対して奉勅命令が下達された。
 
午前7時 戒厳司令部から東京放送局に対して、戒厳司令部内にマイクを設置するよう命令があり、以後、事件に関する放送は全て戒厳司令部から発信されることとなる。
午前11時45分 マイクが戒厳司令部に設置。
 この時点で、放送局は奉勅命令が下達されたことを知らされていない。ただ、放送が戒厳司令部で行われることに違和感を覚えている。
 
この日1日も、国民は桟敷に置かれた形となるが、その舞台裏では軍部と政府が決起部隊をすみやかに治めるべく奔走している。
午後には、天皇からの勅使を派遣して首謀者の自決を前提に事態収拾を検討したが、天皇自身は、そもそも天皇の輔弼である政府要人を殺害しておいて、なんで天皇自身が勅使をださねばならないか、と激怒しこれに応じなかった。
午後4時 万策尽きた感のある戒厳司令部は、とうとう武力鎮圧の方針を固める。
天皇の軍隊が、合間見えることだけは避けたかったし、決起部隊の一部は「近衛師団」だったのだから。
 
午後9時50分 ついに臨時ニュースが流される。
 「戒厳司令部発表第3号
 1.一昨26日早朝騒擾(そうじょう)を起こしたる数百名の部隊は目下麹町区永田町付近に位置しあるも、これに対しては戒厳司令部において適応の措置を講じつつあり
 2.前項部隊以外の戒厳司令官隷下の軍隊は、陛下の大命を奉じて行動しつつありて軍紀厳正志気また旺盛なり
 3.東京市内の麹町の永田町付近の一小部分以外は平静なり。またその他の全国各地はなんらの変化なく平穏なり」
午後11時 戒厳司令官の名で討伐命令が出された。「叛乱部隊ハ遂ニ大命ニ服セス、依テ断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ快復セントス」
の放送により、とうとう決起部隊は「反乱軍」と見做された。
 
Dday+3 1936年(昭和11年)2月29日 土曜日 曇り後晴  
 
29日 午前2時過ぎ。戒厳司令部命令が愛宕山の東京放送局に電話で伝えられた。
 
午前6時 戒厳司令部より「告諭第四号」が発令。
午前6時30分 ニュースで放送される。
「戒厳司令部発表第4号
2月26日朝決起せる部隊に対しては、各々固有の所属に復帰することを、各上官よりあらゆる手段を尽くし、誠意を以て再三再四説諭したるも、彼らは遂にこれを聞きいるるにいたらず、・・・・事己にここに至る、ついにやむなく武力を以て、事態の強行解決を図るに決せり。
右に関し、不幸兵火を交ゆる場合においても、その範囲は麹町区永田町付近の一小地域に限定せらるべきを以て、一般民衆はいたずらに流言蜚語に迷はさるることなく、つとめてその居所に安定せんことを希望す」
 
これに続けて、当該地域にある市民に対して細かな注意事項が放送された。想定される銃撃戦から市民を避難させる目的である。
「本29日麹町区南部付近において、多少の危険が起こるかもしれぬが、その他の地域は危険の恐れなしと判断される。市民は・・・沈着冷静よく司令の指導に服し特に左の注意を厳守せよ。
1.別に示す時期まで外出は見合わせ、自宅にあって特に火災予防に注意   せよ
2.特別に命令のあった地域のほか避難してはならぬ
3.適時、正確な状況や指示を『ラジオ』その他により伝達するを以て、   流言蜚語に迷はず常にこれらに注意せよ」
「万一流弾あるやもしれず、戦闘区域付近の市民は次のやうにご注意下さい。
1.援護物を利用し難を避けること
2.低いところを利用して避けること
3.屋内では銃声のする反対側に居ること
4.立ち退き区域、市電三宅坂から赤坂見附、溜池、虎ノ門、桜田門、警視  庁前、三宅坂を結ぶ線は戦闘区域になるから立ち退きのこと
5.立ち退き随意区域、半蔵門前警視総監官舎から弁慶橋をつなぐ外廓をゆ  き黒田候邸から大倉商業、霊南坂上、虎ノ門をめぐる区域」
 
午前7時25分臨時ニュース
危険区域住民に対して「全部直ちに避難してください」との指示が出る。
これにより避難が始まった。
戦車が展開し、包囲網を狭めていく。戦車には投降を呼びかけるビラが多数貼り付けてあった。飛行機が旋回して「下士官兵ニ告グ」のビラをまく。
 
午前8時48分 「兵に告ぐ」放送。
   公文書「東京警備司令部、戒厳司令部告諭、命令、通牒」(国立公文書館 アジア歴史資料センター所有)によれば「兵に告ぐ」 は 戒厳司令部発表午前8時55分となっている」
   また、下士官兵に告ぐ は午前8時となっており、資料の末尾に「用語の統一上旗幟を鮮明にする為に以後行動隊は之を叛軍と称す」とある。
 
戒厳司令部の放送室から中村茂アナウンサーが東京ローカルで放送された。
 
「兵に告ぐ 勅命が発せられたのである。
既に天皇陛下の御命令が発せたれたのである。
お前達は上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして誠心誠意活動してきたのであろうが、既に天皇陛下の御命令によってお前達は皆原隊に復帰せよと仰せられたのである。此上お前達が飽くまでも抵抗したならば、それは勅命に反抗することになり逆賊とならなければならない。
正しいことをしていると信じていたのにそれが間違って居たと知ったならば、徒らに今迄の行きがかりや義理上からいつまでも反抗的態度をとって天皇陛下にそむき奉り、逆賊としての汚名を永久に受ける様なことがあってはならない。
今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ。そうしたら今迄の罪も許されるのである。
お前達の父兄は勿論こと、国民全体もそれを心から祈っているのである。
速やかに現在の位置を棄てて帰って来い。
戒厳司令官 香椎中将」
 
この原稿は、戒厳司令部の大久保弘一少佐(元陸軍省新聞班員)が記述したものであった。大久保は、前日たまたま帰順した叛乱兵の告白を聞き、全く事情を知らずに事件に加わった彼らの心情を知って、なんとしても助けたいと思った。もともと「皇軍相撃つ事態」だけは避けたいというのが、事件発生以来の軍当局の一致した考えであった。大久保によれば、上官の根本博大佐から、「叛乱軍はラジオを聴いておるらしい、すぐにラジオ放送をしよう」と言われ、陸軍省の便箋に細かいペン字で2枚書き飛ばしたのだという。
午前9時10分臨時ニュース
「ことによると銃砲声が聞こえるかもしれませんが、落ち着いて現在の位置を動かぬようにしてください。麹町付近は流れ弾の危険がありますから、通行を差し控えてください。家の中で厚い壁や大きな家具の後ろで、銃声や砲声の聞こえてくる方向の反対側に静かに座っていてください。特に火の用心を願います」などと放送。
 
午前9時55分臨時ニュース
戒厳司令部当局談として、これまでの説得の経緯を説明し、また「兵士たちは将校の命令のままに出て行った者が大部分で、彼らを叛徒とみることはまことに忍び得ないものがある。昨夜から、説得書、ビラ等を散布、また今朝からは飛行機をもってこれを散布し、その他広告気球の利用、電話の利用等あらゆる手段を講じている。このため昨夜から今払暁にかけ下士官以下約100名の帰順者があった。今日は9時ごろから赤坂付近において続々帰順をみている」と伝えた。
叛乱軍の全面的な帰順がこのあたりから始まった。
 
午前11時 臨時ニュース
瀬戸義久アナウンサーが、「兵に告ぐ」を復唱した。全国の聴取者が聞いたのは、このときの兵に告ぐである。
 
午前11時30分戒厳司令部発表
「首相官邸および山王ホテルにある極小部隊を除き、ほとんどの反乱軍は大なる抵抗をなさず帰順した。」と報じた。
その後も戒厳司令部からは「帰順の状況」「幸い兵火を交えず」「治安回復近し」「鉄道の運行一部解除」「環状線外の交通解除」「東京からの国内通話解除」その他各方面の平穏に服している状況を逐次報道した。
 
午後3時臨時ニュース
「反乱軍は午後2時をもってその全部の帰順を終わり、ここに全くの鎮定を見るに至れり」と伝えた。
 
午後3時20分
避難していた市民に向けて「ただいまより、憲兵、警察官の指示を受け、自宅にお帰りください」と放送した。
 
午後5時40分臨時ニュース
当初即死と伝えられていた岡田首相が生存していたことを明らかにした。
戒厳司令部からの放送は、陸相声明などを内容とする午後7時のニュースを最後に終了。
 
午後9時 戒厳司令部からマイクを撤収。この日の放送は定時ニュース4回、臨時ニュース23回に及んだ。
 
こうして民を思い国の行く末を案じた青年たちの叛乱は終わった。
翌日、3月1日日曜日の東京は快晴であったという。
 (2013)

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


みんなの更新記事