|
二〇〇五年十一月、バリ島中部のプナルンガン村。
村はずれのジャングルの中にある、インドネシア陸軍の役場中庭。
折からの土砂降りのなか、茶色の池と化した庭の中央に銅像のように立つのは、迷彩服姿の陸軍歩兵大尉。それに向かい合う、整列した総勢約一〇〇名の陸軍兵士とボーイスカウトたち。雨に濡れる彼らの褐色の顔は、大尉の後ろにそびえる真新しい塔を仰いでいた。
高さ十数メートル、八層の赤茶色のチャンディは、周辺の四〇のバンジャールがこつこつと金を出し合い、六千万ルピア(約八〇万円)で建立された、異邦人のための慰霊塔だった。
(写真:その記念式典の様子、著者撮影)
異邦人とは、二人の旧日本兵である。
ボーイスカウトらの背後には正装した村人たちが集まり、平屋の建物の前には二五名の陸軍吹奏楽隊が整列している。塔の左右に設けられた来賓席のテントには、キツネ色の帽子を被った村の退役軍人や名士らが見守る。その前で楽隊の演奏が始まり、ようやく到着したバドン県知事がマイクに向かった。
「ここの村人たちに銃の扱い方や戦い方を教えてくれた、荒木と松井は、独立戦争の功績者である。二人がいなければ、バリ島の独立さえ難しかったかもしれない」
アラキ、マツイ……と、日本語名のところで語気を強める役人の声が、スピーカーを通じて白く煙る周囲のジャングルにこだました。
ここにはもともと二人のために二メートルほどの高さの八角形の塔があり、昭和四〇年代に日本バリ会により発見されている。古い塔の近くで、タバコを吸う日本兵の幽霊が目撃されたのが数年前のことで、感謝する松井か荒木が現れたのだとか、様々な噂が村々でたった。
バリ島では、一九四五年の日本敗戦直後から、宗主国オランダとの血みどろの独立戦争が繰り広げられた。そこに、二十数名の日本兵が義勇兵として合流したのである。
いったい、彼らはどんな運命をたどることになったのだろうか……。
今月末、講談社から、僕の新刊書き下ろしで、バリ島で戦った日本人義勇兵の物語りとなる「サムライ、バリに殉ず」を出版する。
主人公は平良定三という、バリ島で唯一残留した、生き残り義勇兵の一人。つい3年ほど前に、デンパサールで他界された。本は、彼と、彼の仲間たちの壮絶な戦いと、独立戦後の数奇な人生を描いたものだ。
出版まで、このブログでは、そのエピソードをいくつか紹介したいと思う。
|
結婚をしバリに住んで1年が経ちます。恥ずかしながら今日初めて、マルガ英雄墓地へ残留日本兵のお墓へ手を合わせてきました。「知りたい、知らなければいけない」という思いがとても強く、今こうして坂野さんのプログにたどり着きました。今、こうしてバリが平和でいられるのは、あの時戦ってくれた方々だと強く感じます。それと同時に残留日本兵の人達がどんな思いで戦後、ここに残りそしてあの戦いに参加し、亡くなっていったのかと思いを巡らせています。坂野さんの本を読みたいです。
[ har*yu*i314 ]
2010/8/21(土) 午後 6:48
コメントありがとうございます。
現地マルガーでバリ人と結婚した日本人義勇兵の方がいらっしゃいまして、その方は新婚そうそうマルガーの戦いで戦死したのですが、彼が結婚式を挙げた奥さん宅の苔むした祖霊廟が今でも残っています。自分もその廟に向かったとき、平和の有難さを思いつつも、遠い異国のバリに骨を埋める決心をした当時の彼の気持ち、短い幸福な時間を思い、激しく動揺したものです。
バリで常々感じる故郷に来たような懐かしい思い。それは、こうした尊い元日本兵らの取材を通じ、時間と空間を超越しながら新たに感じいるものでもあります。捨て身の独立戦争中、すでにそうした彼らにも同様の想念があったのかと思うと、今こうしてバリ島を愛する我々現代日本人との境遇の違いを改めて深く思わずにはいられませんね。
[ 坂野 徳隆 ]
2010/8/21(土) 午後 8:06