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走路有風〜 作家・坂野徳隆の書斎からの景色
Photos & Texts (C)Narutaka Sakano 転載厳禁 *著者への連絡は上の「メッセージ」にお願いします

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関東大震災から94年。朝鮮人虐殺に関するニュースが色々と出ているので、以前書いた「松木幹一郎」(未出版)から、当時あった後藤新平とこの件の関係を抜き出してみた。
 
関東大震災の九日前、八月二四日に加藤友三郎首相が現職のまま死亡し、日本は首相不在の非常事態にあった。外相・内田康哉の内閣総理大臣兼任中に震災が発生し、山本権兵衛に急遽大命が下る。震災発生の翌日九月二日午後七時、まだ帝都の空が赤く燃えている頃、赤坂東宮御所内の緑ノ御茶屋において摂政宮のもと、第二次山本内閣の親任式が行われ、内閣発足とともに戒厳令が公布された。
後藤新平は寺内内閣に続いて再び内相に就任し、いわゆる「地震内閣」の重要な復興の仕事を担うことになった。
 この九月二日の午後以降、帝都には横浜方面から朝鮮人の暴徒が襲ってくるという噂が流れていた。台湾で日月潭発電所を作った松木幹一郎も様々な噂を聞いていたが、治安を預かる最高責任者の後藤新平から「朝鮮人がくるぞ、お前のところはもっとも危険だ、うちへ避難してこい」と言われ、驚く。それはもう噂どころではなかった。松木の住む渋谷区豊分町は、今の恵比寿や渋谷に近くおしゃれなエリアだが、当時恵比寿辺りは治安の悪さで有名だった。山手線の内側は「市域」と呼ばれる市街地であり、松木邸はその境界線に近かった。
松木は妻とその七一歳の母親、まだ生後一〇カ月の邦子、彼女の三歳、五歳、七歳の兄たち、書生や女中を連れて、麻布桜田町(現・元麻布三‐四)にある後藤邸へと向かった。
後藤の家は帝国ホテルを共同設計したチェコ出身の建築家レーモンドによる頑丈な洋館で、被災を免れていた。後藤は邸宅を避難者に解放し、やがて一〇〇〇人以上の市民が助けを求めて集まってくるのである。同じとき、市内では大勢の華族や富豪たちが邸宅を罹災者のために解放し、家財を売って援助や寄付に当てていた。
ところで、この朝鮮人暴動の噂とは何だったのか。日韓併合から一三年。日本にとって朝鮮半島は中国、ロシア、西欧列強の南下を食い止める重要な緩衝地帯であり、火薬庫のごとく不安定な状態が続いていた。四年前の大正八(一九一九)年には、京城で「三・一独立運動」が起こり、そのときの朝鮮人独立運動家が日本に潜伏し、騒乱の機会を伺っていたといわれる。そこに起きた震災で早くも九月二日から「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という噂が横浜から流れ、朝鮮人グループによる白昼の婦女暴行や殺人、放火が報道されていった。当時日本には一〇万人ともいわれる在日朝鮮人が暮らし、被差別者として苦しい生活を強いられ、朝鮮支配への不満を持つ者も多かったという。
工藤美代子著『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』によれば、内相となった後藤は、朝鮮人暴動を戒厳令下の武力で事態収拾すべく、それまで暴徒と戦っていた自警団を解散させ、マスコミによる「朝鮮人悪し」の情報を規制、「朝鮮人の美談」を取り上げさせ、風評の打ち消しに努めたといわれる。後藤は朝鮮人と自警団の争いが内戦に発展すれば、摂政宮に危険が及び、国体に影響が出ることを懸念した。つまり朝鮮人の暴動は真実だが、後藤は天皇を守るために、朝鮮人暴徒による放火や殺人、強盗を隠蔽したというのである。
 二週間ほど後の九月一六日、後藤本人も、罹災者救援のために民間の実業家によって設立された「大震災善後会」委員総会の席上で、「東京附近は一時朝鮮人の騒ぎで不安であったが、今は戒厳令の力で全く不安は一掃されている」と語っている(『大阪朝日新聞』大正一二年九月一七日付)。このときも同会長の徳川、粕谷貴衆両院議長や渋沢栄一ら委員は治安維持のため後藤や首相に戒厳令の継続を嘆願している。帝都復興院が設立される一〇日ほど前のことである。
 
松木幹一郎は当時東京市政調査会専務理事だった。急増する人口と無計画に広がった帝都の都市計画の弱点に対応していたまさにそのとき、目の前で弱点が血を吐きながら訴えていた。この後、後藤と松木は帝都復興のために手を組んでいくことになる。

しかし後藤新平は台湾以来マスコミ操作に長けているわけで、朝鮮人虐殺の事実隠しなどお手の物だったのだろう。

  

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坂野 徳隆
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