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邵(サオ)族は、台湾中部の日月潭に住む、台湾最少(実質300人程度)の民族である。
彼らは、1999年9月21日に日月潭のほぼ直下を襲った、阪神淡路地震と同規模の大地震、921地震で、集落の8割を失った。家も仕事もすべて失い、途方に暮れた彼らを、数百年前、その神秘の双湖へ導いたという一頭の白鹿に化けた彼らの祖霊神は、しかし、見捨てなかった。
サオは日本を含む被災者住宅建設救援隊に助けられながら、たくましく復興の道を歩みだす。そして、日本時代から独自の民族として認めらていなかった自分たちの身分についても、声高に訴えた。
「オレたちはサオ(人間)だ!(イタ・サオ!)」 (*「イタサオ」は現在の彼らの非公式集落名となっている)
おりしも、台湾は陳水篇総統の誕生により、原住民保護へ向けた取り組みをはじめようとしていた。
台湾の公認原住民はそれまで9族だった。現在は14族。サオはこのとき、10番目の民族として、公に認められたのである。
そう、サオを無慈悲に倒した大地震は、逆に彼らを以前に増して強く再生させるきっかけとなったのだった。
サオのたくましさと、強く再生を目指しつづける人々の勝利は、今の東北など被災者に通じて欲しい黄金律である。
2010年秋のサオの新年祭ルサンの情景(上はキョンのかぶり物をつけたサオの酔っ払い男性……すでに二日間ベロベロ状態。下は青いサオ女性の山地服とひときわきれいに飾りつけた、典型的サオの奥さん)
詳しくは:
4月20日発売 『台湾 日月潭に消えた故郷 〜流浪の民サオと日本』坂野徳隆著(ウェッジ刊)1470円税込
完全オリジナル企画、書き下ろし&持ち込み出版ノンフィクション!!
お楽しみに。
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「外を見ればマスクもせず、子供は遊び、人々は普通に動き働き歩き、猫は寝ている(死んでいるかもしれない)」
先週16日、心配するアメリカ人知人のメールに、そう返信をして、一応横浜付近では放射能に対する恐怖は深刻ではないことを伝えた。
そして、もし自分がこの国のビジターなら、すぐに出国していただろう、とも。
すぐ近くの横須賀では米軍空母Gワシントンが逃げ出し、ネット上でも「原子力空母を日本から追い出すには、原発事故が必要だったのか」などというジョークが流れていた。原発事故はまだ津波被害に遭ったエリアの凄惨さに人々の意識が向いていたことや、情報不足もあって、深刻さは横浜まで伝わっていなかった。
しかしこの情報の少なさは、人為的なものであることが、今(27日)になってわかってきた。
Gワシントンの離港も、首都圏からのアメリカやフランス人たちの自国政府による避難も、ジョークで済ませるものではなかったのだ。笑いながら被ばくしていたのは自分たち日本人だったのだ。
問題は「SPEEDI(スピーディ)」である。
この冗談のような名前の放射能拡散予報システムは、名前とは逆にこの週末までひた隠しにされていた。原子力安全委員会は「風が陸向きになったから計測できるようになり発表しはじめた」というが、ではなぜ海側の拡散まで図にあるのか?
学者たちからはすでに事故直後からSPEEDIの開示を求める声があがっていて、開示は13日ごろから可能だったといわれる。
しかし後の祭である。
首都圏を不気味にうごめきながら覆う放射能の「触手」は、15日から16日にかけて覆うのが、TVで放映されたSPEEDIの広域予報らしき画面に映し出された。
下は、横浜市が発表しているそのころのガンマ線の放射線濃度である。(常時の平均値は20前後)
1時 2 3 4 5 朝6時 7 8 9
「すばらしい」SPEEDIのアニメ画像はどこを探しても出てこない。(尖閣諸島の漁船激突ビデオのようにそのうち出てくるだろう……センゴク当時クソ長官がまた台閣復帰したことだし)
で、代わりに外国人オタの作った予報アニメをみつけた。
見にくいが、凝視すると、これでも、16日は首都圏が「触手」におおわれているのがわかる。
彼のアニメで「黄色」の部分が首都圏を覆うのは、充分にショッキングな映像だ。
15〜16日の放射線急増時、政府がSPEEDIで予報を出していたら、首都圏でも皆マスクで予防する、外出を控えるなどの対策ができたはずである。
この責任を政府はどうとるのか?
この一週間ほど、NHKなどは福島原発周辺の風向きをよく伝えるようになった。アホか?意味がない。日本は高度な予報技術を持ちながら、いざというときに国民に教えず、意図的に隠したとしか思えない対応をしている。SPEEDI管轄機関は「枝野長官に(情報を)上げている」という。内閣はもうつぶれていいだろう。しかし同時に確実につぶれるのは、首都圏の人々の健康である。
最悪の政府のときに最悪の天災に襲われた日本は、Gワシントンが黒煙をあげて横須賀から逃げていくそのケツをポカンと口を開けて見ているうちに、無能為政者と無責任国策企業によって見殺しにされてしまうのか。
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今夜(18日)夜、台湾の華視テレビで行われている歌手らの主演する「相信希望」という4時間ほどの生放送の東日本大震災チャリティ番組で、すでに7億台湾ドル(約20億円)もの募金が台湾中の視聴者から集まっている。
すごい金額だ……。
あと10分(深夜零時)で終わるが、30分ほど前には鴻海集團の社長夫妻も来て、ポンとその場で2億元(約6億円)を寄付!
台湾でこんなチャリティが行われていることが、被災地の日本では知られていないのが少し残念。
久しぶりに見たジュディ・オングがさっき出演し、日本語で「台湾人もこんなに日本のために頑張っています」と言っていた。
チャリティソングもつくられ、その売り上げも寄付されることになっているらしい。
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「XX野郎! おまえなんぞ、大陸へ帰れ!」
男の怒号に振り返ると、顔を真っ赤にした中年の本省人が、背の高いもうひとりの男に片手を振り上げ訴えているのが見えた。
2011年2月28日。二二八和平記念公園の夕方。1930年にラジオ放送局として日本がつくったスペイン風の建物の前である。建物は現在二二八記念館として、二二八事件の関連展示を行っている。騒ぎがあったのは、その建物の前、犠牲者らの顔写真や事件の様子を野外パネル展示している一角だった。
怒鳴られた外省人の中年男は、飄々とした態度ながらも、本省人をいかにもバカにした顔で笑いながら、周囲で警戒する警察官たちに話しかけている。
みなさんは1947年2月28日のいわゆる二二八事件を知っているだろうか?
台湾事変とも呼ばれるこの戦争状態は、その前日の27日に、台北の新公園(現在のここ二二八公園)で闇タバコ売りの本省人女性に、取り締まりの役人複数が暴行を加え、無関係な本省人を一名射殺したことから、翌28日、これに抗議する本省人のデモが発生し、憲兵隊が群集に無差別発砲。国府軍(国民党の軍隊)が全土で本省人に発砲や処刑を行った。
デモでは、台湾人は日本軍が残したり自分たちが持っていた軍服を着、日本語を掛け合ったり日本軍歌を歌ったりしながら、外省人に抗議した。これに対して、日本の敗戦とともに台湾省行政長官となった陳儀は、大陸の蒋介石に「台湾人が独立を企てている」などの内容の抗戦許可を求める電報を打ち、援軍派遣を要請した。
陳儀が台湾人に向かって投降を呼びかけたのが、このラジオ局だった。
全土で陳儀の部隊による大虐殺が展開されたのはこの直後だった。毛沢東による文革時の粛清のように、日本時代に高等教育を受けたエリート層が逮捕投獄され、残酷な方法で殺害された。本省人被害者は三万人にものぼるともいう。
これ以来、本省人と外省人のあいだには「省籍矛盾」と呼ばれる感情的な溝が生じ、国民党対民進党に代表される社会的な亀裂を残してしまうのである。
冒頭の、外省人に怒りをぶつける本省人の姿など、いまでも見られるのだから、根深い。
さらに、この事変で有名な戒厳令が敷かれ、以後四〇年近く続き、蒋介石による白色テロと呼ばれる厳しい反政府勢力・言論人権弾圧が行われるのである。そして、戒厳令下、二二八事件の実態は台湾市民に隠されてきたのである。
私の同年代の台湾人は学校でまったくこの事件について学んでいない。
民進党政権のもとでこの記念日と記念公園は社会の注目を正当に浴びるようになったが、国民党政権に戻り、二二八記念日・公園への「締め付け」も出るようになったという。
馬総統は「みなさん今日は平和に心安らかに過ごしましょう」とスピーチしたらしいが、自分の親兄弟を殺されて、いまだにどこに埋葬されたのかもわからない本省人がたくさんいるうえ、政府はなにもしようとないらしい。遺族の気持ちを逆なでするようなことは枚挙に暇がない。
台北市内ではこの日、馬英九と国民党に対する大規模な反対デモが行われた。
この一週間ほど前、中国に伝染した「ジャスミン革命」の余波のなか、海峡協会の中国人代表が数度目の訪台をし、初めて南部へ足を伸ばした。
彼は中国では序列の低い政治家だが、台湾で馬政権人気が低迷するなか、民進党の地盤である南部へあいさつまわりにでかけるというパフォーマンスをするところはなかなか上手だった。しかし、その車列にジャスミンの白い花束を投げつける本省人のパフォーマンスはもっとおもしろかった、いや上手だった。
白いゆりの花は、この日も、二二八記念公園の中心オブジェの池にたくさん供えられていた。
PR不足からか、会場はがらがらだった。
台湾人は嫌な歴史は忘れてしまいたい、という気持ちの人が多くいるように思われる。しかしこの複雑な台湾社会は、この二二八事件の呪縛からはまだのがれることはできない。
ちなみに、この公園に立つ国立台湾博物館はやはり日本時代の建物だが、そこには台湾の植民地経営の基礎を築いた日本人総督と民政長官の貴重な銅像が、エジプト・カイロ博物館の重要ではないミイラのように、隅にひっそりと飾られている。 |




