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わけあって、9年前の台湾公視放映ドラマ『風中緋桜‐霧社事件』をじっくり再度観た。
小島源治巡査役の日本人俳優・岩野央さんが、事件後に人間らしさをにじませ、演技がはじけてくる。それが見ていて楽しい。
小島巡査というのは、霧社事件で重要な役割を果たす日本人警官である。未明に各駐在所が襲われて警官が殺されるなか、蜂起蕃のテリトリー内であるタウツァ群の駐在所にいた小島巡査は、電話も切られて、霧社で事件があったことも知らずにいた。そこに二カ所の駐在所を襲撃してきた20名ほどのタウツァの壮丁が戻り、頭目のタイモ・ワリスに蜂起へ加わるよう迫る。しかし小島と懇意のタイモはそれを拒否。後に味方蕃となるのだが、このとき小島がタイモらを得意の押しの強さで説得したとか、そのとき日本軍の偵察機が上空を通り、壮丁らが驚いて小島の説得に乗ったとか、いやいや、小島は壮丁らを脅迫したのだ、とかいろいろ説がある。小島は生きて帰国したのだから、もっときちんと話がまとまっていてもいいのだが、これが霧社事件の複雑さでもある。
小島巡査は『セデック・バレ』ではハンサムで善人を演じていたが、もっと昔の人気ドラマでは設定が悪人っぽく、狡猾で人間っぽい。劇化手法としては後者が王道で、前者はやはり薄っぺら。最後の説明で映画では小島が味方蕃を率い復讐に参じる説明テロップで終わるが、人間がそれではころっと変わるのだから、製作の惰性というか奇妙さばかりが印象に残る。
その点、テレビドラマの方はいい人間ドラマになっていた。ドラマの小島巡査、いや、岩野さん、その粘着質の目とド素人っぽい演技(というか完全素人ですね)は逆に素で、すばらしかった。 このひとはあれ以来、どこで何をしているのか。
ググったら、鼻から牛乳を出す日本人コメディアンが出てきたが、これじゃないだろう。
いや、台湾のテレビでレギュラーを持ち、活躍している(いた?)という情報も。
しかし一度もテレビで見たことがない。。。いや、私があまりテレビを観ないだけか。
小島巡査は数奇な運命をたどり、奇談、美談ともつかぬ事件の顛末がある。それをテレビドラマでは少しばかり描いていたが、事実とは異なる。小島は事件当日霧社公学校のグラウンドで次男を殺されてしまうが、それとは知らずに、先のタイモらを説得した後、彼は中山清という秀才の蕃童を救うのである。中山は霧社蕃ゆえ、タウツァに見つかり殺されるところだった。中山が次男の同級生であることから日頃気にかけていた小島は、中山をその後日本へ帰国するまで我が子として育てる。息子を殺した敵蕃の少年を、今度は息子として迎えるのである。しかも小島は戦後「邪悪」と国民党教育で喧伝された警官のひとりである。
やはりそんな人間くさい人物を演じるのは難しい。雰囲気としては、くさすぎる香川照之が合っているんじゃないか。
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戦後すぐ台湾で発生した228事変の際に、台湾では影で多くの中国人(外省人)が殺された事実があり、これはあまり表に出ていない感じがする。
そのなかに、霧社事件で有名な霧社で、おそらくセーダッカ(セデック)が中国人に出草をしていた資料の記述を見つけたのは、前著『日月潭』取材中だった。
霧社には発電施設があるため、台湾電力の日本人技師が戦後も残って働いていたのだが、突然勃発した事変に、興奮したのは国民党政府に抑圧されていた本省人だけではなかった。敗戦国人となった残留日本人らの前で、日本軍の軍服に身をつつみ、蕃刀を手に現れて「中国人を殺す」と勢いづいていたのは、霧社の戦争帰りの原住民たちである。
彼らは南方で戦ったため直接中国人とは戦闘していないが、日本の教育ですっかり反中国だったため、ここぞとばかりに伝来の首狩り解禁に沸き立ったのである。彼らは人止関をとおりプーリにまで出草に出かけたというから、まるで「セーダッカ対中国人」の霧社事件版である。
本でも書いたが、このとき霧社の発電所長は外省人で、日本人技師らは彼を守るために、原住民に酒や肉をおくり、機嫌をとっている。涙ぐましい日本人の努力で、外省人所長は保護されたのである。
英雄とはこんな史実の影に隠れているものではないか。
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台北の新名所になること期待大の松山文創園区。この日本時代の巨大タバコ工場跡は、近くに長く住む人でも、つい最近までそこに何があるのかさえわからぬ、ブラックボックス地帯だった。それが突如きれいな公園、文化園区として復元整備されたのには、皆驚いた。
当時の池あり、建物あり、それらを利用した気持ちのいいカフェあり、と、忠孝東路からそぞろ歩きしつつここへ来ることも可能なので、ぜひ行ってみてほしい。場所は同路の阪急デパート側、台北大タマゴを建設中のあたりを通り過ぎて左(北)へショートカットすれば見つかる。
この園区の映画芸術館らしきものの前で見たのが、映画「セデック・バレ」のために作られたという日本時代の乙型複葉偵察機の実物大模型。映画を見たひとなら、あのちゃちいCGで飛んでいく複葉機を思い出すだろう。
整備復元されたタバコ工場の、古い大学校舎のような、無意味にがらんとした構内を歩けば、抜けた中庭こは西洋式庭園が。そこでふいに見つけた、有名人たちの手植えの木。「馬英九」と書かれた札が。
今年はじめに再選された馬総統だが、台湾は経済政策が行き詰まり、日本のように若年層は職もなく、国民は15年ほど前の給料水準にまで収入が減り、見た目の繁栄とは真逆の様相を呈している。反政府運動も活発で、馬への期待は薄く、すでに政権末期のような雰囲気がある。馬号は低空飛行で失速寸前といったところである。
日本人が精根こめて作った、日本にさえないと思える超豪奢な建物の総督府……今の総統府前で、日本統治時代に否定的な馬は反日材料にぴったりとばかりに「セデック・バレ」の上映会を開いたことも記憶に新しい。台湾にある日本の遺構はどれもすばらしい。初めての植民地での見栄の跡である。しかし日本を嫌いながらそれらを使い、保存して文化とする活動をしたり、そこで反日活動をする人々の心理とはなにか。 それは植民地で帝国主義、台内人間差別をした総督府への伝統的憎悪と、戦後白色テロで痛めつけられた国民党への憎しみ、日本の作った社会基盤への評価、すべてが入り混じった放射線が鏡に跳ね返り、己を突き刺す状況か。傷はコンプレックスとなり、隠そうとすればするほど心が蝕まれる。
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祖霊に感謝するサオ族の秋祭り「ルサン」の夜、その出会いはあった。
普段なかなか会えない彼女に、会えただけでも幸運だった。きっとサオの祖霊の導きである。
すでに老衰で言葉もしゃべれない彼女の前で、親族の話に頷く私に、車いすに座る彼女はときどき足先をひきつったように伸ばし、私のふくらはぎのあたりを押したり、蹴ったりする。
「日本語がとても上手だったんですよ、毛阿金は。だから、あなたの言う日本語は、ぜんぶ、今でも理解しているんですよ。そして、懐かしいんでしょうね。とても喜んでいるのがわかるんですよ」
親族の女性が流暢な日本語で私に言った。
日月潭の日月村は、水社の対岸にある、台湾の最少民族「サオ族」の村である。
そこで行われた数年前のルサンは、高速道路が開通し、観光客が増えるなか、独特な盛り上がりを見せていた。
この村自体、日本人が水力発電所建設のために日月潭の水位を上げて今のかたちにする際に、日本人が移住地として選んだ場所だった。それまでサオ族はラルーという近くの小島とその周辺に暮らしていたが、わずか数百人の彼らは様々な理由からこの地へ移住を求められた。
移住からおそらく数年後の日月村(出典:キラシ)
右は、現在の同じ場所を同じ角度から見たところ。
水位がまったく違うことに注目。
毛阿金は、日本時代に警察官などをつとめたサオ族の人間で、戦後サオの舞踏団を率いて蒋介石に気に入られたことから、サオ族の「酋長」と呼ばれて有名になった毛信孝の一人娘である。彼女は「毛公主(毛のプリンセス)」と呼ばれるほど美しい踊りの名手だた。
これが家族のポートレート。妹は養女で「小公主」と呼ばれた。ウサイン・ボルト指しをしているのは「毛王爺」とも呼ばれた毛信孝である。(出典:国立中央図書館台湾分館)
舞踏団は蒋介石を楽しませるだけでなく、共産党との戦闘中の国民軍兵士の慰問に軍艦に乗せられたりした。
戦後は日月潭の顔として、蒋介石が連れてくる各国政治家著名人らを楽しませる役もさせられている。
岸信介を迎えるときもあった。
(出典:毛王爺之家)
その彼女も、数年前に訪ねたときには、すでに86歳だった。往時(20代)とそのときの彼女の写真を見てもらえればわかるが(左写真の左。右は養女)、面影が濃い。年をとっても凛として、威厳がある。
(出典:右 国立中央図書館台湾分館)
ひとは種として現世に落ち、花を咲かせて誰もやがて萎んでいくが、台湾の天池の湖畔に咲いた姫花の美しさは今でも台湾人に語り継がれている。彼女は1989年に死去した父親が残した土産屋「毛王爺之家」の主でもある。
「台湾 日月潭に消えた故郷」(ウエッジ)表紙より (全カラー撮影著者)
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日月潭の本を書いてから、ある質問をよく受けるようになった。本の冒頭で紹介した蒋介石の秘密の園が龍穴にあたり、そこを訪れたときに体が軽くなり、手先が心地よく痺れる体験をしたときのことである。あの場所はどのなのか、と訊ねられるので、その場所を紹介しに、旅立ってみたい。
場所は、台湾の中心に近く、九匹の龍が養水として飲むために立ち寄るため、風水的に台湾一の地であるという日月潭のなかでも、もっとも風水のいい「龍穴」である、文武廟のあたりにある。そこは松柏崙半島、と呼ばれ、背後に孔雀のようなかたちの岡を抱く、サオ族の聖地でもある。かつてそこにはサオ発祥の神木がたっていたし、サオの交易の重要な場所でもあった。
文武廟のすぐ南、歩いてすぐのところにこのような入口がある。目立たないが、最近このようにきれいにされ、以前はまったくなにもなかったときに比べれば、一目瞭然の「トレール入口」という感じにつくられている。
看板をアップするとこうなる。
この遊歩道を入れば、すぐに蒋介石の秘密の園が現れる。
ガイドブックには載らない、奇妙な公園「中正広場」である。蒋介石は死後、遺言で息子の経国にこの公園をつくらせた。実際訪れたら、なぜこんな目立たないところに、と思うだろう。
実際、そこは蒋介石が日月潭を向く銅像がたつだけの、何もないところなのである。
しかし、蒋介石はここの特別な風水の力を借りて、死後も台湾に影響力を与えようとしていたと思われる。
この公園から下ること10分、旅人は鬱蒼とした原生林のなかを心地よい龍気に触れながら歩くことになる。私が経験したその感覚は、ちょうどこの写真の傾斜と、下の湖へつづく道との交差部分である。
時間のかからないこの散策は、最近トレールが整備されてからとても便利になった。
私が本に書いたことで、少なくとも日本人旅行者にはもう秘密ではなくなった。あなたも、ここで龍気を感じられるだろうか。
ただ、実際に行くと、トレールは勾配があり、ひとけのないところなので、ひとりで行くことは避けたい。
初夏のこのとき、私は遠雷の音を聴きながらそぞろ歩き、疲れた足をふいにとめると、稲光が誘う松林のあいだに美しい風景を見た。
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