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ハクチケイEテレの「達x達」で解剖学者の養老孟司がジャズピアニストの山下洋輔と対談をしていた。
養老がこんなにつまらないひとだとは知らなかったが、山下の(あまり知らなかった)魅力が対照的に輝いていて、思わずファンになった。山下が書いた?というあの変な「絵本」だけはわからんが……(これがバカの壁?)
で、「バカの壁」の印税でつくったらしき箱根の別荘で、養老は自分がこれまで東大などで解剖してきた死体の話をしていたが、台湾では明治後年、医学生のための死体解剖が内地の100倍もできたため、当時の新聞では「内地医師に実力で劣らぬ」と豪語していることを思い出した。(1902年 台湾日日新報)
台湾では2年生以上で執刀ができ、台北監獄病院などから提供される死体を解剖、平均60名以上の死体を解剖したらしい。入学から卒業まで200人の死体を解剖できるのに対し、内地は2、3人のみだったというから、驚異的な数字だ。
なぜ? 当時台湾は領有まだ7年で、内地では見られた自動車も走っておらず、内地に普及しはじめた電気、道端の電燈もない。バルトンの上下水道はできていたが、進んでいたのは一部のインフラていど。そんな遅れた台湾で、科学進展のための解剖遺体がいとも簡単に集められたのである。
これは児玉総督と後藤新平がその年土匪を平定したことと無関係ではない。日本統治時代の台湾の台湾人医学生の増加による医療発展において、捕らえられた大量の台湾人が解剖されたということなのである。こんなことが今では忘れられているのではないだろうか。
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日本統治時代の台湾
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新年が安和豊富でありますように。
先月、台湾では2015年にヒットした台湾のドキュメンタリー映画「湾生回家」の元本の女性台湾人作者に関する出生疑惑(実は2013年から噂されていた)が話題になっていた。
台南出身の彼女は日本生まれの日系人だというのが、まったくのでたらめで、すでに前述の頃在台の日本人新聞記者に暴かれていたらしい。しかし台湾では誰もそんなことを気にする人はいなかった。しかも、一昨年から去年にかけて彼女の取材と本をもとにした映画がつくられヒットし、元本も異例の大ベストセラーに。それでも、である。
なぜかというと、大半の台湾人は「湾生」というその本と映画のタイトルの意味を知らなかったからである。
これは「台湾生まれの日本人(内地人)」という意味だ。
本と映画の内容は、台湾生まれの日本人の生き残りの人々が台湾へ「里帰り」をしたり、反対に台湾の「残留湾生」が日本へ里帰り(墓参り)するというもの。ともにアイデンティティを台湾に持つ日本人が葛藤してきた生涯を浮き彫りにし、胸に迫るものがある。
しかし「湾生」の意味がわからないながらも、本と映画はヒットし、奇妙な「日本人化け」をした作者(30代)の嘘も気にしないのは、台湾らしくて笑える。嘘を認めたのがしかも映画封切の一年以上後で、人々が忘れた頃であるのも、その台湾人の忘却性(無論日本人にもあるが)を狙っているのだろうか。
どうであれ、「湾」をつけた様々な言葉が当時使われた。「湾妻」は台湾でつくる妾で、内台人、玄人素人未亡人だれでも対象になって官吏を中心に領台間もなく使われたから、あきれる。湾妻の実の姉妹と同居して複数関係をもっているのも珍しくなかった。数年から五六年で内地へ戻った彼らにとって、台湾は六割増しの給与を惜しげもなく魔酒と賤妓に使う安和豊富な地であった。
後藤新平なら聞いただけで気持ち悪くなった「湾弁」は、台湾の弁護士である。統治初期の明治時代なら内地人しかいなかったが、彼らは督府を新聞などで筆撃し、内地で反六三法運動を繰り広げた。
この他にも「湾」なんたらという言葉は多いが、一様に見下すために使われた言葉である。当時の植民地だから仕方ない。「湾生」も二流の内地人として差別的に呼ばれた。
これを読んだ方も、それを知ってから映画を見ると、きっと違う視点で見られるかもしれない。
これを読まれた方が、今年も再度、安和豊富でありますように。
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横浜みなとみらいに固定展示されている「帆船・日本丸(ニッポンマル)」。1930年に文部省練習船として神戸で建造されたこの美しい船、横浜みなとみらい地区ができた30年ほど前に当地で展示され、すっかりシンボル的な存在となっている。当時、私も安月給で買ったばかりの一眼レフを片手にそのお披露目を撮影しに行った記憶がある。水に浮き、停泊しているかたちで公開され、おまけにときどき帆を張る儀式までやるせいか、いつ動き出すかもしれない緊張感が漂う不思議な展示船である(実際、市に停泊税のようなものを払っているらしい)。その、つい昨日建造されたかのような生き生きとした顔は、過去と現在が調和する横浜みなとみらい地区を象徴している。
そんな時を超越した雰囲気は、この写真を見るとさらに何か迫りくるものがある。建造から5年後の1935年の正月に、台湾基隆に寄港した同じ日本丸の姿である。
1週間の停泊中、乗組員の学生たちは台湾神社など台北観光をしたり、乗船して歓迎したという基隆市長の配った無料入浴券で、台湾の表玄関である港町基隆の滞在も楽しんだという。
この日本丸、太平洋戦争で帆装をとって石炭船となり、2万以上の残留日本人の復員を手伝った後、再び貴婦人と呼ばれた帆装をつけ、戦後初めてハワイへ遠洋航海をした。こうして日本を代表する港町横浜で再び半永久にその身をとどめようとしているその姿は、セピア色の日本統治時代末期の台湾から抜け出、2011年の震災以来ようやく平時の明るさを取り戻したこの地の伸びやかな夜景のなか、不思議なコントラストで輝きをとどめている。
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大正デモクラシー全盛期、日本ではアメリカ風刺漫画を学んだ北沢楽天が現代漫画の元祖となる風刺漫画で一世を風靡していた。同じ頃、新聞の購読者が急増し、大正10(1921)年には『時事新報』が『時事漫画』を創刊。新聞風刺漫画という新しいジャンルが産声をあげる。
一方、日本領有から20年が経つ台湾では、漫画雑誌はあるものの、新聞には漫画は掲載されていなかった。そんな台湾新聞界に初めて漫画を導入したのは、第一次大戦直後、たまたま台湾の始政20周年記念博覧会を見学に来た、内地出身の無名の画家、国島水馬だった。 国島はそれから約20年間、台湾でほぼ唯一の新聞風刺漫画家として、台湾最大の新聞『台湾日日新報』に政治、経済、風俗、世相、内外の事件を風刺した傑作漫画を連載することになる。こうしてひとりの内地人画家により突如勃興した台湾新聞風刺漫画は、外地台湾から見た当事の貴重な歴史観でもあった。
国島が渡った頃の台湾は島民が税制で優遇され、多毛作の米やさとうきび、果実などの豊富な食料と、内地よりも充実したインフラが整備されていた。帝国政府の南進基地として内地からの移住が奨励される注目の新天地でもあった。漫画でも東シナ海に呑気に浮かぶ大きなお椀の船“大椀”(たいわん)に例えられ、時代の騒乱や動乱とは無縁の極楽と見られた。しかしそこは本島に天国であり続けたのか? 内地の漫画家が描いた国島の似顔絵
睨まれると怖い、風刺のきいた目?。。。
実は台湾も大正デモクラシーの流れに飲まれて内地延長主義による社会制度の変革期にあり、「内台融和」「一視同仁」を目標に激変の過程にあった。そしてそこには風刺漫画の素材になる矛盾、軋轢、社会問題が溢れていたのである。 アウトサイダー的内地人である国島の視線は、鋭くかつ滑稽に島内の矛盾を描き出す。それは、本島人の民族意識向上と統治側の衝突、原住民の武装蜂起、関東大震災や皇太子行啓をめぐる騒動、台湾社会の抱える様々な問題、奇妙な風俗習慣など、風刺漫画を通じてこそ見られるグラフィックかつ実物大の人間社会、リアルな描写でもあった。
先日上梓した「風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾」(平凡新書)は、近年の日本に似て、関東大震災から世界恐慌に伴う不況、不安定な政党政治という状況にあった激動の大正・昭和初期。大正デモクラシーが軍部独走の騒乱に飲み込まれていったあの時代、植民地の実像を新聞風刺漫画という鏡に映しだされた独自の視線から見る試みでもある。
出版して、さっそく国民党系、中国人系らしき読者(日本にいる人々)から否定的な意見をいただいているが、これは想定内なのであしからず。戦前の台湾における民族主義運動は孫文につらなる民族主義と、ソヴィエト系に大別されるだろうが、前者は国民党のおおもとで(笑ってしまうが)、後者は共産党である。日本帝国主義に対抗した台湾の大正デモクラシーとするなら、国民党系も現中国人系も関心を抱いて本書を手にするだろうが、書かれているのは……。
革命いまだならず、といいたくなるのは台湾人(本省人)か、それとも原住民か。。。両方だろう。
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