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三 念 < 庵 主 の 仏 教 観 ・ 遍 路 観 >
ー 目 次 −
第一部
序 文
第一章 仏 典
第二章 三 念
第二部
第三章 遍 路 行
第四章 詩 篇
第五章 宗教を 問 う
第六章 総 括
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第 一 部
序 文
宗教とは、この世における人の生き方を示すものであって、死者の為のものではないと私は思うのです。
宗の字を見れば[ウ冠]の内に[示す]と書かれます。[ウ冠]は家を表わし、その家は心の住処を表わします。心の住処それはこの肉体に他なりません。これによって肉体の内に示されたる教えと捉えることが出来ます。
この事から無宗教者は存在しないと私は思うのです。唯人がそれに気づかぬだけだとすれば、気づかせる為に私はこれを書くのです。
肉体、この人身を構成する諸器官の働きは大調和をもって自我なく、私という一人の人身を生かし切らんが為に休む事無く唯々精進あるのみです。
各器官には上下貴賤の差別無く、自らの任を全うし決して自らの任を嫌い又、他の任を望むものは有りません、唯互助あるのみです。
これこそ大我なる仏性,神性でなくて何でありましょうか。
聖書には、「神は自身に似せて人を造られた」とあり、仏典には、「一切衆生悉有仏性」とあります。
人は神仏の子にして、神仏の心の体現者でなくて何者でありましょうか。
これ当に神仏の慈悲に他ならず、神仏の心を我が心として生きるこそ宗教信仰の本義本懐ではないでしょうか。
私はそう信じてこれを書き綴るのです。
第一章 仏 典
仏 道
念珠は合掌の手かせ 合掌は信仰の基 信仰は霊魂の糧 霊魂は永遠の自己なり
常に死を眼前に捉え今を生きるこそ仏道なり。
七 仏 通 戒 偈
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
開 経 偈
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
懺 悔 文
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴
従身口意之所生 一切我今皆懺悔
三 帰 礼 文
自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意
自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海
自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無礙
佛説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時・照見五蘊皆空度・一切苦厄舎利子・色不異空・空不異色・色即是空・空即是色・受想行識・亦復如是・舎利子・是諸法空相・不生不滅・不垢不浄・不増不減・是故空中・無色無受想行識・無眼耳鼻舌身意・無色聲香味觸法・無眼界乃至・無意識界・無無明亦・無無明盡・乃至無老死・亦無老死盡・無苦集滅道・無智亦・無得以無所得故・菩提薩埵依・般若波羅蜜多故・心無罣礙・無罣礙故・無有恐怖・遠離一切顛倒夢想・究竟涅槃・三世諸仏依・般若波羅蜜多・故得阿耨多羅・三藐三菩提・故知般若波羅蜜多・是大神呪・是大明呪・是無上呪・是無等等呪・能除一切苦・眞實不虚・故説般若波羅蜜多呪・即説呪曰・羯諦羯諦・波羅羯諦・波羅僧羯諦・菩提薩婆訶 般若心経
南無釈迦牟尼仏 三念正起 浄土招来
廻 向 文
願わくは此の功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん
第二章 三 念
感 謝 の 念 (報恩と愛の実践)
感謝するはこれ当に第一義なり、たとえ四苦八苦の中に在りとも今生において良きにつけ悪しきにつけ貴重な体験をさせて頂いた事への感謝、又相対するものへの恩を想い感謝することは,貪瞋痴の三毒を減ずる。
感謝の念無くば新たな三毒の芽断つこと叶わず、常に心乱れるなり。
感謝の念正しく起こすところに、不平不満三毒の芽育つことなし。のみならず報恩の心芽吹き利他の心を生ず。これ菩提心の始めにして心平安にいたる道なり。日々の食に生命あり、この生命を頂くに仏性を想い感謝して頂くところ生命の尊厳を知る。感謝なくして食すべからず。
万象万物に仏性あり、悉くに感謝あるべし。仏性即ち大我なり,大我に生きんこそ仏道なりや。
懺 悔 の 念 (智と洗心の実践)
懺悔文の実践をもって急ぎ洗心の一念を起こすべし。過去一切の懺悔は心の研磨、日々の懺悔は仏性成就への一拭なり。智をもって仏法を学するところ当に開経偈の本義なり。一宗を妄信するには非ず。懺悔の念正しく起こすところに自我を滅し大我を生ず。
懺悔すべきは三毒からなる身口意の三業であり、五戒の本義をもってし雑多な戒を強いるには非ず。五戒の本義を智をもって見極め自戒するこそ懺悔の本道なり。この智を磨くことによって心の平安を得ん。
苦行に片寄らず、快楽に片寄らず、中道を歩むるはこれ懺悔の功徳、千千に乱れる心を主と成さず、心を整え心の主と成らん。
祈願の念(理想と向上の実践)
行無くば祈願成らず、これ自己実現の道。感謝の念懺悔の念を通じ利他の心を育み、大我なる理想を求めて行ず。自ら現世浄土具現の一助とならんと発願し、人生設計、目標,向上を祈願し努力精進怠らず、祈願の念正しく起こすところ、三念共に正起して成就する。しかして今世に成就ならざれども嘆くことなかれ、心すでに阿羅漢への途上、この身は土に帰れども魂の転生輪廻限りなく仏近きを喜ばん。
大衆共に行ずれば、浄土はこの世に現前す。
自戒の扉
在家の五戒にこそ戒の本義は存在する。不殺生戒の矛盾こそが、五戒の本義を解く自戒の
扉であり、この扉の鍵七仏通戒偈に照らして五戒の各々を諸悪とおくとき、衆善はと問えば、深く洞察するほどに多くの善戒を生ず。
これこそが自戒、自らが選び取る強いられる事のない自戒である。
五 戒
一、不殺生戒
一切のものに仏性があり、その仏性を持つものを殺してはならないと御仏は云う。しかし私たちは生き物を殺しその生命を頂いて生きている、殺生なくして自らの生命を維持することは出来ない。ここに大きな矛盾を感じるのは私だけでしょうか。この矛盾に行き着くとき、七仏通戒偈に照らしてみれば「生かせ」という善戒に辿り着くのです。
人を生かすとは、唯食物を与えるだけで良いのでしょうか、神仏の心に一歩でも近づけるべくその心を育むことこそ大事ではないでしょうか。
人に限らず、あらゆる物を生かしきること。そこに不殺生戒の本義が隠されているのだと私は思うのです。一切のものに感謝して生きることこそ本来の人生ではないでしょうか。
食事の前の《頂きます》は、命に対する感謝とその命に対する報恩、それは、「あなたの命を決して無駄には致しません、この仏性を磨いて往きます。」ここにこそ仏道があるのではないでしょうか。
不殺生戒とは、正しく生かすための諸善戒と言えるでしょう。
二、不偸盗戒
偸盗に対する善戒は、六波羅蜜の布施の行、与えるということでしょう。
欲するままに与えて良いものでは無く、真実必要なものをもって心を育む事が大事でしょう。あなたの布施の一灯がやがて万灯となってこの世を照らすのです。喜捨、布施の心を持ちましょう。
不偸盗戒とは、正しく与える為の諸善戒と言えるでしょう。
三、不邪淫戒
邪淫に対する善戒は、男女の性に限りを持たず、親子、兄弟、師弟、友人、隣人、等々人との関わりにおいてどうあるべきかを模索し戒めるものであって、不倫や姦淫といった邪淫そのものに限定されるのではなく、・・・・・・・・。
不邪淫戒とは、人間関係のあるべき様を正すための諸善戒と言えるでしょう。
四、不妄語戒
妄語に対する善戒は、悪口、綺語、両舌等他者を害する言動を戒めるものであって、その元となる心において自我を減じることが求められるのです。一切平等の立場に立って感謝の念を持つことによって、怒り、憎しみ、妬み等は減じられ客観的に自己を見つめる事も出来るのです。それによって自己の欠点も見え、懺悔も容易に出来るでしょう。
不妄語戒とは、信実語によって他者を善導する為の諸善戒と言えるでしょう。
五、不飲酒戒
飲酒に対する善戒は、飲酒に止まらず自らの心身を害するものを受け入れる事を戒めるものであり、酔う為に、憂さ晴らしの為に飲む酒は自他共に苦を招くものでしかない。
モルヒネや酒において、一時的に肉体維持の為に薬として寝る前に服用する分には許されるべきものと私は思います。
他者からの不妄語戒に関わる言動もそれを飲み込めば自らの心を害する事となる。
不飲酒戒とは、受け入れる側の自らを善導する為の諸善戒と言えるでしょう。
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三念 (一)
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