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三 念 < 庵 主 の 仏 教 観 ・ 遍 路 観 >
第 二 部
第三章 遍 路 行
一、 発心の道場(徳島県)
発心とは発菩提心の略、自らは悟りを求め衆生を利益せんと願う心を発こすこと。
この発心あってこそ、修行、菩提、涅槃、へと導かれるのです。そして八十八番大窪寺で発心の芽が結実し結願となるのです。
遍路行、仏道を歩む者にとって無くてはならない心、それが発心です。
札所を巡る事のみで結願するのではなく、仏道を歩もうとする心が無ければならないのです。発心の心を持って巡られるお遍路さんは、そのお参りの姿に発心が表れます
姿、形より心をこそ整えなされてお遍路なされますように。
一番札所霊山寺よりいざ遍路
発心の朱門をくぐり山門へ
山門の前で 合掌一礼
手水に着きては 合掌一礼
洗心の一念込めて、三業懺悔の意思表示
手を浄めては 心業懺悔
口を浄めては 口業懺悔
柄を浄めては 意業懺悔 合掌一礼
鐘楼に着きては 合掌一礼
煩悩滅除の一念込めて 一打 合掌一礼
(鐘は打てない札所も有りますのでご注意下さい)
本 堂 へ
正面にて 一礼
ロウソク一本灯明をあげ
煩悩焼去の一念込めて 合掌一礼
線香三本ロウソクより転火
三帰、三竟、三蜜加持の一念込めて 合掌一礼
賽銭、納札、写経を納め 合掌一礼
《後に続く参拝者の邪魔にならない所まで下がり》
読経の前に 合掌一礼
合掌礼拝
「おんさらばたたぎやたはんなまんなのうきゃろみ」
五体投地 三礼
読経
開経偈に始まる仏前勤行次第 祈願
合掌一礼
(ご本尊の真言が分からない時は南無本尊界會「なむほんぞんかいえ」三唱)
正面に 一礼
大 師 堂 へ
本堂に準じて礼拝する ご本尊の真言は唱えない
納経を済ませて 山門を出て 合掌一礼
読 経 と は
経を読むことであり経本の字を読むことではありません、経文に書かれている仏の心を読み取り実践出来てこそ、経を読んだ、経を読めると言えるのです。
納 経 と は
帳面に朱印を頂く事ではありません、それはお参りを済ませたという証にしか過ぎない。
真実納経とは、経に書かれている仏の心を一念込めて己が心に納めることであり、己が心を読経に込めて仏の元に納めること。
『入我我入』
真言宗、弘法大師空海の教え 三蜜加持の一歩です。
次 の 札 所 へ
二、修行の道場(高知県)
発心したるその念い、行じてゆくのが修行の道場、利他の心を育くまん。
自分が出来る事をば一つづつ、思い描きつ行ず道。
(試行錯誤しながらの状況)
三、菩提の道場(愛媛県)
心洗われて、「忘己利他」の心を込めて行ず道。
(修行が進み自然な形で行ぜられる状況)
四、涅槃の道場(香川県)
菩薩行をば重ね来て、自利利他円満する中に、結願遂げて行満てり。
(周りを一切気にせず、利他の行が自然に行ぜられる状況)
発心の道場から比べて、己が心の向上をハッキリと自覚される時、その人は真実結願したと言えるのです。遍路は回数ではありません。真実遍路する事で大師の教え『十住心』を
昇るのです。
経 文 の 行
開 経 偈
得難き経を受持する喜び 感 謝 行
如来の真実義を解すべく 教 学 行
三 帰・三 竟
三宝帰依の 礼 拝 行
懺 悔 文
身口意の三業懺悔の 洗 心 行
般 若 心 経
行深般若波羅蜜多 六波羅蜜の 菩 薩 行
廻 向 文
自ら行ぜし功徳をもって廻向するこそ 廻 向 文
新 旧 遍 路
遍路の始まりは、衛門三郎懺悔旅
四十七番八坂寺先の「文殊院」その辺りが衛門三郎の生家住居跡とされており、八人の子供の塚『八つ塚』や『札始め大師堂』が近くに在ります。
衛門三郎は順打ちを重ねて大師に巡りあえず逆打ちを重ねて、十三番大日寺から十二番焼山寺の麓で念願の大師に出会い、懺悔し終えて生命はてるのです。そこが『杖杉庵』として今に残る地です。
このいわれから逆打ちに利益ありと伝えられて居ります。
白衣の背に書かれたる『南無大師遍照金剛』
白衣は極々軽いものですが、名号の重みを感じられる人こそ遍路です。
現在、お遍路さんの巡り方は様々ですが、札所においては同じ事を行じているはずです。
しかし、そこに真実なるものを見る事はまれにしかありません。
はるばる北海道や沖縄から来られる人達、多くの費用と、多くの時を無駄に費やして、以前の生活より要らざる業を背負い込み、悪しき人生を歩む人の多きこと。
当に『迷故三界城』自らの業、煩悩にしばられて生きるのみ。
真実遍路する中に心洗われて、城郭は崩れ悟りへの一歩を踏み出す。
ここに『悟故十方空』心の自由を得る道が開かれるのです。
この肉体は多くの制約を受けて、不自由に感じられる事が多々有りますが、心はこの宇宙をも駆け巡ります。
白衣、白装束はこれ死に装束であり、杖は卒塔婆、墓標となって葬られるのです。
いにしえの遍路は、獣道をも歩いた事でしょう。旧い遍路道には、苔むした遍路墓が点在します。野仏の地中に眠る遍路も居られます。
今、私たちが巡る遍路道は数知れぬ遍路の血と汗と涙で固められた道なのです。
あだおろそかに巡れましょうか、遍路墓や野仏に手を合わせずに通れましょうか・
幾多の遍路や大師を偲んで建てられた、大師堂、地蔵堂、観音堂、等々地元の人達の信仰の場にどうして立ち寄らずに居られましょうか。
はたしてあなたはどの様なお遍路をされるのでしょう。
どうか真実遍路される事を祈ります。
歩 き 遍 路 さ ん に 一 言
歩くと言う字は止まれ少しと書きます、先を急がずたまには止まって自然と対話して御覧なさい。そこここに営まれる生命の生き様と、己の生き様を対比する時、多くのことに気づかされます。
そこに懺悔と向上が生まれるのです、新たな自己の発見があるのです。
みなさんは、托鉢や門づけをどう思われるのでしょう。
本来托鉢をする側には『廻向文』の実践がなければならないのです。
喜んで捨てる『喜捨』の心を、布施の心をお持ち頂き、共に仏道を成ずる事を願うのです。
相手のご先祖を供養する心や、幸福を願う心がなければなりません。
それがなければただの乞食です。
托鉢をされているお遍路さんは、生きる為に托鉢をし、感謝を持って『小欲知足』の人生に甘んじ衆生利益を願うのです。
第四章 詩 篇
遍 路 道
同行二人 霊魂不滅 杖をつかずば共ならず
歩く道こそ遍路道
同行二人 追随修行 修行なくして同行ならず
歩く道こそ遍路道
経本読誦 帰依三宝 経を行ずる人生は
一日一生遍路道
三業懺悔 いや忘己利他 自利利他円満すればこそ
結願遂げる遍路道
同行二人 三蜜修行 日々に勤めて怠りなくば
人生全たき遍路道
つ れ づ れ
遍路道 竹の根巡る 春みみず
歩々遍路 梅雨も梅雨たり 晴れて汗する
行ありて 読経も汗に しみわたる
塚地越え ウグイスの声 しきりなり
夫婦岩 梅雨もあけたり 潮の声
花を愛で 草木と語る 安芸花火
大日寺の 空澄み渡り 蝉しぐれ
大日寺の 読経と聴くや 蝉の声
第五章 宗 派 を 問 う
奈良時代においては
神道を擁立する物部氏と、仏教を擁立する蘇我氏との争いの後に、聖徳太子によって十七条憲法を軸に仏教国家が成立する。
平安時代においては
伝教大師最澄によって、比叡山に延暦寺を建立、 天台宗を創設。
弘法大師空海によって高野山に金剛峯寺を建立、 真言宗を創設。
この両宗派は、時の天皇公家を中心に法は説かれた。
鎌倉時代においては
日蓮上人は時の権力者、執権北条氏に対し国家安穏の為に法華経一教をもって国を治めることを、立正安国論を呈して法は説かれた。
日蓮 宗 身延山久遠寺
日蓮正宗 富士大石寺
法然上人は自力聖道門を捨て、浄土三部経をもって浄土門を開き法は説かれた。
浄土宗 知恩院
親鸞聖人は法然上人の弟子となり、戦乱と飢餓に苦しむ文盲の衆生に阿弥陀経をもって法を説くべく、あえて肉食妻帯したるもの。
浄土真宗 東・西 本願寺
道元禅師は宋に渡り、曹洞禅をひっさげて時の僧侶の育成の為法を説いた。
曹洞宗 永平寺
これら各宗は、その説くべき対象を異にするものであり、時代的背景を見ても現代においても宗祖在世当時の様相とは全く様変わりし、人は日々の生活を安楽に謳歌し、高等学校すら義務教育化されようとする世相のなかで、本来の釈迦の仏道を行ぜられない者は皆無に等しく、いかで宗祖の法に固執しそれのみを正法とするや。
聖徳太子、十七条憲法に『和を以って尊しとなす』とある如く仏法は調和を求むるものであり、けん制し合うものには非ず。
法ありても、行、証、無きとする『末法の世』
経文ありとて、その心を行ずる者なくば、当に末法。
仏教教祖釈尊にたちかえり、現代に生きる法を説き、行を成ずるところ、自ずと証のきざしなからん。
第六章 総 括
料理のレシピ本を幾千回幾万回読もうとも、料理はその姿を現さない。
レシピ本を読み内容を理解して、実践してこそ始めてその味わいは問わずともその姿を現しその味わいは反省と努力によって向上を見るが如く
経本においてもしかり、実践と懺悔と精進によって経の功徳、仏の慈悲を味わえるものである。
南無阿弥陀仏とは
法蔵比丘が仏道を行じ、法蔵菩薩となり、四十八願を成就して阿弥陀仏と成りたる者、その法蔵比丘の心を帯して生きようとする所にこそ、阿弥陀仏に南無する真実がある。
南無妙法蓮華経とは
法華経に帰依し、法華経に説かれる心を帯して生きようとする所にこそ、妙法蓮華経に南無する真実がある。
南無観世音菩薩とは
観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)般若心経、等に説かれる観世音菩薩の心を帯して生きようとする所にこそ、観世音菩薩に南無する真実がある。
南無大師遍照金剛とは
弘法大師空海の心をその著書に学び、その心を帯して生きようとする所にこそ、弘法大師に南無する真実がある。
名号や題目を唱えるのみで、その教え、その果実を味わうことは出来ない。
経はそれを実践してこそ、その妙実を味わい得るものである。
経文はその字を読むのではなく、経を己が心に納め実践し得てこそ経を読むのである。
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三念(二)
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