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三ヶ月ぶりのエントリになる。なぜかエントリ更新では物足りなく感じてブログを休んでいた。
この間、生まれて初めて実際にデモに参加したり(於日比谷公会堂:民主党大会)、民主党議員事務所に匿名電話をかけ外国人地方参政権ついて賛否を問いただしたり、検察庁にメールをしたり、会社のコピーでチラシを印刷作成し、喫茶店トイレに置いたりと気休め的ではあるが活動をしていた。
まずは触れざるを得ない話題から。昨日の岡田外相の「核持込の密約問題」記者会見の意図はなんだったのかと思う。単に歴代自民政権を非難するための材料探しのパフォーマンスに過ぎないのではないか。以前のエントリで書いた感想を考え改めるような発言は一切なかった。→ http://blogs.yahoo.co.jp/nate_goodshot/1018744.html
この機会を捉えて現在の東アジアの各国核戦略上の課題についての言及がないため、外務大臣とあろうものが政治的自慰を行っているに過ぎない。米中露北朝鮮に対したメッセージを発することが本来の外務担当の政治家の仕事であるべきだ。
調査対象となった4密約の内の2密約の内容がわかったことで、個人的には知識が増えたなっていう程度の意義しか感じていない。
さて、今日という日は都民にとって特別な日であるので、そのことについて書いておきたい。
今日は戦前までは祝日であり、筆者の曾祖父も戦った日露戦争奉天大会戦勝利を記念した陸軍記念日であった。だが記憶すべきは65年前の3月10日深夜、米空軍の爆撃機B29による無差別空襲によって10万人に上る人々が焼き殺された日としてである。低空からの焼夷弾による東東京下町区域を目標とした絨毯爆撃での民間人殺戮である。
個人的に知っている無名の庶民の経験を紹介する。
筆者が以前住んでいた、東京下町の門前仲町に贔屓として通い続けた魚屋兼小料理屋があった。現在はご主人が独身のままお亡くなりになり、跡継ぎがいなかったため残念ながら廃業してしまった。筆者よりふた廻り以上も年上の大先輩だったが、昔の邦画や歴史談義が好きだったので可愛がってくれた。この人から聞いた東京大空襲のエピソードである。
9日の夜10時過ぎに空襲警報が一旦解除になったため、ほとんどの人々が寝入りばなを空襲警報でたたき起こされ、10日午前12時過ぎには逃げ遅れる人や家財道具を運び出すことや、それら運搬に手間取る人が街路裏道を逃げ惑いパニック状態になっていた。春の嵐めいた強風も吹いていて火の粉が空を真っ赤に染めていたそうだ。当時、国民学校2年生(小学2年生)であった小料理屋主人は、母親に手を引かれ二人の姉と共に、町内の顔利きである先代父親に連れられ、町内の交差点に差し掛かった。すると何度もいたずらを叱られたことのある巡査が、ホイッスルを吹き怒鳴りながら群集の交通整理をしている現場に出くわした。その時、ヒューという空気摩擦音と共に空から落ちてきた焼夷弾子爆弾(断面が6角形直径8cm、長さ60cm程度)がまともに巡査の体を直撃貫通し、彼はそのまま交差点中央に仰向けに倒れた。驚き慌てて駆け寄る人々に向かって巡査は血を吐きながら「皆、早く隅田川まで逃げろ」と叫んでこと切れたそうだ。その後、町内の多くの人が隅田川まで逃れ、川に飛び込むことで火災熱風から一命を取り留めることができた。
この巡査の霊はいまでも町内の稲荷神社に神としてお祭りしてあり、今日命日には、まだ町内のお年寄りがお参りをしているはずである。
筆者の父は、少年航空兵上がりだったが視力悪化を理由に搭乗任務から外され、当時陸軍航空隊立川飛行場で夜間戦闘機「屠龍」の整備を担当していた。当夜は空襲警報後に必死で整備担当機のエンジン暖機を試みたが、潤滑油不足で調整が間に合わずに終わり迎撃に送り出してやれず悔しい思いをしたそうだ。
午前二時過ぎまで作業にかかっていたが、東の空が仰角45度以上まで明るくオレンジ色に染まり滑走路上の整備中機体が暴露されているので大慌てで移動させたそうだ。下町の空襲による大火災を光源として、立川で灯火管制中の深夜にもかかわらず新聞が読めたと語っていた。
筆者の義父は、いわゆる学徒出陣で召集を受け同志社を繰り上げ卒業した海軍予備学生出身の海軍少尉であった。義父は視力が悪かったようで飛行科を希望したが搭乗員不適格とされかなわず電測科に配属された。当時の海軍の呼称では電探と呼ばれたレーダー技術将校として緊急養成されたわけだ。3月8日夕刻、基地にて不足がちであった電探兵器部品を取り寄せる交渉のために、任地であった鹿児島県鹿屋基地を発ち、山陽本線、東海道本線と乗り継ぎ10日の早朝、列車は小田原駅に停車した。夜が明けて一時間以上も停車中のために車掌に運行状況を確認したそうだ。(当時は明るくなった駅構内に停車している列車は米艦載機の機銃掃射の格好の標的になり危険)すると帰ってきた言葉が「東京で大空襲があり、全線不通で復旧予定はわかりません」とのことで暗然とした気持ちになったそうだ。
以上、直接にソースにあたったことのある65年前の今日の出来事である。
現在の東京の都市としての繁栄は、これらの犠牲の上で築かれたものであるということを忘れてはならない。
お亡くなりになった方々のご冥福を心からお祈りする。
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