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ナトリウムの架鉄ブログ
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有岡鉄道 その二

集会所の扉が開けられた瞬間、会場は一気に静まり返った。
扉から入ってきたのは中年の男性―もう姿も見慣れた、有岡鉄道社長の野田さんだ。ゆっくり、長机に立てられたマイクの前へ歩いていく。
集会所には私を含めて大勢の人が詰めかけていた。老若男女色々な人がいるが、みな同じ思いを持って来ていた。会場の後ろには横断幕が掲げられている。「有岡線絶対存続!!」―。
マイクの前に社長が立ち、会場の全員が息を飲む。静寂の中、彼は重たく口を開いた。
「…補助金の追加申請は、認められませんでした…。申し訳、ありませんでした…っ」
社長は声を震わせ、その場に泣き崩れた。私たちは、何も言うことができなかった。

「有岡鉄道 その二」

集会は解散となった。寒空の下、冷風に吹かれながら会場を出ていく人々は、みなどこか落胆の色をにじませていた。
―自治体による補助金交付の停止…それは有岡鉄道にとって、廃止が避けられないことを意味していた。
有岡鉄道は有岡鉱山への輸送のためにつくられた鉄道だ。しかし89年に鉱山が閉山し、有岡鉄道の経営は急速に悪化した。雀の涙ほどの内部留保などすぐに底をつき、赤字にあえぐなか、地域輸送維持の名目で県から交付される補助金だけが唯一の命綱となっていた。
しかし、補助金を支給している県とて財政にゆとりがあるわけではなかった。わずか6キロの赤字ローカル線の維持費など、切り捨てられても仕方がなかったのかもしれない。
結局、誰も悪くないのだ。経済情勢に翻弄され、少しだけ鉱山より生き長らえただけなのだ。あるいは、鉄道というインフラを民間や地域資本に丸投げしても当然だという日本特有の社会認識が悪いのか。
私は悔しかった。私にとってこの3年間の「戦い」は、有岡線に対する恩返しのつもりだった。それは他のみんなも同じだったと思う。でも、私は、私たちは、有岡線を守ることができなかった。それがどうしようもなく、悔しかった。
かじかむ両手を握り合わせながら、会場だった有岡町自治会館から10分程歩いて自宅についた。ニュータウンの一角の一軒家に灯りはついていない。夫はまだ仕事から帰ってきていないようだ。
家に入ると、中は暗くて冷たかった。リビング兼仕事場のパソコンが、スリープ状態でつけっ放しだった。私の本業は絵本作家だが、パソコンは主に趣味のアニメーションづくりに使っていた。
バッグを降ろしダイニングの椅子に座ると、私は小さくため息をついた。
この家は私と夫が結婚した時に建てたものだ。私も夫も有岡町で生まれ育ち、地元の高校で出会った。卒業してまもなく結婚したが、有岡を離れる気はどちらにもなかった。だからここに家を建てた。
私も夫も、この有岡という町が好きだった。歴史は浅いかもしれないけれど、みんな顔見知りで一つの家族のようなこの町が好きなのだ。そしてその中でも、生まれてからずっと見守ってきてくれた、包んでくれた有岡線が、私は大好きだったのだ。
がちゃり、と玄関から音がした。夫が帰ってきたようだ。
「おかえり」
夫は私を見るなり口を開いた。「説明会、どうだった」
「…だめそう、だって」
「そっ、か…そっか……。」
夫は繰り返した。彼だって悔しいはずだった。なにせ毎日乗っているのだ、私より愛着は強いかもしれなかった。
「…ごはん、今から作るね」
私はわざとらしく声を明るくして、キッチンに向かった。

翌朝。私は夫を見送って食器洗いを済ませていた。ダイニングテーブルでインスタントのコーヒーを啜る。
今朝も起きてからずっと、有岡線のことが頭から離れなかった。無くなってしまうだなんて、実感も沸かないし想像もできなかった。ただ何か大きなものを失う切なさに胸を締め付けられている感じがした。
本当は絵本の制作を進めないといけないし、応募するアマチュアのアニメーションコンテストの締め切りも迫っているのだけれど、仕事が手に付きそうにはなかった。
私はもう一度コーヒーを啜り、思い出に沈み始めた。

私の母は買い物などで矢郡の町へ出るとき、必ず有岡線を使っていた。いつも母と一緒にいた幼い私にとって、有岡線は物心がついたときから慣れ親しんだ存在だった。
私が生まれた頃には既に有岡線の経営状況は悪化していて、鉱山が閉山した1989年は私が小学生のときだった。私は幼心にも本数が減ったり2両編成だった列車が1両になったりしていったのに気づいて不思議に思ったのを覚えている。中学生の頃にはいつの間にか駅員さんも車掌さんもいなくなってしまった。
それでも、有岡線の電車は私をちゃんと運んでくれた。有岡の駅から矢郡の町まで、わずか20分にも満たない旅路だったけれど、ゆっくりと、しっかりと運んでくれたのだ。そんな有岡線に、私は愛着を感じていた。
矢郡の高校に入り、毎日有岡線で通学することになった。そして高校で今の夫と出会い、一緒に登下校するようにもなった。朝の少しだけ混雑する電車で、夕暮れのオレンジに染まる二人きりの車内で、私たちは言葉を交わした。大切な人と共に過ごす時間も、有岡線は包んでくれた。
そして私たちは高校を卒業し、結婚した。夫は矢郡からも少し離れた新幹線の停まる街に就職し、矢郡まではやはり有岡線を使うことになった。絵本作家を目指した私は家庭に入ったけれど、これからも私たちの生活はずっと、有岡線とともにあるのだと思っていた。
…廃止の噂が出始めたのは、5年くらい前、2004年頃だった。鉱山が無くなってからというもの旧有岡町域の人口減少は悪化の一途をたどり、有岡鉄道の経営状況が好転することは絶望視されていた。そして3年前の2006年、県は有岡鉄道への補助金交付を近い将来やめると公表したのだった…。

回想から返り、私はもう一度コーヒーを啜った。あれから後のことはすぐ昨日のことのように思い出せる。有岡線の存続を訴えるため同志たちと会をつくった。有岡線の駅で署名活動をした。有岡鉄道や県に直談判にも行った。
…でも、有岡線を残すことは叶わなかった。たくさんの思い出が詰まったふるさとの電車を、その思い出を、守れなかった。
ふー、と長く息をついて、私はコーヒーカップを置いた。何をする気力も沸かなかった。
私はもう一度リビングを見回した。見慣れた室内を朝の陽光が、私の気も知らずに穏やかに照らしている。
と、ふいに電源を落としたパソコンが目についた。
―ふと、ある考えが私の脳裏をよぎった。
「アニメーション…」
アニメーションに、有岡線を残すことはできないだろうか。有岡線とその思い出を、一つの作品として形作ることはできないだろうか。そうすれば、なくなってしまう有岡線を、形あるものとして存在させ続けることが叶うんじゃないだろうか―。
その思い付きはすぐに私の心を占めた。そうだ、有岡線がなくなってそこに詰まったみんなの思い出は消えてしまうけれど、反対にみんなの心には『有岡線の思い出』が残っている。それを誰かが、いや、私が、形にすることで有岡線を「残す」こともできるはずだ。
私は大きく息を吸った。意気込んで拳に力が入る。私がこの手で、有岡線を残し続けるんだ…。

その日からというもの、私はアニメーション制作に没頭した。自分自身はもちろん、夫や近所の顔見知りの人達とも話をして、たくさんの人々の心の中にある『有岡線』を聞き出していった。家族に見送られながら鉱山へと向かう日の駅、週末に一家で矢郡に夕飯を食べに行く時の列車内、畑の裏手を走りいつしか時報代わりになっていた単行電車…。それぞれの何気ない日常の中に、有岡線は甘く溶け込んでいた。そしてそれらはみな、かけがえのない大切な「故郷の風景」だった。
私はそんな「風景」という思い出たちをアニメーションに紡いでいった。特別な演出は何もない。ただ優しい有岡線が人々の「風景」の中に溶け込んでいる、それだけの映像を、丁寧に、ていねいに紡いだ。しっかりと、いつまでも残っていてくれるように…。

『では、壇上の方へ!』
スピーカーから響く司会者の明るい声にいざなわれ、私は驚き戸惑いながら、席を立ち上がった。拍手の中、向かうステージの上の方には「第3回日本短編アニメーションコンテスト」と掲げられている。
『最優秀賞を受賞されました作品「鉄路」は、作者の故郷を走るローカル線をモチーフに描いた19分のアニメーションです。19分間という、短編としては長めの作品時間は、モチーフのローカル線の実際の所要時間となっています。その時間の通り、作品では、電車が駅を出てから終点に着くまで、車内や沿線のたくさんの人々の「風景」の中を走っていく様子が描かれています。淡い雰囲気の中、鉄道とともに生きる人々の営み、息づかいが丁寧に描かれています。…では、制作者の方からコメントを頂きましょう』
司会者が饒舌に喋った後、私にマイクが渡された。予想だにしなかったことに戸惑いつつ、おそるおそる口を開く。
「ええっと…まさかこの作品が受賞するとは思っていませんでしたので、とにかく驚いています。ありがとうございました。えっと…、…ひとつだけ、言わせてほしいことがあります。じつは、このアニメーションのモチーフにした鉄道…有岡鉄道という、私の故郷の路線は、来年の3月をもって、廃止されます。私は、愛するあの電車の風景を残すために、この作品をつくりました。…路線の廃止とともに、そこに詰まった風景や思い出は消えてしまいます。しかし、その風景や思い出を、この作品を通して、少しでもみなさんの心に届けることができたのなら、作者として、…いえ、有岡鉄道に支えられた一沿線住民として、こんなに嬉しいことはありません。本当に、ありがとうございました」
再び会場が拍手喝采に包まれる。…私は、少しだけ、救われたような気がした。

冬の終わり。あのコンテストから2ヶ月近く経ったある日。置き時計には、3月31日と表示されていた。
短い日がすっかり沈んでしまった午後6時、私は夫とともに家を出た。歩きながら、有岡の町がいつもよりしんとしている気がしていた。そしてその感覚は当たっていた。有岡駅に着くと、既に町の住民みんなが総出でプラットホームにいたのだった。
「あら、あなた、遅いじゃないの」
ふいに声をかけられた。駅前で商店を営むおばさんだ。
「すみません、準備に手間取ってしまって」
「そんなことより、あたし見たわよ、あなたのアニメーション。すごいじゃない、一等賞だなんて」
「い、いえいえ!その節は取材を受けてもらって、ありがとうございました」
「そんなこといいのよ。あの作品、すごく良かったわ。こっちこそ、…『残して』くれてありがとうね」
おばさんは少しだけ切なそうに笑った。
時計を見る。既に時刻表の時間になっていたが、遅れているようだ。始発の有岡鉱山駅でも盛大に見送りをしていたのだろう。
と、そのとき、ホームの向こうの暗闇に、揺れる黄白色の灯が見え始めた。弱々しく今にも消えてしまいそうなヘッドライトを灯しながら、やって来たのは有岡鉄道90年の最終列車だ。
『フアン!』
警笛を一吹きして、単行電車は有岡駅のホームに滑り込む。
扉が開き、ワンマン運転士が放送で呼びかける。『この電車は矢郡行き、本日の最終電車です。なお、本日をもちまして、有岡線は代行バスによる運行に切り替わります。長らくのご利用、誠に、まことに、ありがとうございました…っ』
「ばかやろう、泣くんじゃねえっ!」
運転士のアナウンスに、ホーム上の誰かが、やはり涙声で怒鳴った。
やがて時間がやって来る。2010年、3月31日、午後6時48分。定刻より10分遅れて、列車はその扉を閉めた。
『フシュウ…』
ブレーキの空気が抜け、車輪が静かに、なのに確実に動き始める。モーターが唸り、電車は速度を増す。
「ありがとうっ!」
誰かが叫んだ。それに呼応して、何人もの人が「ありがとう」を口にした。
―たくさんの人々の愛に見守られながら去ってゆく赤いテールランプを、私は、いつまでも、いつまでも見送っていた。

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有岡鉄道

ホームに降り立ったぼくの頬を、汗が流れ落ちた。
各駅停車便の新幹線しか停まらない地方の小都市の駅から、さらに在来線に揺られること数十分、ぼくは矢郡という駅にたどり着いていた。駅舎はやや老朽化していたが、十五年前とほぼ変わらなかった。その様子に少しだけほっとするが、この町はあくまでぼくの故郷ではない。ぼくの生まれ育った町は、ここからさらにもう一本、列車を乗り継いだところにあった―はずだった。
改札を出たぼくは自然とその路線への乗り換え口に歩を進めていた。身体が覚えているのだ。…だが、この歩みが無意味だということを、ぼくは知っていた。
「乗り換え口」の前で、ぼくは立ち尽くした。その先には行けなかった。通路は一面ベニヤ板で塞がれていた。
そしてそこには張り紙が張られていた。
「有岡鉄道線は2010年3月31日をもって廃止となりました。長い間ご利用いただき、誠にありがとうございました」―。

「有岡鉄道」

新しく継ぎ足されたらしい出口から、ぼくは駅舎をあとにする。「乗り換え口」の先がどうなっているのか、見に行ってみることにした。
ハンカチで額をぬぐいながら、ロータリーをまわって奥へ行くと、金網で囲われた先にプラットホームが見えた。跨線橋は解体されていたが、石積みのホームと屋根、それから木の架線柱などは残っていた。「やごおり」と書かれた看板―かつては手が届く所にあったはずのそれは、決して触れることのできないものになっていた。
故郷へはバスが代わりに出ていると聞いていた。ここに来るまではそれに乗るつもりだったが、やめた。そんな訳のわからないものに乗っても、「故郷」に帰れないと思ったからだった。それならいっそ、有岡線をたどって歩いていこうと考えていた。
暑い夏の陽射しを首筋に感じながら、ぼくは錆びたレールのはしる線路沿いを歩き始めた。

有岡鉄道は、国鉄と接続する矢郡駅から有岡鉱山駅までを結んでいた、わずか6キロ4駅の鉄道だ。明治期に大規模開発された有岡鉱山は鉛や亜鉛を産出したが、その鉱物および労働者の輸送を目的に敷設されたのだそうだ。比較的勾配があるということもあり、戦前から電化もされていた。
鉱山は戦後高度成長に合わせ開発が進められ、有岡鉄道の輸送も貨客ともに全盛期を迎えた。沿線には住宅地も発達し、特に鉱山の周辺は労働者の家族が住むニュータウンになっていた。
しかし、その繁栄は長くは続かなかった。1970年代に入ると、オイルショックに代表される経済危機により有岡鉱山では合理化を迫られ、労働者数は大幅に減少し有岡鉄道やその沿線にも大きな影響を与えた。
さらには1985年に生じた急速な円高により、鉱山はその競争力を完全に奪われ、世間がバブル景気に浮かれている1989年、有岡鉱山はひっそりと閉山した。
鉱山が無くなり、有岡鉄道は大打撃を受けた。もともとが鉱山への輸送を目的としていた鉄道なので当然ではあったし、鉱山と運命を共にするのではとも囁かれていたが、有岡鉄道は沿線ニュータウンの輸送を続けることにした。しかしやはり経営は著しく悪化し、減車、本数削減、駅無人化、ワンマン化と痛々しいほどの努力を重ね、また沿線住民からの活発な存続運動も受けたが、それもむなしく2010年、有岡鉄道は数億円の赤字を残し廃線となった。現在も有岡鉄道株式会社という企業は存続しているが、債務処理のみを行う団体となっている。
そんなことを思い返しながら線路沿いを歩いていると、新矢郡駅跡が見えてきた。一面二線の島式ホームの横に、数本の線路と廃屋が残っている。車両基地の跡地だ。
ぼくはその片隅に車両を見つけた。晩年の有岡鉄道唯一の形式、17形電車だった。
17形は1969年に導入された旅客用電車だ。69年というと有岡鉄道や鉱山が力を失う直前にあたり、だからこそ新設計の車両を製造できたのだった。会社にまだお金があった時に造られた17形は、単行電車ながら地方私鉄にとっては豪華に設計されていた。空調はなかったが扇風機は取り付けられていたし、座席もふかふかだったのを覚えている。
しかし、17形は有岡鉄道にとって最後の導入形式となってしまった。70年代から急速に体力を奪われた有岡鉄道は、この17形を最後まで大事に使い続けた。駅無人化・ワンマン化対応改造で真ん中のドアが封じられたり、整理券発券機や運賃箱が設置されたりしていった。最初の頃あったお洒落な照明カバーもいつしかなくなり、改造され尽くされた姿は痛々しくも感じたが、健気なその様子の車両を、ぼくは愛していた。
「…お疲れさま」
自然に言葉がこぼれた。錆びが垂れてぼろぼろの電車に感謝の微笑みをかけて、ぼくは再び歩き始めた。

矢郡の街を抜け、有岡線の廃線跡は開けた畑地をはしっていた。底抜けに鮮やかな青空の下、有岡鉱山の山に傘雲がかかっている。汗ばんだ身体の不快ささえ忘れられそうな、懐かしい故郷の眺めだった。
…ぼくが故郷を出たのは、大学入学の年、ちょうど新たな世紀に突入した2001年だった。新世紀到来に世間もどこか浮かれていて、ぼくもその一人だった。土臭い田舎を捨て、東京で成功するんだ、と意気込んでいた。…その頃のぼくは、暖かい故郷のありがたみを全くわかっていなかった。
上京したぼくは、下宿に入って大学に通い、就職した。しゃにむに勉強したし、がむしゃらに働いた。…でも、夢見ていたような成功を納めることはできなかった。大手の下請け会社で、上司に頭を下げながら社内を走り回るような毎日だった。
そんな孤独な日々の中で、ぼくは故郷を想うようになっていった。家族、親友や仲間、そして慣れ親しんだあの町並みが、どうしようもなくいとおしく思えた。生まれ育った町を容易に捨てたことを、後悔もした。
そしてそんなある日、ぼくは新聞で小さな記事を見つけた。「有岡鉄道、廃止へ」―故郷を走る、あの愛すべき電車が、廃止になる…その知らせに、ぼくは少なからず衝撃を受けた。物心のつく前から親しんでいた有岡線が、青春時代の全てを包んでくれたあの路線が、無くなる…。それはどこか現実味のないものに思えたし、有岡線のない故郷など想像ができなかった。
しかし今日、初めて帰ってきたぼくは、その事実を突きつけられたのだった。本数は少なくなっていっても、ちゃんと故郷まで運んでくれた有岡線の古い17形電車が走ってくる気配は、全くなくなっていた。

線路沿いをしばらく歩いていたぼくの視界に、あるものが映った。揺らめく陽炎に浮かぶ「それ」を見た瞬間、ぼくは立ち尽くしていた。
―毎日使っていた故郷の駅…有岡駅は、荒れ果てた姿になっていた。
「ここが…」
言葉が出てこなかった。夢を見ているのかと思った。
ひび割れたプラットホームは、道路から上がれるようだった。ぼくはふらふらとそちらへ歩いていった。
駅は廃墟だった。ぼくは朽ちかけたベンチに、腰を下ろした。
しばらくして、―突然、喉の奥を熱いものが突き上げてきた。鼻と目頭がとたんに熱くなる。
「…っ、う…!」
違う…。違うんだ。ここは故郷じゃない。ここには、ぼくが親しみ、ぼくをいつも受け入れてくれたものたち―母親も、親友も先生も、そして有岡線さえ…みんな、もういない、ぼくを暖かく迎えてくれる「故郷」は、もうないんだ…。ぼくが想い焦がれた、唯一無二の「故郷」は、変わり果てたこの町には、もうないんだ…っ!
気がつくと、ぼくはぼろぼろと涙をこぼしていた。ぼくの帰る場所が、もうこの世界にはないと知った衝撃だった。有岡線のなくなった今、ぼくには故郷に帰るすべは、何一つないのだ―。
「う…ううっ…」
言葉にならないうめきが漏れていく。かけがえのないものをなくした哀しみが、ひたすらにこぼれてはひび割れたコンクリートに染み込んでいく。埋めようのない大きな穴が心に空いたのがわかった。
ひとしきり泣いて、ぼくは顔を上げた。本当は頭のどこかでわかっていたのだ、故郷を出るとき、もう後戻りはできないと。ここに帰ってくることはもうないという覚悟を決めて、後ろを振り返らない生き方をぼくは選んだのだ。それがぼくの人生なのだった。
袖で滴を拭い、ぼくは立ち上がった。もうこの町にいる必要はない。ひたすら前に進むしかない東京という場所へ、戻るしかないと感じた。
線路に背を向けて、プラットホームを後にしようとした。そのとき、背後から17形電車の警笛の音が聞こえた気がした。
―ぼくは一瞬立ち止まり、そのまま振り返らずに歩き出した。

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