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ナトリウムの架鉄ブログ
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海風の吹く町

「海風の吹く町」は、2011年春に放送されたテレビアニメ、およびその関連コンテンツである。

概要
海に近い丘に住むキャラクターたちが、恋、友情、そして別れなど様々な経験を通して、大人へと成長していく様子を描いた作品。思春期の複雑な心情を繊細に描き切り、背景の美しい情景描写も伴って高く評価されている。深夜帯としては異例の高視聴率を叩き出し話題となった。人気から、同年秋には2期が、翌年には映画が公開され、今でも根強いファンの多い作品である。

ストーリー
基本的に全て真那の視点で描かれている。
・1期
海の近い丘の上にある町に住む野崎真那(のざき まな)は、地元の学校に通う高校2年生。彼女は学校生活を送る中で、同級生の伊藤昇(いとう のぼる)に想いを寄せ始める。ところが昇には、いつも親しくしている斉川華絵(さいかわ はなえ)という女子がいた。彼女の存在を意識しなかなか言い出せない真那は、幼なじみの江草信(えぐさ まこと)にアドバイスを求めるが、実は信は真那に片想いを抱いていた。交錯する四人の想いが、日常の中で少しずつ動いていく―。
・2期
進級直前に昇に想いを伝えることのできた真那だが、その彼女を信は応援しつつも諦めきれずにいた。そんな中、華絵が北海道へ引っ越すことになり、昇の想いが揺れ始める。それに気づいた真那は動揺するが、その彼女を見て信の感情も再び色を見せ始め―。
・劇場版
真那がアルバムをめくりながら思い出に浸る形式。昇と華絵の過去や、信と昇、真那と華絵の対峙などの、描かれてこなかった伏線部分と、2期ストーリーおよび全ての結末が明らかにされる。

登場人物
メインキャラクター(年齢は全員、1期:17歳、2期:18歳、劇場版:21歳)
・野崎真那(のざき まな)
本作の主人公にしてメインヒロイン。愛らしいルックス同様、内面もまだまだ幼く傷つきやすい。昇に恋心を抱くが華絵の存在に気づき、真面目で落ち着いた性格のため思い切った行動ができずに煩悶してしまう。
・伊藤昇(いとう のぼる)
メインヒーロー。優しい性格で人望も厚いが、あまりクラスメートと関わりたがらない様子を見せる。唯一親しいのが後述する斉川華絵であるが、彼女との関係は劇場版で明らかにされるまで謎のまま。ただ、真那の好意には応じようとしている。
・江草信(えぐさ まこと)
真那の幼なじみの男子。親切なものの流されやすい性格で、自分の考えをなかなか言い出すことができない。真那とは小学1年生の時からの仲で、いつしか片想いをするようになるが、それを伝えられずにいた。真那に対する想いは誰にも(昇にも)負けないという自負が、いっそう自身を苦しめる。
・斉川華絵(さいかわ はなえ)
サブヒロインで、昇の友人。普段は誰も関わらせないような冷淡でミステリアスな雰囲気でいるが、昇とは極めて親しそうに接する。彼以外とあまり話をしないため謎が多いが、特に昇との関係に関しては隠すそぶりを見せる。実情はともかく、昇に好意を抱いているような様子が見受けられる。
サブキャラクター
・江草由里(えぐさ ゆり)(20歳→21歳)
信の姉。大学生で下宿に暮らしているが、時おり実家に帰ってくる。真那とも幼い頃に面識があり、信から相談を受ける。
・佐々野博巳(ささの ひろみ)(39歳→40歳)
真那たちの担任教諭。温厚な人柄で、生徒の異性交際に関してもある程度認めている。華絵の事情について何か知っている様子だが、話そうとはしない。
・本井康子(もとい やすこ)(17歳→18歳)
同級生で、真那の友人の一人。事情を聞き、アドバイスをくれたりする。

設定・用語
・高校
真那たちが通う公立高校。名前は登場しないが、県立伊島高校をモデルとしている。偏差値は60程度で、進学する生徒が比較的多い。最寄り駅は北伊島駅。
・伊島線
隣町の地方都市、羽原から、伊島町を通って観光地逢瀬海岸までを結ぶ鉄道で、現実の伊島電鉄伊島線に同じ。真那たち生徒は北伊島駅を通学に利用している。
・南の丘
真那と信が幼い頃から知っている、町の南にある林の中の小高い丘。台地の南端でもあるため、そこから海が見渡せる。信にとっては特に大切な思い出の場所であるが、真那はそこに昇を連れてこようとする。
・駄菓子屋「リンリン」
北伊島駅前にある小さな駄菓子屋。いくつかテーブルもあり、真那たち生徒が学校帰りに寄ったりする。ちなみに実在で、店名の由来は店のすぐ横の踏切の音から(開店当時は警報器が電鈴式だったものと思われる)。
・中華料理店「桃花苑」
伊島駅前にある中華料理店で、昇の実家。一階が店で二階が住居になっている。
・この他にも、劇中では「伊島」などの地名が実名で登場しており、伊島線など実在の場所も綿密な取材のもと描かれている。

伊島町・伊島電鉄の協賛企画
劇中で描かれ話題になったことがきっかけで、伊島町および伊島電鉄とコラボレーションした企画が行われた。聖地ツアーやグッズ販売のほか、商店街と伊島線沿線にてスタンプラリーが開催されたりしている。

今後の展開
ストーリーは劇場版をもって完結しており、公式声明としても、企画展開の終了が既にアナウンスされている。そのため、映像作品含め新たな制作物が公開されることはないと見られている。
ただ、先述した伊島におけるコラボレーション企画は現在も続いており、こちらから何らかの形で発表がなされる可能性はある(特に伊島電鉄は、イメージイラストにメインヒロインの真那ではなく華絵を起用しており、スピンオフ作品が期待されている)。

更新履歴5/16

・伊島電鉄
車両に関して設定を加筆。200形以降の形式に「発電ブレーキ併用」の文面を追記

更新履歴5/15

・伊島電鉄
「路線・駅」に加筆修正。交換設備に関する設定に修正を加えました

更新履歴5/9

・武州帝都急行電鉄   \てーきゅう/
会社、路線、歴史、コラム3記事公開。車両などはもっとあとになると思いますのでご了承ください。
・創立と壮大な計画
武州帝都急行電鉄の前身、武州鉄道は1910年に、蓮田や岩槻の有力者の投資のもと中央軽便電気鉄道として計画されました。翌年に動力を蒸気とすることと変更し社名を中央鉄道に改称して創立、開業後1919年に再び変えて武州鉄道という名称になりました。当初の計画は北千住から川口、岩槻、幸手、栗橋、古河を経て日光へ至るという非常に壮大なものでした。1912年に川口―岩槻、1914年に岩槻―蓮田―忍町(現在の行田市)の認可が下りましたが、川口駅には土地の制約上乗り入れが厳しいとわかり、上り方面の起点は旅客が赤羽、貨物が蕨に変更されました。これらの路線は多数の出資者がいる蓮田から南進するかたちで建設が進められましたが、途中で経営が行き詰まってしまいました。都心に乗り入れていないため利用客数が伸びず、そのために都心乗り入れのための資金が確保できないという悪循環に陥ってしまったのです。
・根津氏による経営再建
一時期は経営難で存続の危機にまで陥った武州鉄道ですが、1927年、転機が訪れます。積極的な投資で数多の鉄道の再建に携わっていた実業家、根津氏が経営に加わったのです。彼の投資は1930年蓮田―武州大門間複線電化(直流600V)、1932年貨物線蕨延伸および1933年赤羽延伸を実現し、さらに以前から資本関係のあった王子電気軌道に三線軌条化の上で直通し大塚へ乗り入れることで都心接続(当時の大塚駅周辺は繁華街でした)を果たしました。これによって利用客が増加し、会社は危機から脱出しました。この際、都心乗り入れを記念して社名を武州帝都急行電鉄(以下、帝急)に改称しています。
・経路変更と北進
根津氏の経営参入は、経営方針の変更をもたらしました。根津氏は既に東武鉄道社長として東武日光線の建設などに携わっており、武州鉄道もとい帝急を経路の重複する日光方面に延伸させる訳にはいかなかったのです。その代わり、群馬県南部地域の観光開発を計画していた彼は、東武東上線と接続する東松山を経由して、本庄―伊勢崎間を結んでいた伊勢崎電軌の路線を利用して赤城山へ帝急を延伸することとしました。
1935年、帝急は蓮田で東北本線を、北本で高崎線をオーバークロスし東松山に至る線区の敷設に着工し、これが開通した1938年には東松山―本庄間の建設にも取りかかりました。ところがその完成間近の1940年、根津氏が亡くなってしまいます。東武鉄道の方は彼の長男が社長に就任することで根津家との繋がりが続きましたが、帝急は彼の意志を引き継ぎつつ自社経営に戻ることになりました。
1941年に、伊勢崎電軌と合併した上で東松山―本庄間が開通し本線が全通しました。しかし、この年から日本は太平洋戦争に突入し、帝急もその影響を受けてゆきます。
・戦時統合の影響
1938年に陸上交通事業調整法が施行され、大東急や西武などエリアごとに私鉄の統合が進められましたが、同エリアである東武と帝急は統合されませんでした。これは、まず陸上交通事業調整法はもともと戦争による国家統制ではなく、乱立していた交通事業者の過度な競争や疑獄事件を防ぎ公正な経営を守るための法律であり、施行時に経営者が同じで競争する可能性のなかった東武・帝急の両社は統合する必要性もなかったことが理由に挙げられます。また、統合するとあまりにも路線の規模が大きくなり、並走する国鉄線を脅かすのではないかという懸念もあったと言われています。
この陸上交通事業調整法は帝急にとって利点もありました。前述した伊勢崎電軌がこの法律によって統合されることになったため、買収する手間がなくなったのです。また同法律により、総武鉄道大宮―柏―船橋と、関宿鉄道野田町―関宿が帝急に統合され、それぞれ帝急野田線、帝急関宿線としました。
・戦後復興と再解体
戦争が終わると、戦災補償として国鉄63系電車が入線しました。これに伴って、帝急では路線設備の改修を行いました。戦前、戦時中は東京市電(もと王子電気軌道)に乗り入れるということもあり単行や2両編成程度での運行だったため、大型の63系の導入に際して車両限界などに関する改良工事が必要だったのです。ですがこれによって、高度経済成長に対応できる輸送力増強を達成しました。
また、戦時統合された鉄道の再解体がされるようになると、東武と帝急は協議の上、もと総武鉄道区間である野田線大宮―柏―船橋を東武に移管することとしました。ただし、関宿線野田町―関宿はそのまま帝急の管轄とし、鉄道空白地帯を埋めるかたちで武州大沢(現:北越谷)、東川口まで延伸して帝急本線と接続することとしました。これは1950年に開業しました。
また、かねてより宇都宮乗り入れを希望していた帝急は、半未成線となって赤字が続き東武が売却先を探していた熊谷線に目をつけ、宇都宮行き列車の東武線乗り入れを条件にこれを買い取り、藤岡新線を敷設して東武日光線、東武宇都宮線に直通することとなりました。建設は、熊谷線東松山―熊谷、妻沼―西小泉の延伸工事および既存区間の再整備を東武が(注:東武は熊谷線の全通に否定的でしたが、これは運営面を問題視したためで、建設費は苦にならないとしていました)、館林―藤岡の新線建設を帝急が行うこととし、運営はどちらも帝急が担当することとなりました。こちらは1951年にそれぞれ開通しています。
・高度経済成長期の開発
高度経済成長期に入ると、沿線の宅地開発とともに赤城山の観光開発が始まりました。開発は東武と協力して行われることになり、東武は前橋―赤城山頂―桐生の観光ルートを、帝急は伊勢崎から南側山腹の赤城温泉までの路線を開拓することとしました。東武側のルートはロープウェイ、ケーブルカーを整備し1957年に全通しましたが、帝急側は輸送力の確保と厳しい地形的制約に対応すべく登山鉄道を採用したため建設に時間がかかり、東武に遅れること5年、1962年に開業に至りました。なお、伊勢崎から登山鉄道起点の赤城山口までの赤城線は1958年に開通しており、この時特急列車の運行を開始しました。
・観光事業の成功と沈静化
赤城山の観光開発は、東武と帝急で明暗が分かれました。東武の開発したルートは前橋―赤城山頂―桐生でしたが、都心からの所要時間が桐生側の東武赤城駅までより国鉄前橋駅までのほうが圧倒的に短く、旅行客の多くは前橋―赤城山頂を往復する行程を取ったのです。そのため赤城山観光に東武を利用する旅行客は少なく、山頂から桐生方面へ抜けるケーブルカーもわずか10年で廃止となってしまっていました。
一方、帝急側の赤城温泉開発は成功していました。バスなどを何度も乗り継がなくてはならない山頂ルートと違い、都心から乗り換え一回で行ける手軽さが理由に挙げられるでしょう。温泉以外にも美術館などの誘致や公園、トレッキングルートの整備などを行っていたことも功を奏したようです。
こうして観光輸送が増加していましたが、1973年にオイルショックが発生し高度経済成長が終わると、そうした開発は一時沈静化していきました。
また1972年、既に小規模化していた都電大塚乗り入れが、赤羽―王子廃止により終了となり、新たに建設される地下鉄線に直通することになりました。1984年にはやはり規模が小さくなっていた貨物列車の運行を、国鉄の貨物輸送体系の変更の影響を受け休止するなど、事業の縮小も行われるようになりました。
・バブル景気の投資
1986年頃から、日本はバブル景気に突入しました。世間では様々な不動産開発が行われるようになりましたが、帝急はそういった開発事業はあまり行いませんでした。代わりに、新型車両の大量導入や老朽化した設備の再整備などのかたちで投資をしました。その中でも特に大きなものは、赤羽―浦和大門の複複線化です。これは、1991年に開通する営団南北線との相互乗り入れに向けたもので、線路容量の確保とともに緩急分離による速達化を目的としました。複複線化は1989年に完成し、予定通り1991年から南北線との直通が始まりました。
・新世紀突入とこれから
2000年に帝急本線、営団南北線と東急目黒線との乗り入れが始まり、都心縦貫を成し遂げます。そして21世紀に入ると開発や整備もようやく落ち着き、今に至ります。現在は関宿線野田市―関宿の複線化事業が進められており、関宿線沿線の宅地開発などが計画されています。

年表
1910年 中央軽便電気鉄道に対し川口―宮ヶ谷塔(現在のさいたま市見沼区、東武野田線七里駅と岩槻駅の中間地点付近)の鉄道敷設免許交付
1911年 社名を中央鉄道に改称し創立
1912年 川口―岩槻の敷設認可下付
1913年 岩槻―蓮田―忍町(現在の行田市)の鉄道敷設免許交付
1914年 岩槻―蓮田―忍町の敷設認可下付
1919年 社名を武州鉄道に改称
1924年 本線岩槻―蓮田、開業
1927年 経営に根津氏が加わる
1928年 岩淵(赤羽駅旧駅。現在の赤羽岩淵駅と同位置)―鳩ヶ谷および蕨―鳩ヶ谷の鉄道敷設免許交付
同年 本線武州大門(現:浦和大門)―岩槻、開業
1930年 武州大門―蓮田、複線電化
1932年 貨物線蕨―鳩ヶ谷、開通
1933年 本線赤羽―武州大門、開業、および王子電気軌道大塚―赤羽に乗り入れ。これと同時に社名を武州帝都急行電鉄に改称
1934年 蓮田―北本―東松山の鉄道敷設免許交付
1935年 蓮田―行田の鉄道敷設免許取消
1938年 本線蓮田―北本―東松山、開業
同年 東松山―本庄の鉄道敷設免許交付
1940年 総武鉄道、関宿鉄道と合併し、それぞれ野田線、関宿線とする
1941年 本線東松山―本庄、開業、および伊勢崎電軌と合併し、これを本線とする
1946年 本線大型車両対応化工事。構造物改修、線形改良および架線電圧昇圧(600V→1500V)を実施
1947年 旧総武鉄道区間を東武鉄道に移管
同年 東川口―野田町の鉄道敷設免許交付
1948年 館林―藤岡の鉄道敷設免許交付
1950年 関宿線東川口―野田町、開業
1951年 熊谷線東松山―熊谷―西小泉、藤岡新線館林―藤岡、開業
1954年 伊勢崎―赤城山口の鉄道敷設免許交付
1955年 赤城山口―赤城温泉の鉄道敷設免許交付
1958年 赤城線伊勢崎―赤城山口、開業
1962年 赤城山口―赤城温泉、赤城山交通鉄道線として開業
1972年 東京都電車王子―赤羽の廃止に伴い、当該区間への直通運転休止
1975年 支線大型車両対応化工事。構造物改修、線形改良および架線電圧昇圧(600V→1500V)
1984年 貨物営業休止
1988年 貨物営業および貨物線蕨―鳩ヶ谷、廃止
1989年 本線赤羽―浦和大門、複複線化
1991年 営団南北線開業、これと直通運転を開始
2000年 営団南北線を介して東急目黒線との直通運転を開始
2016年 関宿線野田市―関宿、複線化(予定)

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