ここから本文です
ナトリウムの架鉄ブログ
※このサイトの内容はフィクションです

書庫全体表示

記事検索
検索
コラム:利用者に愛される帝急
帝急のモットーは「また乗りたいと感じさせる路線づくり」である。JR高崎線と並走し競争している帝急は、利用者が「あえて帝急を選んで使う」ような姿勢を重視してきた。車両内装の居住性を高めたり、確実に座って通勤できるライナー列車を多く設定しているのもこのためだ。またそうでなくとも、丁寧な応対や災害時などの迅速な運転再開も利用客からは好評で、帝急はとても愛されている鉄道だと言えよう。
こうした環境にはどのような由来があるのだろうか、競争相手の高崎線の状況とも絡めながら解説してみよう。

〇戦前の状況
開戦直前に伊勢崎までの本線が全通した帝急だが、当時は高崎線と競争する気はほぼなかったと見られる。帝急は長距離運行にはあまり向かない600V直流電化の電車運転であったし、列車も単行や2両編成がほとんどだった。急行運転はしていたが、輸送の目的としては「最寄りの国鉄線への接続」という意味合いが強かったと言える。伊勢崎へ延伸したのは群馬県南部の開発目的だったが、これもまだまだ手がつけられていなかった。つまり、帝急は高崎線と互角に競いうる力をまだ持っていなかったのである。
帝急がそんな状況下に置かれていた頃、日本は太平洋戦争に突入したのだった。

〇戦後の形勢変化
戦後帝急は、1500V昇圧及び20m級車両の入線により輸送力の大幅な増強を成し遂げ、従来の状況が変わり始めていた。高崎線に匹敵する大量輸送が可能となったのである。とはいえ、都心へのアクセスや所要時間は、高崎線には遠く叶わないものであった。
ところが、高度経済成長期の終わり頃から、帝急は高崎線から利用客を奪い始める。というより、正確には「利用客があえて帝急を使うようになった」のだ。
そう、時は1970年代、「国鉄不信」の時代である。

〇高崎線の劣悪環境
1970年代に入る頃から、国民は国鉄に対し不信・不満を抱くようになっていた。利用実態を全く考慮しない本社、職員の横柄な態度、そして度重なるストによる運休…そしてその中でも、高崎線は特に環境が劣悪であった。ラッシュにも関わらず運用されていたのは2扉の急行形電車で、これにより慢性的な遅延が常態化しており列車内の混雑も酷かった。こういった状況から高崎線では暴動事件(上尾事件)が起きるなど、環境は劣悪であった。

〇その頃の帝急
一方、帝急は対照的に安定した列車の運行を続けていた。帝急の労使関係は当時から良好で、ストライキによる運休などは起こり得ないことであった。また、当時の帝急の主力車両は片側4扉の国電63系割当車と、扉を両開きにした3000系だった。毎日遅延している上デッキ付き2扉の急行形車両にすし詰めにされる高崎線と、毎日ほぼ平常運行で都心の国電と同じ車両がやって来る帝急、旅客がどちらを選ぶかは明らかであった。…国鉄形車両同士比べられるのは高崎線にとっては皮肉なことではあったが。
ともかく、このような経緯で帝急は利用客を獲得したのであった。

〇方針の決定
1970年代に利用客が急増した帝急は、高崎線と競争していくことを決め、その戦略として現在のモットーに近い「お客様が選んで利用してくださる路線環境の形成」というように定めた。そしてその具体的な内容として、「お客様に対する『愛』を常に心がける」としたのである。いち大手民鉄の経営計画に「愛」の文字が登場したことは当時話題になった。
この方針は年々受け継がれ、現在では会社全体のモットーという形で残っているのだ。

〇内外の評価と旅客からの評判
この経営方針は世間にはおおむね称賛をもって受け入れられたが、まだ経営が安定していない時期であったため、専門家や社内からは「浮かれすぎではないか」「経営計画としては不相応」などの意見が聞かれた。とはいえ、あくまで会社の方針としての考えとして見れば評価に値するものだとされ、旅客の間でも好感とともに話題となった。この評判じたいも、帝急のイメージアップに一役買ったと思われている。

〇現在の様子
この方針、モットーに基づいて帝急は経営を続けてきた。現在では沿線開発も進み競争は死活問題ではなくなってきているものの、先述の通り車両内装や旅客対応などに「利用者に対する『愛』」が見られる。この体制は、周辺環境が大きく変化しない限り今後も続いていくだろう。

コラム:関宿線の歴史

コラム:関宿線の歴史
帝急関宿線は、本線と接続する東川口から東武本線北越谷、東武野田線野田市を経由して千葉県野田市関宿に至る支線である。
この路線は陸上交通事業調整法のもと1940年に帝急に編入されたものであるため、それまでは別個の独立した鉄道会社「関宿鉄道」として営業していた。ここではその関宿線の歴史について記述する。

〇輸送転換の危機
関宿町は元々城下町であったが、江戸時代初期の利根川東遷により利根川と江戸川の分岐点となったことから、水運の要衝地として発展した。江戸時代後期には廻船問屋が建ち並ぶようになっていたという。
ところが明治時代に入ると、貨物輸送の主軸は水運から鉄道に移り変わっていく。これにより輸送の要衝としての地位の低下を危惧した関宿の廻船問屋らは、千葉県営鉄道(1911年開通、のちの東武野田線)が野田の醤油醸造組合により誘致されたことに触発されて、自らの手で鉄道を敷設することを決意する。1911年のことであった。

〇敷設計画の策定
貨物輸送を行うことと資金の規模から、最寄りの省線に接続することが前提条件となった。距離的にみれば東北本線が最も近いが、関宿からでは利根川か江戸川に架橋する必要性が生じてしまう。そこで、既に野田町から常磐線柏までを結んでいた先述の千葉県営鉄道に乗り入れて省線と接続することとなった。この方針により、路線は関宿から利根川沿いに進み野田町へ至るルートが決定された。

〇開通と営業・経営
1912年に敷設認可が下りた関宿鉄道は特に支障なく建設が進められ、1913年9月に開業した。計画当初は貨物輸送のみの予定であったが、開業時は旅客営業も同時に開始された。動力は蒸気で、木造客車と無蓋貨車の貨客混合列車が主に運行されていたようである。軌間は省線および千葉県営鉄道に合わせて1067mmで、軽便鉄道法に基づいていた。社長には京成電鉄の本多氏を招聘し、営業成績は貨客ともに順調に伸びていった。経営は本多氏により、もと千葉県営鉄道の北総鉄道(1922年創立)とほぼ一体的に行われていたが、株主の合意が得られなかったため合併には至らなかった。その後本多氏が双方の社長職を退くと、それぞれ独自の体制に変化していった。

〇20年後の合併
総武鉄道(1929年北総鉄道から改称)と関宿鉄道は、その当初から乗り入れをしながら合併することなく経営を続けていたが、1938年に陸上交通事業調整法が施行されるとその状況にも変化が訪れた。二社はともに武州帝都急行電鉄に吸収されることとなったのだ。これによって1940年、関宿鉄道と総武鉄道はそれぞれ帝急関宿線、帝急野田線となった。
余談であるが、関宿鉄道、北総鉄道、そして帝急の前身である武州鉄道はみな、初期に京成系の本多氏が経営に携わりながら、後に東武の根津氏系になった点が共通している。

〇戦後の延伸
太平洋戦争が終わると、帝急と東武は協議の上、路線網を再編することとなった。この結果、帝急の野田線は東武に、東武の熊谷線は帝急に移管することが決まったが、「支線の支線」であった関宿線の処遇が問題になった。そこで帝急は、自社管轄のまま関宿線を南に延伸し、北越谷で東武本線をオーバークロスして、元荒川を渡り帝急本線東川口へ接続することとした。新規区間は複線高架で、距離的に見ても延伸というより新線建設というべきものであった。この線区は1947年に敷設免許が下付され、用地取得と高架橋建設のためやや時間がかかったものの、1950年に開業した。

〇通勤路線へ
東川口から本線に接続した関宿線は、本社による沿線開発もあって利用客が急増した。そしてその多くは、都心へ向かう通勤目的の定期券利用客であった。特に延伸新設区間は、いわゆる「鉄道空白地帯」であったため、関宿線はこの地域での大幅な利便性向上をもたらしたのだ。
この結果、関宿線利用客からは長年にわたって本線との直通運転を希望する声が上がるようになった。が、野田市以北が単線であること、路線設備の問題で速達列車の設定ができないことなどから、本線直通列車のダイヤは組めないとして帝急本社は否定的だった。しかし2012年、帝急は関宿線沿線の開発事業に取り組むことを決定し、その第一段階として関宿線の大規模改修を行うことを発表した。2016年完了予定のこの改修工事により、野田市以北の複線化および待避設備の設置が実現する見込みで、現在試験的に設定されている本線―関宿線直通列車の増便の計画もある。これによって、関宿線は帝急にとってより重要な路線になっていくと見られている。
コラム:帝急の都心乗り入れ
帝急は東武とともに、山手線に接続していない関東大手私鉄として知られている。しかも、東武の起点である浅草は古くからの繁華街であり都心として有名だったが、赤羽は宿場町でもなく都心とは言い難い。つまり、帝急は「都心に乗り入れていない唯一の大手私鉄」ということになる。なぜ帝急は都心に乗り入れることができなかったのだろうか、そしてその弊害はないのだろうか。

〇起点は赤羽ではなく「岩淵」
帝急の前身である武州鉄道は、最初こそ「北千住を起点に日光まで結ぶ」と豪語していたものの、現実的な落とし所として1926年の時点で起点を赤羽駅北方の岩淵にすると決定していた(この年に岩淵までの鉄道敷設免許の申請をしている。1928年認可)。岩淵は日光御成街道の最初の宿場町であり、室町時代から発展している箇所であった。つまり、当初乗り入れた岩淵は、都心とは言えないかも知れないが、東京側にある栄えている「街」ではあったのである。

〇幹線鉄道への接続
岩淵宿の南方にあった赤羽は、もともとは単なる集落に過ぎなかったが、1885年に日本鉄道により現在の東北本線から品川に向かう路線(後の赤羽線)の分岐点として駅が開設されたことで鉄道交通の要衝として認識され始めていた。
帝急もこれを考慮し、分岐線を敷設して一部列車が赤羽駅に直接乗り入れるようになった。とはいえ、赤羽駅と岩淵駅は非常に至近であり、ほとんど同一駅の扱いであったようである(帝急の「岩淵駅」を王子電気軌道側では「赤羽駅」と呼称していたなど)。ちなみにこの分岐形態は、軌道が廃止され地下鉄直通に転換した現在も引き継がれている。

〇王子電気軌道への乗り入れ
帝急は岩淵まで通じると、王子電気軌道への直通運転を開始した。これは馬車軌間(1372mm)であった王子電気軌道線内の該当区間を三線軌条化した上で、赤羽から王子を経由して大塚駅まで至るものであった。当時の大塚駅周辺は駅前に白木屋デパートがあるなど比較的栄えている場所であり、「繁華街」と言える街だった。つまりこの1933年時点で、帝急は「都心乗り入れ」を果たしたと言うこともできる。

〇戦後の新線計画
太平洋戦争後、日本は高度経済成長に突入し、輸送量が急激に増加する。大型車両でこれに対応していた帝急は、もはや路面電車に乗り入れることなど半ば不可能になっていた(複電圧対応の専用車両が用意され直通運転は続けられたが、輸送力はかなり小さかった)。このため、戦後帝急では新たな都心乗り入れの可能性が模索されるようになる。
だが、この計画策定は難航した。戦前は農村で見向きもしなかった池袋は他社の投資により大きく成長していたが、かつての日本鉄道線はとうの昔に国有化されており、赤羽から池袋に向かうことは新線建設はおろか直通の形でも不可能だった。巣鴨や田端などへの乗り入れも創案されたが、いずれも国鉄線との並走による免許取得の至難や用地買収の困難が見込まれたため採用されることはなかった。
唯一計画に至ったのは、鳩ヶ谷で分岐し舎人町を通って日暮里方面を目指すルートであった。既存路線との競合もなく、道路上に高架で建設すれば用地取得の問題もないと考えられた。しかし、高架橋と荒川・隅田川の架橋のため建設費が莫大になると試算され、日暮里駅周辺の用地問題も明らかになり、この計画も廃案となってしまった。なお、舎人町から日暮里に至る鉄道は2008年に新交通システムの日暮里・舎人ライナーが開業している。

〇「都心乗り入れ」の終焉
とはいえ帝急は、規模を縮小しつつも大塚乗り入れを続けていた。帝急と都交通は特認を受け、併用軌道で20m車2連の直通列車を運行していた(本来は軌道運転規則により編成長は30mまでとされている)。ところが、高度経済成長期後期からモータリゼーションの波を受け都市交通が見直され始め、都電自体が地下鉄に取って変わられることになる。再末期まで残っていた帝急乗り入れ区間の赤羽線赤羽王子間も1972年に廃止となり、直通運転は終了、帝急の「都心乗り入れ」はここに終焉を迎えた。この後営団南北線との乗り入れを開始する1991年まで、帝急は山手線と接続することがなかった。

〇都心乗り入れの意義とは
現在、帝急の起点は赤羽である。地下鉄直通列車を除いては、都心に乗り入れる列車は無い。だが、帝急は大手私鉄の名に恥じない利用客数を誇っている。この理由はなんだろうか。
かつて、鉄道路線網のまだ未発達な時代、自社の手で繁華街に都心口の駅を設けることは非常に有意義なことであった。しかし、官民ともに路線が張り巡らされた現在、重要なのは一つの繁華街に乗り入れることではなく、都心の各所からアクセスできる「ターミナル」に乗り入れることであろう。現に、関東大手私鉄の各社が乗り入れている山手線接続駅は、それぞれ山手線以外の路線も乗り入れているし、東武に関しては他社線4路線が乗り入れる北千住というターミナルを有している。そのように考えると、帝急の起点である赤羽は、山手線東西縁にそれぞれ向かう短距離、長距離電車計4路線が乗り入れる紛れもない「ターミナル」であり、都心各所とのアクセスがよく利便性が高いと言えるのだ。
つまり、帝急は確かに都心に乗り入れることは叶わなかったが、関東大手私鉄の必要条件である「ターミナル乗り入れ」はその当初から果たしている。そしてそのことによって、帝急は大手私鉄足り得ているのである。
赤:特急停車駅
橙:快速急行停車駅(赤羽-滑川:特急停車駅に停車)
濃黄:ライナー停車駅(滑川-伊勢崎:快速急行停車駅に停車)
薄黄:急行停車駅(赤羽-滑川のみの運行)


本線

基本データ
区間:赤羽/赤羽岩淵―伊勢崎
営業距離:93.5km
駅数:62(赤羽と赤羽岩淵は同一駅扱い)
電化設備:直流1500V
軌間:1067mm
線数…
(赤羽/赤羽岩淵―)舟戸―浦和大門:複複線
浦和大門―伊勢崎:複線

駅一覧
◎特急停車駅
〇快速急行停車駅
◇ライナー停車駅
△急行停車駅
赤羽◎/赤羽岩淵
舟戸△
川口元郷
南鳩ヶ谷
鳩ヶ谷◇
新井宿
神根
行衛
東川口◎
下大門
浦和大門△(武州大門)
埼玉スタジアム
浦和野田(武州野田)
笹久保
浮谷△
真福寺
岩槻太田(岩槻)
岩槻◇(岩槻本通)
(岩槻北口)
北岩槻
河合
馬込
蓮田◎

伊奈◇
北伊奈
記念公園(羽貫)
内宿△
小針領家
東加納
加納
北本◎
武州高尾
妙音寺
荒川向
新田西
大串
吉見△
山崎町
五領町
東松山◎
松山町
羽尾
滑川〇
北滑川
吉田
古里
西古里
本田
永田〇
花園
新用土
松久〇
北美里
本庄早稲田(南本庄)
本庄◎
本庄中央
田中
山王堂
(川向)
富塚〇
(除ヶ)
(山王)
広瀬
上泉
伊勢崎◎
・赤羽岩淵で地下鉄南北線と乗り入れ。区間は日吉(東急目黒線)〜目黒〜赤羽岩淵〜滑川。赤羽と赤羽岩淵は同一駅扱いで連絡通路もあるが、乗換には不便なので隣の舟戸が接続駅となっている。
・赤羽/赤羽岩淵〜浦和大門は複複線。ただし、緩行線は赤羽岩淵、急行線は赤羽と乗り入れ駅が分かれているため(一部転線する列車もあり)、実際に複複線の様相を見せるのは緩急接続駅である舟戸から。またこのため浦和大門で運行パターンが分かれる。
・車両基地設置駅は滑川。そのため滑川で運行形態が分かれ、特急などの一部列車を除いては直通する列車はほぼない。
・一部の優等列車は伊勢崎で赤城線に直通。
・一部の優等列車は東松山で熊谷線に直通。
・赤羽〜岩槻は岩槻街道に並走
路線概況
赤羽は高架駅、赤羽岩淵は地下駅。JR東北本線から離れて荒川手前で合流し複複線となり、橋梁直後の舟戸は緩急・方面別接続駅。この後地上線が続き、東川口では切通の武蔵野線の上を通る。岩槻で開通時から高架の東武野田線をくぐり、その後蓮田では東北本線を盛土でオーバークロスする。ここから進路を西に取ってしばらく高架化区間に入り、高架のまま東北新幹線の、内宿で上越新幹線の高架橋をくぐって、北本で高崎線を盛土で越えてから地上に降りる。この後しばらくは地上線が続き、東松山を過ぎ北西を向くと標高が上がってくるため緩やかな勾配がある。滑川から永田手前まで切通で丘をクリアし、永田で秩父鉄道を盛土でオーバークロスして、永田から松久付近まで再び切通区間。上越新幹線をくぐる手前で北へカーブし、本庄で高架橋で再び高崎線を越え、そこから利根川の橋梁まで高架区間。川を渡って地上に降りるが、伊勢崎駅周辺は地下化されている。地上時代は本線ホームが地上にあり、両毛線を越えなければならない赤城線は手前で分岐され盛土上にホーム
が設けられた変則的な構造だったが、立体交差化事業により地下駅のターミナルとなった。赤城線は地下線で両毛線をくぐったのち再び地上に出る。


赤城線

基本データ
区間:伊勢崎―赤城山口
営業距離:16.6km
駅数:9
電化設備:直流1500V
軌間:1067mm
線数…全線単線

駅一覧
◎特急・快速急行停車駅
伊勢崎◎
北伊勢崎
波志江
二之宮町
荒子町
大胡
堀越町
柏倉町
赤城山口◎
・本線から優等列車が直通。
・赤城山口で赤城山交通鉄道線と連絡。
路線概況
地下の伊勢崎を出て両毛線を過ぎると地上に出る。ちなみに地上時代は盛土でオーバークロスしていた。しばらく地上線が続くが、大胡で上毛電鉄を越えるため盛土区間に入る。その後は地表の高度が上がってくるため盛土がなくなるまで路線自体は平坦。地上になると高度を上げていき、赤城山口に達する。伊勢崎―赤城山口の標高差は約350m。


赤城山交通鉄道線

基本データ
区間:赤城山口―赤城温泉
営業距離:
駅数:6(信号場:1)
電化設備:直流1500V
軌間:1067mm
線数…全線単線

駅一覧
赤城山口
赤城ドイツ村
中之沢
苗ヶ島
忠治温泉口
「三夜沢信号場」
赤城温泉
・原則的に線内折り返し各駅停車のみの運用(帝急赤城線直通伊勢崎発着の運用が早朝深夜に数本ある)
路線概況
赤城山口を出ると、まもなく観光施設「赤城ドイツ村」の敷地内に入る。この区間は施設の敷地を横切るように走っているが、路線自体を「ドイツ村」の風景の一部に組み込むことで解決している。そしてその中に、赤城ドイツ村駅が位置する。改札と施設の入場口は駅舎に一体化されており、ドイツ村の世界観を維持している。施設の敷地を出てしばらくすると、中之沢駅に到着する。周囲はまだ農耕地だが傾斜がきついため、ここでスイッチバックを行う。その後赤城山の山体にアプローチし、苗ヶ島駅を過ぎるとトンネルを通って忠治温泉口駅に着く。これを出ると尾根を横切るトンネルに入り、その先にはループ線があり勾配を登っていく。一周して再び先ほどと同じ尾根にトンネルで入ると、まもなくトンネル内に三夜沢信号場が位置する。その後トンネルを出るとすぐに赤城温泉駅に到着する。


熊谷線

基本データ
区間:東松山―西小泉
営業距離:27.6km
駅数:16
電化設備:直流1500V
軌間:1067mm
線数…全線単線

駅一覧
◎特急停車駅
◇ライナー停車駅
東松山◎
松山中央
市ノ川
北松山
大谷

吉所敷
手島
熊谷◎
上熊谷
北熊谷
大幡
武州奈良
田島
妻沼◇
丘山
大泉
西小泉◎
・優等列車が本線から直通。
路線概況
東松山で帝急本線から分岐した熊谷線は北へ進み東松山市を抜けて、熊谷へ向かう。進路を一度西へ向けて秩父鉄道を越え、東武時代の区間に入る。上熊谷を過ぎると北へカーブし、妻沼を通過してまっすぐ西小泉に向かう。


藤岡新線

基本データ
区間:館林―藤岡
営業距離:11.4km
駅数:7
電化設備:直流1500V
軌間:1067mm
線数…全線単線

駅一覧
◎特急停車駅
館林◎
西館林
当郷町
四ツ谷町
籾谷
細谷
藤岡
(栃木◎)
(東武宇都宮◎)
・優等列車が本線から直通。
・直通列車用の連絡線という性格が強く、線内緩行列車は少ない。
路線概況
館林から南に出た路線は東へ曲がり、市街地に合わせて北へスライドする。しばらく東へ進み、城沼の湖畔で北東に進路を取る。そこからは田園地帯をおおよそまっすぐ進み、最後に北へ曲がって東武の線路に方向を合わせて藤岡に到着する。


関宿線

基本データ
区間:東川口―関宿
営業距離:34.4km
駅数:23
電化設備:直流1500V
軌間:1067mm
線数…
東川口―野田市:複線
野田市―関宿:単線

駅一覧
◇ライナー停車駅
東川口◇
北戸塚
西越谷
神明町
北越谷
東大沢
大吉
松伏◇
松葉
北吉川
上花輪
野田市◇
新野田
東野田

北船形
北野田
木間ヶ瀬
坂東向◇
古布内
桐ヶ作
平成
関宿台町
関宿◇
・本線からライナー列車「リバーライナー」が直通(一往復のみ)
・野田市―関宿は単線。交換設備は全駅に設置。
路線概況
東川口で帝急本線から離れた関宿線は、まもなく高架に上がる。東へしばらく進むと、元荒川を越えて北越谷で東武本線をくぐる。ここはもともと地上を東武線が走り帝急関宿線がオーバークロスしていたが、東武の高架化で双方とも高架橋になり、現在は東武の方が高所を通っている。ここを出ても高架区間は続き、松伏を通って野田市へ抜けると東武野田線を越えてから地上に降りる。ここから単線区間に入り、北西に進路を取って野田市内を進む。やがて利根川沿いになり、そのまま関宿に至る。
武州帝都急行電鉄株式会社
・業種
運輸業(鉄道事業)
・上場状況
東証一部上場
・筆頭株主
みずほ銀行 など
・代表
四谷修治 代表取締役社長(2004年就任)
・本社所在地
埼玉県蓮田市

武州帝都急行電鉄は、東京都、埼玉県、群馬県、栃木県、千葉県において事業を展開する鉄道会社である。

社名と呼称について
正式な社名は「武州帝都急行電鉄」である。これは1933年に定められたもので、「電気鉄道」ではなく「電鉄」が正式。当時の路線は全て地方鉄道法に基づく普通鉄道であったが、延伸区間が軌道法準拠となる可能性があったため、「鉄道」の表記を避けている(実際に1941年に軌道線を自社の本線としている)。公式な略称は「帝急」だが、沿線利用者からは「武州線」と呼ばれることも多い。また、メディアなどで「武州帝急」や「帝都急行」などの呼称が用いられることもある。なお、本記事では「帝急」に統一する。
ちなみに、京王帝都電鉄や帝都高速度交通営団が改称した現在、鉄道事業者としては唯一「帝都」の名を関する企業である。

概要
帝急は東京都市圏の大手私鉄の一社である。90kmを越える長大な本線と4本の支線を有し、通勤輸送の他、赤城山への観光輸送も盛んである。宇都宮などに対する都市間輸送も行っている。

主な関連企業
・東武鉄道
帝急と同じく北関東の大手私鉄。直接的な資本関係はほぼない(同じ芙蓉グループではある)が、双方とも会社創立まもない頃に同一の経営者がついており、兄弟のような存在。近年でも開発などで協力することが多い。
・赤城山交通
赤城山周辺で運輸業を展開する、観光開発に伴って設立された帝急の完全子会社。1956年創立。赤城山口から赤城温泉を結ぶ登山鉄道と、その沿線や赤城温泉―大沼間の路線バスの運行を行う。
・帝急バス
帝急沿線にて路線バスの運行などを行う、帝急の完全子会社。駅周辺の路線のほか、沿線から羽田空港や舞浜への高速バスの設定もある。1992年に帝急本社バス事業部から分社化。
・帝急百貨店
帝急グループの主要企業の一つ。全国の都市で百貨店を経営している。帝急沿線では赤羽、岩槻、伊勢崎にあり、それぞれ駅に直結している。
・秋津島観光社
国内を中心に事業を展開する大手旅行業者。もともとは全くの別会社だが、近年帝急が株式の取得に乗り出しており子会社化を進めている。

事業所
本社・展示館
帝急本社は埼玉県蓮田市に位置する、鉄筋コンクリート製5階建てのビルにある。オフィスは関係者以外立入禁止だが、ビルの1階と2階一部は「帝急展示館」という博物館になっており、様々な資料や静態保存車両などを見学することができる。

乗務管区
帝急では列車の乗務員(一部特急に乗務する車内販売員を除く)は乗務管区という事業所に所属する。帝急の乗務管区は以下の通り。
・滑川乗務管区(本線、熊谷線)
・滑川乗務管区藤岡出張所(藤岡新線)
・鳩ヶ谷乗務管区(本線)
・関宿乗務管区(関宿線)
・赤城乗務管区(赤城線)

車両施設
帝急の車両関連施設は以下の通り。
〇全般検査設備を有し車両が所属する施設
・滑川車両基地(本線、熊谷線)
・鳩ヶ谷車両工場(本線、関宿線)
〇月検査設備を有し車両が所属する施設
・滑川車両基地藤岡出張所(藤岡新線)
・赤城車両工場(赤城線)
〇検査設備のない施設
・関宿留置線(関宿線)
・浦和大門留置線(本線)
・伊勢崎留置線(本線、赤城線)
・赤羽留置線(本線)
・館林留置線(藤岡新線)

営業路線
帝急は鉄道路線として本線、赤城線、熊谷線、藤岡新線、関宿線の5路線を営業している。なお、全て直流1500V電化、軌間1067mmである。
・本線
区間:赤羽/赤羽岩淵―伊勢崎
営業距離:93.5km
駅数:62(赤羽と赤羽岩淵は同一駅扱い)
・赤城線
区間:伊勢崎―赤城山口
営業距離:16.6km
駅数:9
・熊谷線
区間:東松山―西小泉
営業距離:27.6km
駅数:16
・藤岡新線
区間:館林―藤岡
営業距離:11.4km
駅数:7
・関宿線
区間:東川口―関宿
営業距離:34.4km
駅数:23
詳細は「路線」を参照のこと。

車両形式
現在、帝急に在籍する営業用車両は以下の通り。
普通車
・4000系(支線運用)
・4030系(本線運用、支線運用)
・6000系(本線運用)
・2000系(本線運用)
・7000系(地下鉄直通運用、本線運用)
・8000系(地下鉄直通運用)
快速急行車
・5000系(本線快速急行運用、赤城線運用)
特急車
・51系「イージーエクスプレス」(赤城口特急運用)
・52系「ウインドランナー」(宇都宮口特急運用、ライナー運用)
詳細は「車両」を参照のこと。

その他
優等列車
帝急では要特別料金の特急列車を運行している。
・くろび
運行区間:赤羽―赤城山口
停車駅:赤羽、東川口、蓮田、北本、東松山、本庄、伊勢崎、赤城山口
使用車両:51系「イージーエクスプレス」
赤城山への観光輸送を担う特急列車。基本毎時一往復の運転だが、繁忙期は増発する。列車名の由来は赤城山最高峰の「黒檜山」から。

・ひろの
運行区間:赤羽―東武宇都宮
停車駅:赤羽、東川口、蓮田、北本、東松山、熊谷、西小泉、館林、栃木、東武宇都宮
使用車両:52系「ウインドランナー」
東武線に直通し宇都宮に乗り入れる、都市間輸送を行う特急列車。都心から宇都宮までというよりは、東松山や熊谷などの地方都市を結ぶ役割が強い。列車名の由来は「関東平野」の「広野」から。

・オリエントライナー
運行区間:赤羽―東武宇都宮
停車駅:赤羽、鳩ヶ谷、東川口、岩槻、蓮田、伊奈、北本、東松山、熊谷、妻沼、西小泉、館林、栃木、東武宇都宮
使用車両:52系「ウインドランナー」
朝夕のラッシュアワーに運行されるライナー列車で、熊谷、宇都宮方面と結ぶ。原則的に、後述の「オクシデントライナー」と東松山まで併結して運転され、旅客案内上は単純に「ライナー列車」と呼称される。停車駅は「ひろの」や快速急行よりも多い。列車名の由来は「西洋」に対して「東洋」を意味する「オリエント」から。

・オクシデントライナー
運行区間:赤羽―伊勢崎
停車駅:赤羽、鳩ヶ谷、東川口、岩槻、蓮田、伊奈、北本、東松山、滑川、永田、松久、本庄、富塚、伊勢崎
使用車両:52系「ウインドランナー」
朝夕のラッシュアワーに運行されるライナー列車で、伊勢崎方面と結ぶ。原則的に、前述の「オリエントライナー」と東松山まで併結して運転され、旅客案内上は単純に「ライナー列車」と呼称される。停車駅は「くろび」や快速急行より多く、滑川以北は快速急行と同じ停車駅。列車名の由来は「東洋」に対して「西洋」を意味する「オクシデント」から。

・リバーライナー
運行区間:赤羽―関宿
停車駅:赤羽、鳩ヶ谷、東川口、松伏、野田市、坂東向、関宿
使用車両:52系「ウインドランナー」
朝夕のラッシュアワーに運行されるライナー列車で、関宿線に直通し関宿方面と結ぶ。近年新たに設定された列車で、1日1往復のみの運用だが、増便の計画がある。本線と関宿線を直通する唯一の列車。列車名の由来は関宿線沿線の利根川から。

経営・社風
帝急は大手私鉄としてそれなりに安定した経営を保っている。主な収入源は通勤通学の定期券収入と繁忙期の観光収入。ただ、対都心輸送に関しては運賃、所要時間共に並走するJR高崎線に劣ると言わざるを得ず、競争のため帝急は快適性を重視している。車両の内装への気の遣いようは関西私鉄のそれに近いと言われる。またそれだけでなく、「また乗りたいと感じさせる路線づくり」を全社員共通のモットーとしており、丁寧できめ細やかな旅客対応を心がけている。このことは利用客にとっての路線への愛着、さらには社員の愛社心にもつながっており、このことから帝急は多方面で高評価を受けている。
また帝急は、京急や小田急同様「ストライキのない私鉄」として知られている。労使関係が良く顕在化するような問題が生じたことはないが、「国鉄/JRと競争するのに内輪揉めしている場合ではない」というのが実情でもある。

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事