まぁのんびり。

おいちょっと…どうすんだ!どうしてくれんだ!

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正直者の御馳走

「目ん玉があ、ぐりんぐりんって回るのね、これもうすっごい。こっちが吃驚しちゃうくらい。そしたら何か言ってぶっ倒れちゃった。大きな男の人なのにね。おっかしくておっかしくて、笑っちゃった。本当面白かったあ」
 にこにこと悪気がない風で幼馴染みが笑う。男としては異様に小さいそいつは物書きをしている為、彼方此方と取材と云う名の小旅行によく出掛ける。何故だか修羅場と云うかなんと云うか、面倒な事に巻き込まれては土産話を持って帰ってくる。それを訳の解らない専門誌や気味の悪い雑誌等に綴っている。儲かるのかって思うがまあ物書き業もそこそこに高級住宅地まで出向いてお暇な奥様方の御料理教室の先生などやらかしている、らしい。実際見たこともないから本当かどうかは知らないがまあ食いっぱぐれる事は無いようだ。実際こいつの作る飯は人様に教えられるくらいには美味い、以前こっちを本業にしたら良いのにと言ったら珍しく検討すると返された。その後こいつの料理本が出版されたがそういう意味じゃない。
「そんな性格でよく奥様方に愛想尽かされないな」
「可愛いって言われる」
「外見だけは?」
「中身も!!」
「そりゃあ良かったな」
信じていないだろと卓袱台をばんばんと叩かれる。
「信じているさ、お前は嘘だけは吐かないからな」
実際作り物の様な土産話はその事実を証明するように、数日後新聞に掲載されている。
「そうだよぼく、嘘だけはぜったい、言わないからね」
膨らんでいた頬が弛緩する。単純な奴だ。気分が良いから今日のおゆはんはぼくが作ったげる、と台所へと向かって行く。美味い飯にありつけるのは良い事だ。テレビでも付けてのんびり待つことにした。

 テレビの音を背に受けながら狭いキッチンで包丁でお肉を切り分ける。日々市民をまもる友人はいつもお肉に飢えているから、今日も沢山お肉を持って訪ねた。
 昔から呆れている風に反応を返しながらも、底ではぼくのことを信頼していることがよくわかる。たまにそれが酷くくすぐったくて敵わないのだ。ぼくもぼくで全幅の信頼と安堵の地として心を寄せている。彼は芯が通っていて折れることは無い。絶対に。
 下拵えは家で済ませて来たから直ぐにおゆはんは完成した。脚の長さが合わないのか床が歪んでいるかわからないけど揺れる卓袱台に外国のお料理を並べる。
「うまそうだ」
「うまいに決まってるんだよ」
「いただきます」
彼はいつも律儀に手を合わせ食事の挨拶をする。続けてぼくも手を合わせた。
「お前はまた、ちゃんと飯を食え。肉を食え」
好物のお肉を掴もうとした直前にお箸を止めてぼくの目の前に置かれている一切れのアップルパイを睨んだ。
「いい加減に飯を食え、お前がまともな食事をしたところを中学以来見ていないぞ」
「食べてるよ、果物とか……野菜とか……のケーキ」
「お前は病気になりたいのか」
「違うよ」
「せめて野菜くらいは食え」
「いいじゃん一応ものは食べてるし」
「そういう問題じゃないだろ生活習慣病になっちまうぞ」
 かつかつと白いご飯を掻き込んでいく。これ以上言っても聞かないと判断したのだろう。聞かないってわかっているのに一定の周期で小言を言われる。余計なお節介も彼なら特別。寧ろ嬉しくなってしまう。

「なあ、さっきのぶっ倒れた男はどうなったんだ?」
テレビの音に被せる様にさっきの話の続きを聞かれた。
「お家に連れて行って開腹したあと還ってったよ」
「そうか、良かったな」
テレビの方を向いて顔は見えないけど何となく嬉しそうに声が弾んでいる。
「実はデザートに杏仁豆腐がありますよ、旦那」
「本当か」
「嘘は吐かないんですよ、ぼくは」
嘘は、とても良くないことだ。何よりも何よりも、いけないこと。それ以外は。
「別に悪いことじゃないよね」
彼は、当たり前だろう、と言ってデザートを頬張った。

妬け跡

 紙の捲る音と時折聴こえる声だけが部屋に響く。久方振りに顔を出した知人は部屋に美術書や雑誌やらを彼方此方に広げ、其れ等をかさついた指でなぞつては息を吐くやうな笑ふ音を溢すのだ。
「何がそんなにも可笑しいのかね」
少しばかり気になつたものだから筆を止めて問ふてみた。さふすると知人もなぞる指を止め、胡乱な瞳で此方を向いた。
「いやあ、別に可笑しいわけではないんですけどね」
薄ぺらいと言ふか半透明な声色で嘯き、そうしてまた微かに笑ふ。
「一体何を見ているんだ、是非とも僕に見せちゃあくれないか」
人といふものは大してその事事態に興味は無くともはぐらかそうとする仕草を見るとつい其の事柄について知りたいといふ欲望が降つて湧いてくるのだ。
「本当に、隠す様な事じゃあありませんよ。ただセンセイが見ても面白くも何とも無いと思いますけど」
重さうな一冊を卓袱台の上迄持つてきて私の右側へ腰を落した。
「ああ、ちゃんと原稿進んでいますね。偉い偉い」
「止したまえ。僕は此れでも君よりずっと年上なのだからもう少し敬ってくれると嬉しいのだがね」
「敬ってるから労ってるんじゃあないですか」
「言葉遊びは仕事だけで充分だ。それで此れがどうかしたのかね僕には唯の絵画にしか見えないぞ」
知人の開いて寄越した頁には抽象的と専門用語では言ふのか何とも形容し難い絵画が悠々たる様相で載つていた。
「これはですねえ、俺が描いた絵達ですよ」
君が、そう繰り返すとそうですよとじつと知人は絵を見詰め始めた。私は数回瞬きをし、今日初めて知人の顔を見た。
「君、絵を描くのか」
「はあ、まあ、仕事ですし、その前に趣味ですよ」
「仕事、君は就職していたのか」
「こう言うのは就職と言うのかわかりませんけどねえ、一応仕事を頂いているならそうなんでしょうか。因みに此の無意味に分厚い本は個展を開いた時のカタログです」
よく彼女が読んでいる雑誌とかにも載つていますよ、と知人は手に握つていた雑誌を美術書の上に重ねて置いた。くしやりとした紙面には幾つもの色彩がうねり、またはぽつりと、時には流れる様に、鮮やかに広がつていた。確か彼のもう一人の知人は大層この絵に御執心だつた気がする。
「綾ちゃんには、内緒ですよ」
薄ぺらい唇にそつと指を当てて笑ふ。
「子供の様な扱いは止せと言っているだろう」
「そんなつもりはないんですけどねえ」
首を傾げると奇抜な色をした髪が肩に掛かるのが見えた。成程。
「常々君の奇抜な格好に疑問を抱いてが此れで合点がいったよ」
「どういう意味ですかセンセイ」
「君の海の如く真っ青なその髪色が僕の様な芸術的関心が薄い凡人には到底理解出来ないと言う事だ」
「海の如くだなんて褒めても何もないですよ」
「君も綾くんと一緒で本当に人の話を聞かないな」
「酷いなあ、ちゃあんと聞いていますよ。只都合の良いところしか拾わないだけです」
「余計に質が悪い」
「ありがとうございます」
「君にはもう何も言うまい」
「それはセンセイ、殺生な」
のらりくらりと遊ぶ様に言の葉を紡ぐ此の知人は掴み所の無い風だ。風に言ふ事等何も有るまい。嗚呼騒がしい。
「センセイったら」
風がざわめいているがなに、直に収まるだらう。手元に置かれた雑誌を捲るとまた、彼の描いた絵が在つた。先程の物とは打つて変わり細密に描かれた美しき少女が花に口付けをしていた。淡い色使いが儚さと可憐さを際立たせている。横で火を付ける音がした。風は煙草の煙を乗せてまた私に呼び掛ける。
「センセイ」
其れには眼もくれず絵の中の少女を見詰める。大人びている風にも見える不思議な少女だ。手にしている花は微かに青色が透け透明感がある。此の世には存在しないであろう少女に思いを馳せる。静かな空間に少女が佇み、日の光を浴びている。何とも神秘的じやあないか。眼を閉じて暫く沈黙しているとじゆう、と何かが焦げた音がした。音の元を見ると少女に焦げついた穴が開いていた。少々驚き知人の方を見やると薄く口が弧をえがく。
「駄目ですよセンセイ。ちゃんと返事しなくちゃあ」
微笑んだ顔がいやに満足気である。
「君、自分の絵に随分酷い仕打ちじゃあないか」
「別に原画は家に有るし雑誌なんて沢山刷られてますよ」
穴が開いた雑誌を掴んで後方に投げた。扱いが粗雑だ。
「センセイが無視なんかするから」
「無視ではないさ、返事をする必要が無いと判断したからだ」
「同義ですよ」
「先程まで静かにしていたじゃあないか、騒がしくなったから口を噤んだんだよ」
「自分から話し掛けた癖に」
「そうだったかな」
 向こうへ行けと手で追い払うと元の場所へとすんなりと戻つていく。そうしてまた違う冊子をぺらりぺらり眺め始め、静寂が水面の様に広がる。手元に残された分厚い本を何となく眺めてから先程知人が居たところへ置いた。中々の重量だ。原稿の続きを、と万年筆を手に取る。年期が入った其れは全く動こうとはせず、紙に一滴の雫が落ちた。ぽつり、黒い飛沫。染みてゆく黒に目を奪われる、筆が進みそうだと動いた矢先。玄関の方で鈴が鳴った。
「はいはい」
まるで己の家の様に玄関へと知人が向かう。暫く玄関先で話声がした後に、二人分の足音が聞こえた。漸く静かになつたといふのに今日はもう仕事が出来なさそうだと小さく溜息をついた。
「せんせいお邪魔します」
「センセイ、綾ちゃんだったよ」
「お茶淹れて来ます」
「俺珈琲がいいな」
「じゃあ手伝って下さいよう」
「いいよ、暇していたし。センセイが構ってくれないから」
「あーせんせい酷いんだあ、祐哉さん泣いちゃいますよう」
「えーん綾ちゃん慰めて」
「君達は本当騒がしいな、さっさと台所へでも何でも行ってくれないか。気が散るじゃあないか」
「どうせ今日はもうやる気無い癖にね。行こう綾ちゃん」
一言余計な事を言い捨て、とんでもなく大きいのと小さいのが並んで部屋を出て行く。何とも滑稽だ。あまりの騒がしさに縁側で丸くなつていた猫君が側へ来てくるりとした眼で私を見た。
「全く、静かなのは君だけだよ猫君」
撫でてやると気持ち良さそうに頭を擦り付け、揺れる尾が焼け跡がついた少女を撫でた。そうしているとまた丸くなりうとうとと眠りに落ちる。其の傍らで少女は未だ微笑みを湛えていた。

爪-壱-

 女子特有の高い声、お昼休みはお喋りの為にあるの。でも私が目で追っている女の子はお友達が楽しそうに話しているのに目もくれずお弁当に夢中になっている。美味しそうに頬張る姿は本当に愛らしいと思うわ、ハムスターみたい。私と一緒にお昼を食べている子は購買で買ったサンドウィッチを口に運びながらぼんやりしている私に声をかけた。
「どこみてるの?」
「賑やかだと思って……」
「ああ、あの子達?いつも騒がしいよね」
そうだよね、と他の子達も口を揃えた。あまり大騒ぎをする様な性格じゃない子ばかりだから疎ましいのかもしれない。
「特に長谷部さん、よく喋るよね、声大きいし」
「元気一杯ですって感じだよね」
「良い人だけどちょっと苦手かも」
長谷部さん、さっきまで見詰めていた子の名が出てすっと気持ちが冷めるのがわかる。それでも微笑みは絶やさないで箸を置き、お弁当をしまう。
「ちょっとお手洗いに行ってくるね」
席を立って教室を出る。長谷部さんはまだお弁当を食べている。彼女の何処が良いってあの可愛らしい爪、だわ。あの小さな指にくっついている小さな爪。粗雑そうに見える彼女の爪は時折綺麗に整えられて細やかなネイルアートが施されていたりする。そのネイルも素敵だけどやっぱりそのままの、桜貝の様な淡い色、つるりとしたフォルムが堪らなく愛しいと思う。
 チャイムが鳴った、お喋りの時間は終わり。女の子達も男の子達も友達の席から離れて自分の椅子に座る。私も誰も居なくなった自分の机回りを確認して教室へ入った。

 綺麗な字、綺麗なノート。黒板写しは美術、先生の声は音楽。退屈な訳ではないわ、でもたまに馬鹿馬鹿しく思えるだけ。こんな事をして何になるのだろう。桜貝の君はうつらうつら舟を漕いでいる。あれで学年内十番台なんて嘘みたいね。ぼんやり彼女を見ていればあっという間に時が経ち、チャイムの音が終わりを告げた。次の授業は進路についてだったかな、まだ一年生よ私達。未来も何も何がしたいのかも決まってないのにこんな性急に選択を迫られても困るわ。適当に書いた手元のプリントを何となしに持ち上げて眺めているとプリントと視界の間に手が差し込まれた。
「書いた?集めるけどいい?」
「長谷部、さん」
「まだだった?」
「ううん……ありがとう」
至近距離で彼女の爪を眺めたのは初めてだった。窓からの光で余計輝いて見えて、とても、そう、神聖な何かを見たような、そんな気がした。長谷部さんはさっさとプリントを回収すると後ろの席へ行き同じ様に手元の紙束に重ねてゆく。印象と違って割りとマメな彼女はよくこうして雑務をこなしている。ああ、貴女は将来何がしたいのかしら。あの指で何をするの。聞いてみたいし、聞いて困らせるような事じゃないのに躊躇してしまう。だって、私そんな風なお話をする程仲良くはないし、何よりも恥ずかしくってどう話し掛けたらいいかわからないのだもの。眩しい窓に目を向けて少しだけ、眉根が下がった。

 家に帰ってからもあの煌めきが忘れられなかった。寝ようとしてもどきどきしてしまってどうやって寝ていたか思い出せない。もっとじっくり眺めていたい、この手で触れて形を確かめてそれからそっと口付けをしたい。綺麗にお手入れして、それからたまにネイルを施すの。あまり派手でないシンプルな、ネイルアート。彼女の爪に合う愛らしい、そんなデザイン。思い描けば描くほどどんなにあの爪がこの手にあれば素晴らしい事だろうと
胸がときめいた。明日こそ彼女に声を掛けてみようかしら。なんて、毎夜決意してみても結局は出来ないのだけど。そう言えば明日は体育がある、あまり夜更かしをしていられない。体が丈夫で無い方なので待ち構える疲労を思ってそっと瞼を閉じ、今日は良い夢がみれそうだと微睡みの中に落ちた。

 なあお。聞き慣れた声に戸を開けた。雨続きで軋んだ入口が厭な音をさせながら、来訪者を迎える。
「なあお」
「やあ綾くん。君は遂に人から猫に転職したのかい。ああ、待ってくれずぶ濡れのまま上がるんじゃあない。拭く物をもってくるから」
「なあお」
「いや、僕には猫の知り合いは居ないし、拭く物は要らないかな」
「すみませえんお願いしますう」
矢鱈鳴き声が似ているのだから質が悪い。大きめの手拭いを渡してやる。なあお。
「また君は下らないことを……」
視線を若い知人に向けると伽羅色の瞳とかち合つた。くるりとしたまあるいまなこが此方を見詰める。なああお、また一鳴き。
「まさか君はその猫を家に上げようだなんて思ってはいないだろうね。いいかい、前にも言ったと思うが僕は猫が嫌いだし、あれるぎいなんだよ。さあ元の場所に返してきなさい」
「せんせい、家のお母さんと同じ事そっくりそのまま言うなんて凄いですね」
「本当に君は人の話を聞かないから困るね。返してこないと入れてあげないよ」
「そんなあ。殺生な事言わないでくださいよう。飼い主は直ぐに見付けるんでその間だけでも」
「駄目だ」
「頑固、偏屈、妖怪眉間皺」
「幼稚な嫌がらせをするんじゃあないよ」
「だってえ」
次の言葉を紡ぐ前に盛大な嚔をお見舞いされてしまつた。嗚呼、何て事だ。
「君は本当に人の頭を悩ませるのが得意なようだね。もういいからついてきなさい、風呂を貸してやろう」
「せんせい、どうしたんですか今日優しいですね」
「風邪をひかれて僕のせいにされたら困るからね。それに君の鼻垂れた醜態を見たくない。さあ、さっさと湯を浴びておいで」
 猫を抱き、浴室へと消える。久し振りの雨の日にのんびりと過ごそうと思つた矢先の事なので多少の苛立ちは許されるだらう。それにしても若き知人はそこまで阿呆ではないと思っていたが違つたのか。ぱきり、万年筆の先が折れる。嗚呼、厭だな。
「お湯いただきましたあ」
若き知人は用意してやつた着替えを着て湯気を出しながら、温い炬燵へ猫と一緒に滑り込んだ。
「あったまりましたあ。あっ饅頭貰い」
炬燵の上に置いておいた饅頭の包みを遠慮なく開けると二つに分けて猫にあたえてやつている。
「せんせい原稿進んだんですかあ」
余計な世話だ。
「せんせいったらあ、聞いているんですかあ」
話を、しなければならない。
「綾くん」
「はあ何でしょう」
「捨て猫なんか拾って、どうするつもりなんだね」
「はあ、だから飼い主が見つかるまでここに置いてもらおうと」
「僕に迷惑を掛けていいとでも思っているのか。いや、今回飼い主が見付かったとしても、だ。次はどうするんだ。また拾ってきて僕に預けて飼い主探しをするのか。君のお母さんは何と言った」
「……捨てられた動物に干渉はするな、餌を与える等という余計な情けは掛けてやるな」
「そうだ。君もわかっている筈だろう。捨て猫の一生に頸を突っ込むなど愚の骨頂だと。君は学生だしそう毎度毎度飼い主探しだってしていられないだろう。それとも理解していなかったのか。だとしたら僕は君に対して相当な過大評価していたようだ」
 煙管に煙草の葉を詰めた。普段はこの詰める作業をやりたがる知人は俯いて猫を指であやしている。火をつけると弛緩した肩がその音で跳ねた。知人は何故か火を怖がるのだがどうにも獣染みている。煙を燻らせると視線がそれを辿り、掻き消えるまで見詰めた後僕を虚ろげに見た。
「だってえせんせい。わかっているんですよう。本当はいけないことだって。でも、どうしても見ない振り、出来なかったんですよう」
言い辛そうに、呟く。僕はただ黙つて聞いている。
「せんせいなら……」
知人は腕の中に居る猫を虚ろ気に見下ろし、あやす手を止め、そしてゆっくりと立ち上がつた。
「ああ、せんせい。すみませんでした。私この子、元の場所に返してきます」
覇気の無い、濁々とした声をあげると未だ激しく打ち付ける雨の中を駆けていく。勝手に僕の傘を引つ掴んで。頭では理解していた。若き知人が悩んで、その末に選んだ答えだと。僕にしか是を問えなくて、訪ねて来た。僕にならわかつてもらえると、良いよと言つてくれると。だが僕は嘘はつけない。知人にとつて良くないことだからそう伝えたまでだ。知人は、放つて置けない、捨てられたもの達を。紫煙が纏わり、鬱陶しくなる。あまり美味く感じない。全く、君は、本当に、仕方の無い。

「僕の傘をこんなところに放り投げていくなんてひどいじゃあないか」
ふなあお。
「おや、僕の傘を拾ったと思ったらとんだおまけがついてきたものだなあ。仕方無い君も連れて帰らなくては」
なあおん。眠たそうに目蓋を下ろすとそのまま僕の腕の中でくたりとして寝入つてしまつた。警戒心の無さが拾い主とよく似ている。知人はもう来ないだろうか。
嘘のように雨が上がった翌日の眩しい光が眼を鈍く刺した。障子は閉めて寝た筈だが。
「せんせい」
君か。人の寝ているところにいきなり入つてくるものぢやあない。
「せんせい、どうしよう、昨日の猫が、あの場所に居ないんですよう。もしかして何処かで死んでしまったのかもしれない」
朝から大きな声をよく出せるものだ。
「どうしよう、どうしよう。私、私がいけなかったんです。全部私が」
ふなあ。やあらかい肢体がのそりと布団から這い出る。それまで喚いていた声は止み、漸く僕は声を出した。
「お早う綾くん。いいから人の寝室に無断で入らないでくれるかい」
口をだらしなく開けているので顎を下から軽く叩く。
「紹介するよ昨晩から家の子になった猫くんだ。喧嘩するんじゃあないぞ」
一度閉めた口がまた開く。
「せんせい、猫あれるぎいは嘘だったんですね」
「そんなことないさ」
「嘘つき、捻くれ、意地悪」
「本当に可愛いげがない」
「何か仰いましたかあ」
「猫の事だよ。さてこんな早く人の事を起こしたんだから珈琲の一杯位は淹れてくれるんだろうね」
「凄く苦くて目が覚めるような泥みたいなの淹れますね」
「そいつは楽しみだ。猫くんにも何かやってくれると有難いのだが」
「あいさあ、せんせい」
言ふや否や元気よく飛び出して台所へ走つていつた。のろく後を追う猫くんに君も大変だなあと声をかけると欠伸をして一声鳴いた。

杏仁豆腐

 若き知人に久しく会うたと思つたら挨拶もなしに杏仁豆腐が食べたいと口を開いた。
勝手知つたるなんとやらで私のいる縁側まで大股で歩いてきて、器用にも足で下駄を放り投げた。ぐでんと縁側に仰向けで倒れると、顎を持ち上げもう一度杏仁豆腐が食べたいと言つた。
「やあ久し振りじゃあないか綾くん。どうしたんだいこんなに暑いのに汗をかきながら厚着をして」
「お久し振りですねせんせい、いやね、こんなに暑いならいっそのこと汗かきまくったらせるふさうなになるんじゃあないかなって思って」
「その前に身体を壊すだろう、暑苦しいからさっさと上着を脱いでくれると助かるのだがね。それでいきなりどうしたんだい杏仁豆腐が食べたいなんて随分急だね」
「そりゃあ見てわかるでしょうせんせい。こんな暑ければ冷たくてひんやりした甘い菓子を食べたくもなりますよ」
「そんな姿をしていたら当たり前だろう。確かに今日は一段と気温が高いそうだがね、だからこそ君の突拍子のない発想にはほとほと感心するよ」
ごろり、ごろり回転をしながら知人は足下まで転がってきて汗ばんだ掌で私の足首を掴んだ。
「せんせい、脳が沸騰しそうです……いいから杏仁豆腐……杏仁豆腐が食べたい……」
掴まれた足をそのままに眉を寄せた。
「私は作らないぞ、作れるとでも思っているのかい」
「いいええ。お台所と材料を下さればそれでいいです」
「勝手にしなさい……いいか、私は寒天のやつは食べないからな。どうせならぷりん状のものにしてくれ」
「あいさあ、せんせい」

 知人が慌ただしく台所で杏仁豆腐を作り込んでいる間に執筆途中だった原稿に向かう。杏仁豆腐の独特な香りがして中々良い気分である。実際に杏仁を使つたものではないだらう、だが似た香りの扁桃えつせんすが香を焚いているかの様感じさせる。
 香りが近付いて目に前にくる。間延びした声でせんせい出来ましたようと声をかけられた。
「全くせんせいは書き物始めるとなあんにも見えなくなっちゃうんだから」
へらへらと笑いながら忙しなく匙で杏仁豆腐を突ついて、掬って滑り落とす作業を繰り返している。
「そうかね、少なくとも常にぼんやりとしている君よりは幾らかましだと思うがね……おや良くできているじゃあないか」
「どんなもんです。私に感謝して下さってもいいんですよう」
「そうか、なら台所と材料を提供した私に感謝してもいいんだぞ、寧ろするべきじゃあないのかね」
「持ちつ持たれつということで」
「相変わらず減らない口だなあ。可愛いげのない。彼の先生のさいんは要らないと言うのだな折角頼んで書いてもらったのに残念だ」
「すみませんでした、せんせいの貸してくださったお台所と材料のお陰でとても美味しい杏仁豆腐が出来ました。なのでさいんは下さい」
握っていた匙を置くと、皿の横で額と机がぶつかる音をたてた。ここまで分かりやすくてどうしようもない人間は早々いないだらう。鼻でわらつてやる。
「現金なものだな」
「そうです私は現金な人間です。なので下さい」
「そうだなあじゃあ問題に答えられたらあげようじゃあないか。どうだね」
じめりとした暑さに筆も進むわけがないと諦め、ちょいとした遊びを提案する。
「やりますやりますう。何でもやりますよう」
私の家になんぞ来るぐらいなのだから相当の暇を持て余していたのだらう、待つていましたとばかりに勢いよく手が挙げられる。最近はこうした些細な問題の出し合いをするのが二人の遊びの定番となつていた。一見ちゃらんぽらんに見える若い知人だが、意外にもものを知っているので油断はしてはならない。逆に彼女に出される最近の流行り言葉だとかあにめや漫画、これは彼女が得意としているのだが、こちらの方はとんと疎いものでこてんぱんにしてやられてしまう。
「ようしじゃあ第一問だ」
「はいはい、何でしょう何でしょう」
「杏仁豆腐は何処の国の食べ物か」
「簡単ですよう。中国でしょう。流石にこれくらいはわかります」
「そうか、なら杏仁豆腐は本来甘味ではないのだが元は何だったかわかるかい」
「えっ、あんなに甘いのに甘味以外に思い付かないですよう。すうぷとか、ですかね。で、固めたら甘味になったぞ、みたいな」
「考えとしては面白いが間違いだ。正解は薬膳料理だったらしい。今でも杏仁豆腐を食べると長寿になる、体調が良くなる、冷えが治るなど身体を労る効果があると言われている」
「はあ成る程、美味しくて身体にも良いなんて凄い食べ物ですねえ」
「暑い日に無駄に厚着をしてせるふさうななどと馬鹿なことをするよりよっぽど杏仁豆腐を食べた方が健康にいいな。さて問題に答えられなかったからさいんはあげない、と余りにも憐れな醜態を見る羽目になりそうだから止めておこう。また何か作ってくれたらいいさ」
 机の上にさいんの入つた本を置いて渡してやる。一度大きく息を吸うと、細く吐き出しながら蚊の鳴くような声で礼を言われた。君は本当に馬鹿だなあと言ふと足で脛を柔く蹴飛ばされる。せんせいこそ一等の馬鹿ですよ、と言われたがそうかもしれないなあと、器に残しておいた枸杞の実を転がしながらぬるく返事をした。
 杏仁の残り香が夏の終わりを感じさせ、早く過ごしやすい気候にならないものかと目を細めるのだった。

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