古代出雲と神話の世界

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天皇家の混乱

このところ、すっかり更新してませんでした(*^_^*)

「古事記」の世界も、そろそろ終盤戦へと入ったので気が緩んだ??

訳ではありません・・・・と思う。

だって書きたい記事が多いんですよね〜ちょっと広げすぎでしょうか?

さて、ここから大和は動乱の時代へと移っていくのでした。



ミヅハワケ(反正天皇)の跡を継いだのは同じ仁徳天皇の子供であった允恭天皇なのですが
この天皇は治世を行うのに大和の遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)へ移りました。
最初は病を理由に即位を辞退していた允恭天皇だったのですが、后や下の者からの
強い要望で仕方なしに即位したんですね。
ただ、ラッキーだったのは貢物を持って訪れた新羅からの使者が医学に精通していて
その使者に診てもらい、病気はたちまち治った・・・とあります。

最終的に78歳までこの天皇は生きたのですが、この天皇が残した功績は・・・

氏姓の整理をしたことに尽きるでしょう。
当時は皆が勝手な名前を名乗っていたんですが、これではまずいと思った天皇は
これを正そうと呪術を用いたのです。
盟神探湯(くがたち)という呪術なんです。
手を湯の中に入れさせて正直に答えたときは何ともならないんですが、嘘を言うと
手が焼け爛れてしまうというものですね。
催眠術の効果もあったのでしょう。

こうして氏姓を整理し、この天皇が世を去った頃から大和は荒れた時代へと入ります。

あの聖帝として人々の賞賛を浴びた仁徳天皇の後を継いだのが履中天皇です。
仁徳天皇の長男だったんですが、即位の当日から大変な災難に襲われます。

即位の儀式が終わりその祝いが行われたんですが、天皇は飲みすぎて酔っ払って寝てしまったんですね。
これを見た弟のスミノエノナカツミコは兄を亡きものにして皇位を奪ってしまおうと火を放ったんです。

火に包まれて死ぬところだった天皇を助けたのはアチノアタエでした。
彼は素早く天皇を抱え上げると、馬に乗せて大和へと連れて逃げようとします。
道中、多遅比野という所まで逃げてきたところで天皇が意識を取り戻しました。
そこで謀略の話を聞き、とりあえず敵の兵士を避けながら大和へと辿りついた天皇は
石上神宮に居を構え、落ち着いたのでした。

その石上神宮に二番目の弟であるミヅハワケが訪ねて来ました。
彼もまた、スミノエノナカツミコから逃れて来たんですが、天皇は疑心暗鬼に陥っており
訪ねて来たミヅハワケに「ナカツミコを討ち取って来たのなら会おう」と言って突き放します。

仕方なく難波へと戻ったミヅハワケは、隼人であるソバカリという男を呼び出し、
「自分が天皇になったら、お前を大臣にしてやる」と約束して・・・
彼にナカツミコを殺害させたのです。
しかし・・ミズハワケはこのソバカリを信用していた訳では無かったんですね。
すぐ主人を裏切るような者を大臣には出来ない・・と祝宴の席で酒を飲ませるんですが
盃で顔が隠れた瞬間に、ミズハワケはソバカリの首を切り落としてしまいました。
そして穢れを祓う儀式を行った後、大和に居る天皇の下へ向かったのでした。

ミズハワケの活躍で元の鞘に納まった天皇は、大和の若桜宮で政を執り行い64歳で
その生涯を閉じたと記されています。

その後を継いだのは・・当然ミズハワケですね。
彼は反正天皇として政を行ったのですが、内容については詳しく記されていないんです。
ただ・・体格の良い180Cmを超える大男だったらしいのですが・・・

仁徳天皇

オホササギは難波の高津という場所に宮を建てて
仁徳天皇として即位しました。

聖帝として名高い仁徳天皇ですが、その事柄を伝えるのが「国見の物語」ですね。

即位して少ししてから、天皇は高い山の上から四方に散らばる村々を眺めました。
すると、何処の村からも煙の立ち上る様子も無いひっそりとした状態だったんです。
これを見た天皇はショックでした。
皆、貧しく炊いて食べる物にも困っているのか・・
そこで天皇は3年間という間、人々に対する租税と兵役の義務を取り止めることにしたんです。

その3年の間、宮が壊れても直すことも費用が無いから出来ません。
雨漏りがし出すとその下に桶を置いてしのぎ、寝る場所も雨漏りのしない場所を探して
転々と移動して我慢したのですね。
そして3年が過ぎた頃、天皇は再び山の上から村々を観察しました。
そこには、各家々から立ち上る煙と人々の活発な様子が見られたんです。
それを見届けた仁徳天皇は、再び租税を課すことを命じたんですが
その頃の人々の生活は豊かになっていて、苦しむこともなかったそうです。

ここまでは仁徳天皇が聖帝と謳われる美談なんですが・・そればっかりでもありません。

天皇の后というのが非常に嫉妬深いお方だったんですね。
天皇がある時、吉備国(岡山)にクロヒメという非常に美しいヒメが居ると聞き
宮中で召抱えたのです。
しかし、これを聞いた后(イハノヒメ)は嫉妬に狂い嫌がらせをするんです。
これを恐れたクロヒメは故郷の岡山へ逃げ帰ろうとします。
その様子を見ていた天皇がクロヒメを哀れんでいる・・と思い込んだイハノヒメは
船で帰ろうとするクロヒメを引き摺り下ろし、遠路岡山まで徒歩で帰らせてしまうんです。
またある時は、后が木国(和歌山)へ出かけている留守中に天皇がヤタノワカイラツメという
ヒメを寵愛していると聞き、腹立ち紛れに折角集めた柏の葉(祝宴に使う重要な葉)を放り投げ
河内へ帰ること無く他所へ行ってしまったりしてます。

仁徳天皇は何かが起こるたびに、歌を送って機嫌を直してもらってたんですね。
后というのは、思ったよりも権力を持っていて、裁判や判決までも下せる地位に居たんです。
そのおかげで、死刑になった男も居たようです。

何故、これほどに権力があったのか?というと・・

当時の天皇家を影から支えていたのは、地方の豪族達であってそこの出身者が后になるケースが
多かったんですね。
当然天皇家としては気を使い、怒らせないようにする必要があり
発言権も比例して大きくなっていったのだと考えられます。

話は変わって、有名な仁徳天皇陵(大山古墳)は百舌鳥古墳群の中にありますが
宮内庁が管理することもあり「墓」と定義されているもので発掘調査も制限されていて
解明が遅れています。
古代史研究家の間では、仁徳天皇陵に納められているのは仁徳天皇ではない・・という意見が
大勢を占めて来ました。
中に納められている埴輪などの土質が時代と合わないんですね。

一体・・誰が本当に入っているのでしょう?

応神天皇は言うまでも無く仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた御子ですね。
成人した応神天皇はヤカハエヒメという宇治に住んでいた女性を妻にしました。
この女性との間に生まれたのがウヂノワキイラッコという皇子です。
天皇はこの子を大層可愛がり、自分の跡継ぎはこの子にと考えるんですね。

あるとき、応神天皇は自分の他の御子であるオホヤマモリとオホササギを呼びました。
そこで二人に尋ねます。
「おい、自分にとって年が上の子と下の子ではどちらが可愛いと思うか?」
それにまず答えたのが年長のオホヤマモリ・・「それは上の子でしょう」
オホササギは賢く、天皇の問いにある裏を読みこう答えました。
「それはか弱く幼い下の子を可愛がるべきでしょうね」
これを聞いた天皇は、自分の一番可愛いウヂノワキノイラッコを擁護する発言をした
オホササギを国政を運営する要職に付かせたんです。
そんなことで要職に付かせる天皇も天皇ですが、オホササギは世渡り上手だったんですね。

このオホササギ、カミナガヒメという美しい女性を妻にするんですが、そのときも
大臣に裏から手を回し、天皇が召し上げたヒメを自分の妻にしてくれるよう口添えを頼んだんです。

応神天皇について、この時代の「古事記」は史実も充実して信頼出来る情報が増えてます。
天皇がこの時代に行った業績についても語られているんですが、中でも有名なのが
職業部民を定めた・・ということでしょう。
山の管理をする山部や山守部を定めたり、漁業や海の航海を管理する海部、特に伊勢の海は
専属で管理する伊勢部が定められたのです。
農業では灌漑用水なども作ってそれを蓄える溜池も多く作りました。

この時期は渡来人も多くやってきたのですが、特に新羅からと百済からが多かったようです。
この渡来人の技術や知識が天皇の治世に大いに役立っていたと考えるのが普通でしょう。

さて、様々な業績を残した応神天皇は130歳でこの世を去ります。
その後を受け継ぐのは、寵愛を一身に受けたウヂノワキノイラッコであることは間違い無いのですが
ここで邪魔をするのは・・口が災いしたオホヤマモリだったんです。

オホヤマモリは自分が天皇の地位に就こうと、ワキノイラッコの殺害を企てます。
その情報を伝え聞いたワキノイラッコは逆にオホヤマモリを罠にかけるんですね。
オホヤマモリが川の側へやってきたとき、ワキノイラッコはみすぼらしい服を着て
船頭の振りをしてオホヤマモリが乗り込むのを待っていました。
オホヤマモリが乗り込むと川の真ん中まで魯を漕いで進み、そこでオホヤマモリを突き落としたんです。
オホヤマモリは慌てて岸の方へと泳いだんですが、既にそのときには岸はワキノイラッコの兵によって
固められていました。
岸にも上がれず、流されているうちに遂にオホヤマモリは溺死してしまいました。

こうして敵に打ち勝ったワキノイラッコでしたが、皇位は兄から順番に継ぐものだ・・と
オホササギに譲ろうとするんですね。
しかし、オホササギも「応神天皇の意志はお前が皇位を継ぐことにあったのだ」と受けません。
こうして数ヶ月もお互いが譲り合った状態が続いたんですが、それも終わりのときが来ました。

ワキノイラッコが病気のため若くして亡くなってしまったのです。
オホササギは止む無く皇位に就くことにしたのですが・・

このオホササギこそ、後に聖帝と言われ民から称えられた「仁徳天皇」なのでした。

新羅への遠征

景行天皇は皇位を13代の成務天皇へ引継ぎ、更にその後ヤマトタケルの6番目の御子である
仲哀天皇(タラシナカツヒコ)へと引き継がれました。
この仲哀天皇の皇后は後の神功皇后で、古代史のなかでも非常に重要な役目を担う存在なのです。

ヤマトタケルの血を受け継ぐ仲哀天皇はクマソを征伐に行ったとき、神の言葉を請うんですが
そこで神は「オキナガタラシヒメを依代とし、西にある豊かな国を与える」と告げます。
この西の国というのは朝鮮半島にあった新羅のことだったんですが、天皇は
「そんな国なんか見えないではないか。これは偽りの神ではないのか」と不謹慎な態度をとったのです。

神は怒りました。

この事件がもとで、仲哀天皇は間もなく不幸の死を遂げてしまったのです。

神の怒りに触れて亡くなってしまった天皇の穢れを祓うため、大祓いが行われました。
大祓いというのは世の中の一切の罪と穢れを清める儀式です。

この儀式を滞りなく済ませると、オキナガタラシヒメは再び神の声を聞くのでした。
神は前回同様、西にある国の話を与える話をしたのですが先代の天皇は亡くなっているため
「この国を統べるのは、お前の腹の中に居る御子だ」と告げたのです。
そして、その御子はソコツツノヲ・ナカツツノヲ・ウハツツノヲであると、その名を告げました。

この神々は現在では住吉大社に祀られていますね。

オキナガタラシヒメは御神託の通り、海を渡り新羅の国へ辿りつき攻め込みました。
そこで新羅の王に会い、永久に仕えることを誓わせ役目として新羅は馬を飼う役所
隣国である百済には航海を司る役所を置くよう、命令を与えて帰り道についたのです。

オキナガタラシヒメは帰りの航海の途中で産気づきます。
それで、石を腰の周りに巻きつけて耐え忍び出産を遅らせたそうです。

筑紫国で無事に出産を終えたのですが、御子を守るため一計を案じます。
葬儀に使用される喪船を一艘作らせ、御子が死んだように装い更に使いを使って
御子が死んだと噂を流させたのです。

この一計は功を奏しました。
それというのも、景行天皇の曾孫にあたるカゴサカ、オシクマという兄弟が皇位を狙って
御子を殺そうと企てて、大和で待っていたからなのです。

この兄弟、御子の到着と同時に戦いを仕掛けるのに吉兆を占おうと狩猟に出かけたのですが
そこでカゴサカは大きな猪に殺されてしまうんです。
これは、吉兆でいくと完全に敗戦を意味するんですね。
しかし、オシクマは戦いに討って出るんです。

迎え撃つ御子を守る軍隊はナニハネコタケブルクマが束ねていました。
ここでブルクマは后が亡くなったので戦う意味がなくなったと嘘をつき、武器を収める
フリをしたんですね。するとオシクマも戦意が無くなり部下の気も緩んでしまった。
そこをいきなり襲撃し、敵を蹴散らしたんです。
オシクマは追い詰められ、琵琶湖に身を投げて死んでしまいました。

その戦いの後、大臣(おおおみ)のタケウチノスクネは穢れを清めるため、御子と一緒に
若狭国へと向かいます。
道中、高志の前の国(越前)で大臣に土地の神が夢枕となって現れます。
イザサワケノという土地の神は御子と名前を交換しようと申し出たのです。

この交換というのは本当に名前を交換するというよりも、自分の名前=分身を分け与える
といった意味合いだったのでしょう。

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