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4月1日、桜の花を撮るため、鷺沼の町を徘徊? このあたりの神社には桜の木が少ないので、 ふと思い立って子どもが幼稚園のとき以来16年ぶりの城址公園へいってまいりました。 習志野市役所の裏というか、もう少しわかりやすい道もあるかもしれませんが、 あえて住宅街の路地から鷺沼古墳の案内表示です(^_^ ![]() あまり写ってはいませんが、 この日は春休みということもあって花見の老若男女でにぎわっておりました 「鷺沼源太満義諸武士之碑」園内図には「源太石碑」とあります。 石碑裏側の碑文によりますと、「正應年間(1288〜1292)に市川城主里見氏ら下総十有城主一團 となっての北条氏康との戦いに敗れ戦死した鷺沼源太その他の霊魂の冥福を祈るため、昭和34年3月に 建立された」そうです。 鷺沼源太満義(光義とも)なる人物に関しては諸説ありまして、第二次国府台合戦とおもわれる碑文中の 戦いに参戦していたかどうかは定かではありませんが、石碑の後ろに写っている木製の小さな鳥居の奥が 園内図のA号古墳となります。 大人はかがまないと通れない木製鳥居の奥には小さな祠ががありまして、 通称「源太塚」と呼ばれております。 うちの子どもはこの近くの小学校出身ですが、小学校のころ学校からこの公園に来て、この「源太塚」に ひとりづつお参りしたという事実を、わたしはつい数日前に知りましたが この塚のあたりは子どもたちの絶好の遊び場のようで、 写真を撮る1〜2分の間もその前後もひっきりなしに大小とりまぜた子どもたちが行き交っておりますが じつはわたくしこの園内のこの場所が大の苦手でして、 さきほどの石碑の碑文を撮るために鳥居に背を向け、 そのことをさして気にも留めずに撮影していると、その間中ずっと背中が寒い!! そして鳥居をくぐって塚までいけば、 たいした距離でもなく、ほんの1〜2分程度の間のなんともいえない居心地の悪さ!! ちなみに、こちらの埴輪のレプリカは、出土した埴輪を模したものではない!ということです。 出土した下総型円筒埴輪という下総地方独特の埴輪から、6世紀後半のものと推定されているA号古墳が どなたのお墓であるかはいまだ謎ですが、 どうやら地元の子どもたちには楽しい遊び場を提供していただいているようです。 でもおとなはあまり近づかない・・・ さて、園内図のB号古墳がこちらの鷺沼古墳の石碑と後ろの小さな小屋です。 小屋の内部に出土した石棺が保存されておりまして、 外から見学可能ですが、こちらは子どももあまり寄りつかない。 でもこちらのほうが見通しはいいです。 だから秘密基地的な気分が味わえないので、子どもたちがこないのかもしれませんが、 こちらは南房総方面から運ばれたと考えられる砂岩・凝灰岩を金属製の工具で加工して造られた二基の 箱式石棺の造りや、埴輪が立てられなかったことなどから6世紀末のものと推定されております。 今日あたりで終わりかもしれませんが、桜はきれいな公園です。 城址公園という名の「城址」の部分に関しては、ここが本当に「城址」であるかどうか 定かではないようです。 かの有名な「吾妻鏡」にある、源頼朝が石橋山の戦い後に兵を整えた「鷺沼旅館」を「鷺沼城」に 比定するという説を容れれば、平安時代にまでさかのぼることになる「鷺沼城」 「城」といっても現代に残っているような天守閣のあるものではなくいわゆる「館(やかた)」 のような形式ではないかと思われますが、〜〜ロマンですねえ・・・・・・ このあたりで生まれ育った人たちには優しい場所。・・・・・でもわたしは苦手です(T_T) 桜はきれいですよー
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綺麗なサクラいいね^^)!
2014/4/6(日) 午後 7:02 [ 青い空 ]
サクラ綺麗ですね。三陸沿岸のソメイヨシノも櫻色に色づき始めました。鷺沼源太らの供養碑があるということは、古墳であると同時に古戦場跡なんでしょうか。城址公園ということは城跡なのかな。その辺が気になります。
2014/4/14(月) 午後 7:58
さっとさんありがとうございます(^−^)
ここは、古墳であることはまちがいありませんが、古戦場ではありません。
鷺沼源太というか、このあたりの武士たちが参戦したと思われる古戦場は、もっと東京都よりの場所で、国府台(こうのだい)という地名のところです。
鷺沼城とは形状としては館(やかた)で、あったようなのですが場所は定かではなく、古墳を公園として残す際に「じゃあ鷺沼城のことも一緒に・・・」という感じで「城址公園」としたらしいです(^_^;
2014/4/20(日) 午後 4:32 [ なちゅおば3 ]