日本の子どもたちの勉強時間は年々短くなり、いまや世界でも最低水準になってしまった。彼らは、積極的に「学び」から逃避している。その結果が学力低下を招いているのである。
また、若者たちも「労働」から逃避している。85万人といわれるニートは、自らの意思で知識や技術を身につけることを拒否して、自分探しをしながら階層下降している。
格差社会ニッポンのなか、逃げ続ける新しいタイプの弱者たち。
このままでは日本社会に未来はない。
なぜこのような事態が訪れたのか、処方箋はあるか──いまもっとも注目される論者が、難問に挑む! 出版社/著者からの内容紹介
オススメ度★★★★☆
第一章 学びからの逃走
第ニ章 リスク社会の弱者たち
第三章 労働からの逃走
第四章 質疑応答
感想
とても興味深かった。ニートの分析については、現代の若者論として、ちょっと違和感も感じつつも自分にとっても痛いこともいってくれていて、なるほどと思うところも多い。
学級崩壊など学校現場で起きている問題とニート問題を、消費主体という自我のあり方から論じているが、筋違いの気も。。。
「先生、これは何の役に立つんですか?」
前に塾講師のバイトをしていた頃
「これは何の役に立つんですか?」という類の質問を、
生徒に悪気はないのだけれど尋ねられて、どうしようと慌てたことがあった。いやそれ、わたしも分かんないからって。
昔、確か筑紫哲也の番組で、
「どうして人を殺していけないんですか?」
と中学生が質問してスタジオに並み居る文化人たちが絶句したのをよく覚えている。わたしはそんな大人たちにショックを受けた。
後になって大江健三郎や永井均の回答も話題になったので覚えておられる方は多いと思う。永井さんのは読んだけれど、、、この問いに関しては、答えそのものよりも態度や論の起こし方に注意を払うことが大切です!
内田さん曰く、この両方の問いへの答えは、黙ること、無視することだという。
首をしめて質問できなくするのも良しとする。ちっと真面目に言ってるところが怖いっす。
うー、あの時知っていればぁ。。
<私見> 哲学はどう? 哲学≠思弁的
最近自分が思うには、そういう子には「哲学すれば!」も答えかもと思う。
確かに無視したり殴って済ますってのも良い手だとは思うけれど、実際多くの哲学者の扱う問いは反社会的だったりバカバカしかったりして彼らを殴りたい良識人?!は多いと思う。
でも彼らにはちゃんと場所は与えられ倫理的問題はクリアしてますよね?
と、それどころか、哲学こそが本来、学問の礎なのです!!!!(日本は明治に大学を輸入してきたとき、一緒にその思想まで取り入れることはできませんでした。。)
ところで勘違いされがちだけど、哲学するにはきちんとした技法が必要だから、思弁的になるだけでは何も解決しない。単なるモラトリアムじゃないです。
それには論理のトレーニングを積み、多くの先人たちの超人的な努力を知り、学ばなければいけないことが山ほどある。師匠も必要。
大学、もしくは大学院でそれは終わり卒業できるかもしれないし、そのまま学者になるかもしれない。社会人になってからも勉強を続けるかもしれない。
毒にも薬にもなる哲学は一朝一夕にはどうにもならないから、そうこうしているうちに大人になり扱い方もわかるようになるし、哲学学でない限り実はちゃんと社会でも役に立つ技法が身についているし、自分的にはオススメだけれど。
っていうか、日本の大学での哲学の地位が低いことが不満です。
やったら思弁的な奴は、川上未映子の『あなたたちの恋愛は瀕死』のヒロインもそうだけど、やっぱり殴られる!!暴力の残酷な爽快感。あれを読んだとき、ああ彼女はわたしのために殴られてるんだと思った。また立ち上がれ!そしてまた殴られろ!
あのヒロインってホント今!を切り取ってます。ニート的素質というか、若者の危うさがそのまま出てる。川上さんの二作目であっさり芥川賞取られた才能、感受性の鋭さを感じます。
このヒロインこそ大学できちんと学ぶべき!哲学すべき!ってか、だから川上さんは哲学に興味があるのか!と今更ながら納得。
ニートとは。 内田流定義
思弁的であるのは現代の罠、ある意味モノを考えれば考えるほど社会的弱者になってしまう現状がある。
ニートとは自己決定・自己責任を取っている人間だった!!
彼らのように社会の外部にいるからこそクリアに見える社会の綻びや矛盾もあり、そんな社会にコミットできない若者が多いことも理解できる。そしてまた正のフィードバックがかかる。。。
でもでも、私も確かにニートとはイデオロギー的存在だと思うけど、最初からそうだったわけではないのでは?
ちょっと道から外れたために過剰なリスクを取らされ、事後的に<自己決定・自己責任を取っている自分>と捉えなおした為に起きているのではないだろうか?!!
ニート解決法
内田さん曰く、おせっかい!!がニートを救うといっている。
「自己決定し自己責任を取ってますから」という彼らに対し、悪いけどほうっておけませんという態度を取ること。。。これは今のところ家庭でしかできなさそうですね。。
後、ちょっと道から外れた人を何度でも受け入れる、違う人間を受け入れる柔軟な社会が必要だと思います。。(内田さんは均質な日本社会万歳派だからココは意見が違うと思います。。)
等価交換的発想では学べない!働けない!
教育というサービスに対して、いまどきの小中学生は権利ではなく義務だと感じているらしい。。。モッタイナイ話です。。就学時以前に消費主体として自我を確立しちゃっているから、自分たちが払う努力に見合う何が得られるの?と彼らは問うているとのこと。
内田さんが言いたいのは、あんたたちがこれから学ぶことは今のあんたたちのアタマでは考えられないことなんだよ、、だってそれが学ぶということなんですから、という話です。
同様の問題で、いまどきは大学生も親も実学志向で消費者マインドだから、大学も危機的だという話。教育投資がすみやかに回収できると思うな!ということですね。
師匠と弟子の関係については内田さんは他書でも繰り返し書かれています。弟子はそこから何を学ぶか分からないけど、その分からない自分をカッコに入れて、とにかく師匠を選んでついていく。自分の予想とは違うことを結局は学ぶことになる、、そういうやり方、この弟子の側の<命がけの跳躍>というところに力点を置かれています。弟子の驕りについては、黒澤の『姿三四郎』及びそれに習ったルーカスの『スター・ウォーズ』から説明されていて面白かったです。
後、師匠と弟子の関係は等価交換であるはずがない点にも言及。それは、「労働と賃金」も同じ。。この勘違いが、教育問題やニート問題を起こしていると考えているようです。
「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。p178
そうかもしれないです。。その辺は深過ぎて分からないです。。
知性とは、詮ずるところ、自分自身を時間の流れの中において、自分自身の変化を勘定に入れることです。p153
無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のことです。p154
学びからの逃走、労働からの逃走とはおのれの無知に固着する欲望であるということです。P154
消費主体は時間の中で変化してはならない、、手持ちの資産は形態は変化しても総額は変化しないというのが、等価交換プロセスを生きる主体の宿命だから。
この流れで、教育を「苦役と成果」「貨幣と商品」「投資と回収」というビジネスモデルで考えるのは自殺行為だと書かれています。。
変化しない消費主体は知性的でないと言いたいのか。。うーん。
納得いかないところ
消費主体の話、ここはちょっと深いことをいっておられると思いますが、、とりあえず近代的自我のラベルを貼っておきます。。
とにかく内田さんはとかく西洋的な近代的自我というものに懐疑的で、東洋的な従来の日本的な人間関係や社会のあり方に戻れといっているように聞こえます。。養老さんとの対談では、確か福沢諭吉批判をしていました。。
内田さんの理想とする師弟関係を作るには均質な日本人社会が前提になっていますが(幻想です)、実際たくさん移民(アジアからだけでも毎年4万人?!増)の方も日本に来ているわけですし、帰国子女の方も大勢おられるし、生粋の日本人でも大勢近代人はいますし(笑)、グローバリズムの只中にあって、わたしはその点、納得いっていません。。
単なる保守反動なのか?とも思います。。
わたしは浪人時代にろくでもない先生をメンターのように慕った(他にいなかった)ために、おかげさまで大学は合格しましたが、後々かなり苦労しました。団塊の世代の方で、おそらく大学でろくに学べなかったことが後を引いていたのでしょう。。大学合格後もわたしにおっかぶさるように大学の教養ごとわたしを飲み込もうとしていました。。だから大学、院と、まずは自立した近代的自我を頑張って確立しようとしてきました。理解されずに周りの反発も大きかったです(大泣)
事情は違いますがこれはニートがリスクを取っているのと同じ構造だと思います!
それくらい師弟関係についてトラウマになっていたのですが、今では日本人としてしみじみ師匠を欲する気持ちは回復してきました。。しかし近代的自我というもの、これはもう後には退けません。。
本当についていく価値のあるメンターがいないということの方が実は問題なんじゃないでしょうか。。現状は歪んだエゴの持ち主が師匠になりたがってる場合が多い気がします。。エゴとエゴのぶつかり合い、師匠と弟子なんてドロドロしてる場合が多いもんです。それを美化して、やたらと持ち上げるほうが危険な気もするのです。弟子は内田さんのおっしゃる通り命がけですから傷も師匠よりずっと深いです。。
「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。p178を基準に師匠、上司を見直すこともやってみたいです。。
内田さんは『二十四の瞳』の若くて泣いてばかりのはっきりいって無能な先生を挙げて、究極的には教育の場には先生を敬うという構造さえあればいいとのことで、先生の中身に価値なんてなくていいともいっています。。それでも十分に学校教育は機能すると。過激ですね。
統計的なデータも何もなく内田さんが日ごろ敏感に感じ取り、思いついたことを書いているため、こりゃ偏見だと反発もありました。
でも今とても気になることをいってくれている数少ない思想家には変わりありません。。。やっぱりわたしとしてはこれからも内田さんについていくつもりです。
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