花椿の 本、本、本、映画、本。

〜春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山〜

評論

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日本の子どもたちの勉強時間は年々短くなり、いまや世界でも最低水準になってしまった。彼らは、積極的に「学び」から逃避している。その結果が学力低下を招いているのである。
また、若者たちも「労働」から逃避している。85万人といわれるニートは、自らの意思で知識や技術を身につけることを拒否して、自分探しをしながら階層下降している。
格差社会ニッポンのなか、逃げ続ける新しいタイプの弱者たち。
このままでは日本社会に未来はない。
なぜこのような事態が訪れたのか、処方箋はあるか──いまもっとも注目される論者が、難問に挑む!  出版社/著者からの内容紹介

オススメ度★★★★☆

第一章 学びからの逃走
第ニ章 リスク社会の弱者たち
第三章 労働からの逃走
第四章 質疑応答

感想

とても興味深かった。ニートの分析については、現代の若者論として、ちょっと違和感も感じつつも自分にとっても痛いこともいってくれていて、なるほどと思うところも多い。
学級崩壊など学校現場で起きている問題とニート問題を、消費主体という自我のあり方から論じているが、筋違いの気も。。。
「先生、これは何の役に立つんですか?」
前に塾講師のバイトをしていた頃
「これは何の役に立つんですか?」という類の質問を、
生徒に悪気はないのだけれど尋ねられて、どうしようと慌てたことがあった。いやそれ、わたしも分かんないからって。

昔、確か筑紫哲也の番組で、
「どうして人を殺していけないんですか?」
と中学生が質問してスタジオに並み居る文化人たちが絶句したのをよく覚えている。わたしはそんな大人たちにショックを受けた。
後になって大江健三郎や永井均の回答も話題になったので覚えておられる方は多いと思う。永井さんのは読んだけれど、、、この問いに関しては、答えそのものよりも態度や論の起こし方に注意を払うことが大切です!

内田さん曰く、この両方の問いへの答えは、黙ること、無視することだという。
首をしめて質問できなくするのも良しとする。ちっと真面目に言ってるところが怖いっす。
うー、あの時知っていればぁ。。
<私見> 哲学はどう? 哲学≠思弁的
最近自分が思うには、そういう子には「哲学すれば!」も答えかもと思う。
確かに無視したり殴って済ますってのも良い手だとは思うけれど、実際多くの哲学者の扱う問いは反社会的だったりバカバカしかったりして彼らを殴りたい良識人?!は多いと思う。
でも彼らにはちゃんと場所は与えられ倫理的問題はクリアしてますよね?

と、それどころか、哲学こそが本来、学問の礎なのです!!!!(日本は明治に大学を輸入してきたとき、一緒にその思想まで取り入れることはできませんでした。。)

ところで勘違いされがちだけど、哲学するにはきちんとした技法が必要だから、思弁的になるだけでは何も解決しない。単なるモラトリアムじゃないです。
それには論理のトレーニングを積み、多くの先人たちの超人的な努力を知り、学ばなければいけないことが山ほどある。師匠も必要。
大学、もしくは大学院でそれは終わり卒業できるかもしれないし、そのまま学者になるかもしれない。社会人になってからも勉強を続けるかもしれない。
毒にも薬にもなる哲学は一朝一夕にはどうにもならないから、そうこうしているうちに大人になり扱い方もわかるようになるし、哲学学でない限り実はちゃんと社会でも役に立つ技法が身についているし、自分的にはオススメだけれど。
っていうか、日本の大学での哲学の地位が低いことが不満です。

やったら思弁的な奴は、川上未映子の『あなたたちの恋愛は瀕死』のヒロインもそうだけど、やっぱり殴られる!!暴力の残酷な爽快感。あれを読んだとき、ああ彼女はわたしのために殴られてるんだと思った。また立ち上がれ!そしてまた殴られろ!

あのヒロインってホント今!を切り取ってます。ニート的素質というか、若者の危うさがそのまま出てる。川上さんの二作目であっさり芥川賞取られた才能、感受性の鋭さを感じます。
このヒロインこそ大学できちんと学ぶべき!哲学すべき!ってか、だから川上さんは哲学に興味があるのか!と今更ながら納得。
ニートとは。 内田流定義
思弁的であるのは現代の罠、ある意味モノを考えれば考えるほど社会的弱者になってしまう現状がある。
ニートとは自己決定・自己責任を取っている人間だった!!
彼らのように社会の外部にいるからこそクリアに見える社会の綻びや矛盾もあり、そんな社会にコミットできない若者が多いことも理解できる。そしてまた正のフィードバックがかかる。。。

でもでも、私も確かにニートとはイデオロギー的存在だと思うけど、最初からそうだったわけではないのでは?
ちょっと道から外れたために過剰なリスクを取らされ、事後的に<自己決定・自己責任を取っている自分>と捉えなおした為に起きているのではないだろうか?!!
ニート解決法
内田さん曰く、おせっかい!!がニートを救うといっている。
「自己決定し自己責任を取ってますから」という彼らに対し、悪いけどほうっておけませんという態度を取ること。。。これは今のところ家庭でしかできなさそうですね。。

後、ちょっと道から外れた人を何度でも受け入れる、違う人間を受け入れる柔軟な社会が必要だと思います。。(内田さんは均質な日本社会万歳派だからココは意見が違うと思います。。)
等価交換的発想では学べない!働けない!
教育というサービスに対して、いまどきの小中学生は権利ではなく義務だと感じているらしい。。。モッタイナイ話です。。就学時以前に消費主体として自我を確立しちゃっているから、自分たちが払う努力に見合う何が得られるの?と彼らは問うているとのこと。
内田さんが言いたいのは、あんたたちがこれから学ぶことは今のあんたたちのアタマでは考えられないことなんだよ、、だってそれが学ぶということなんですから、という話です。
同様の問題で、いまどきは大学生も親も実学志向で消費者マインドだから、大学も危機的だという話。教育投資がすみやかに回収できると思うな!ということですね。

師匠と弟子の関係については内田さんは他書でも繰り返し書かれています。弟子はそこから何を学ぶか分からないけど、その分からない自分をカッコに入れて、とにかく師匠を選んでついていく。自分の予想とは違うことを結局は学ぶことになる、、そういうやり方、この弟子の側の<命がけの跳躍>というところに力点を置かれています。弟子の驕りについては、黒澤の『姿三四郎』及びそれに習ったルーカスの『スター・ウォーズ』から説明されていて面白かったです。

後、師匠と弟子の関係は等価交換であるはずがない点にも言及。それは、「労働と賃金」も同じ。。この勘違いが、教育問題やニート問題を起こしていると考えているようです。

「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。p178
そうかもしれないです。。その辺は深過ぎて分からないです。。

知性とは、詮ずるところ、自分自身を時間の流れの中において、自分自身の変化を勘定に入れることです。p153
無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のことです。p154
学びからの逃走、労働からの逃走とはおのれの無知に固着する欲望であるということです。P154

消費主体は時間の中で変化してはならない、、手持ちの資産は形態は変化しても総額は変化しないというのが、等価交換プロセスを生きる主体の宿命だから。

この流れで、教育を「苦役と成果」「貨幣と商品」「投資と回収」というビジネスモデルで考えるのは自殺行為だと書かれています。。
変化しない消費主体は知性的でないと言いたいのか。。うーん。
納得いかないところ
消費主体の話、ここはちょっと深いことをいっておられると思いますが、、とりあえず近代的自我のラベルを貼っておきます。。

とにかく内田さんはとかく西洋的な近代的自我というものに懐疑的で、東洋的な従来の日本的な人間関係や社会のあり方に戻れといっているように聞こえます。。養老さんとの対談では、確か福沢諭吉批判をしていました。。
内田さんの理想とする師弟関係を作るには均質な日本人社会が前提になっていますが(幻想です)、実際たくさん移民(アジアからだけでも毎年4万人?!増)の方も日本に来ているわけですし、帰国子女の方も大勢おられるし、生粋の日本人でも大勢近代人はいますし(笑)、グローバリズムの只中にあって、わたしはその点、納得いっていません。。

単なる保守反動なのか?とも思います。。

わたしは浪人時代にろくでもない先生をメンターのように慕った(他にいなかった)ために、おかげさまで大学は合格しましたが、後々かなり苦労しました。団塊の世代の方で、おそらく大学でろくに学べなかったことが後を引いていたのでしょう。。大学合格後もわたしにおっかぶさるように大学の教養ごとわたしを飲み込もうとしていました。。だから大学、院と、まずは自立した近代的自我を頑張って確立しようとしてきました。理解されずに周りの反発も大きかったです(大泣)
事情は違いますがこれはニートがリスクを取っているのと同じ構造だと思います!
それくらい師弟関係についてトラウマになっていたのですが、今では日本人としてしみじみ師匠を欲する気持ちは回復してきました。。しかし近代的自我というもの、これはもう後には退けません。。

本当についていく価値のあるメンターがいないということの方が実は問題なんじゃないでしょうか。。現状は歪んだエゴの持ち主が師匠になりたがってる場合が多い気がします。。エゴとエゴのぶつかり合い、師匠と弟子なんてドロドロしてる場合が多いもんです。それを美化して、やたらと持ち上げるほうが危険な気もするのです。弟子は内田さんのおっしゃる通り命がけですから傷も師匠よりずっと深いです。。

「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。p178を基準に師匠、上司を見直すこともやってみたいです。。

内田さんは『二十四の瞳』の若くて泣いてばかりのはっきりいって無能な先生を挙げて、究極的には教育の場には先生を敬うという構造さえあればいいとのことで、先生の中身に価値なんてなくていいともいっています。。それでも十分に学校教育は機能すると。過激ですね。

統計的なデータも何もなく内田さんが日ごろ敏感に感じ取り、思いついたことを書いているため、こりゃ偏見だと反発もありました。
でも今とても気になることをいってくれている数少ない思想家には変わりありません。。。やっぱりわたしとしてはこれからも内田さんについていくつもりです。

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 繰り返し見ても飽きない名作映画には、エンドマークに向かって収束していくストーリーラインとは別の、重層的な物語がその底に流れている。その隠された物語は、人間の欲望の構造をさりげなく映し出す。
 なぜマイケル・ダグラスは、出演する映画でグレン・クローズ、キャサリン・ターナーら当代の人気女優たちを「抹殺」し続けるのか?『大脱走』の裏に隠された「父殺し」のドラマとは?『エイリアン』が反映するフェミニズム的メッセージとは?『「おじさん」的思考』で、成熟した大人の思考の真髄を見せた著者が、『裏窓』『北北西に進路をとれ』など、ハリウッド映画の物語分析を通じて、現代思想のエッセンスを伝える知的エンターテイメント。大人なら映画はこう読む! 
カバーより

オススメ度★★☆☆☆

目次
第1章 映画の構造分析
  0 物語と構造
  1 テクストとしての映画
  2 欠性的徴候
  3 抑圧と分析的知性
  4 「トラウマ」の物語
第2章 「四人目の会席者」と「第四の壁」
第3章 アメリカン・ミソジニー・・・女性嫌悪の映画史

感想

最初に、
これは「現代思想の述語を駆使した映画批評の本」ではなくて、「映画的知識を駆使した現代思想の入門書」なのです。(p9)
とあるので、安心して読み始めました。

世の中気障ったらしい映画批評の本が多くて、何度となく跳ね返されていた私にはぴったりの本でした。。
ただし現代思想の入門書としては失格。少しはその辺の知識がないと読みづらいのでは。

まずは文学と映画の違いについて。
興行的に成功していない映画であっても、膨大な映画論的言説が、映画批評という枠をはみ出して、文化論や社会論のレヴェルにも流通している(p33)ものがある。ここで映画解釈とは、この映画についての「神話作り」だということ。
映画は物語の本筋と関係ない無意味な記号をどうしても含むため、人はその亀裂を架橋しようと解釈してしまう。。
また映画は多人数で作っているためにバルトのいうところの「主体なきテキスト」として無意識の欲望が表れやすいというのもポイント。

小津とかゴダールとか騒いでる人が何をしているのか垣間見えた。
映画じゃなくても、わたしが村上春樹を解釈する時も同じことをしている気がする。支離滅裂なザラッとした手触りの部分が、読む側の方に物語を作らせる。どうしても参加させられちゃうのだ。

映画解釈では、フェミニスト的な主題を持つ『エイリアン』、分析家と患者の欲望の絡み合いを描いた『ゴースト・バスターズ』のお話が一番面白かった。確かにこの二つの映画は名作!!!シガニー・ウィーバーが一番美人に撮れてると思うから、もう一度観てみたい。。

最終章でアメリカの女性嫌悪は「20世紀アメリカの病」である、と結論付け、その説話原型がウェスタン映画にあるという。
「女なんてろくなものじゃない」というメッセージは、西部開拓時代、極端に女性の数が少なかったために「最後まで女に選ばれなかった男たち」の怨念(一人だと苦笑で済ませられるが数万、数十万にもなるとね、、)への鎮魂の祈りとのこと。こうやって明らかにされると情けないものだね。。
けど、と、なると、やっぱりこの間の記事に書いたように、西部開拓時代よりも先に開かれたアメリカ南部の女性が比較して生き生き描かれるのもよく分かる!!

観客の欲望を見抜いていたヒッチコックの天才に驚愕。
「わたしがずっと映画をつくりつづけてきて、何を学んだかというと、マクガフィンはなんの意味もないほうがいい、ということだった。体験からこのことには確信がある。しかし、なぜそうなるのかということを証明するのはむずかしい。」(p124)
マクガフィンは「人々が命がけで奪い合うもの」として現れる、、例えば、密書、マイクロフィルム、暗号などなど。マクガフィンの特徴は物語の登場人物全員を緊縛し、その欲望も、その判断も、その身振りも、そのすべてを支配すること。(p124)

人間洞察に唸る。ポウの『盗まれた手紙』の手紙も、シェイクスピアの『オセロ』のスカーフも、ヒッチコックのいうところのマクガフィンに当たる。。。
昔のハリウッドはやっぱり凄かった。これに比べると最近のは子供騙しだよなぁ。

テキスト解釈のためじゃなくても、分析的知性を身につけることは人間洞察に、態度決定に役に立つことを知りました。

■メモ■
『盗まれた手紙』エドガー・アラン・ポウ
「『盗まれた手紙』についてのセミネール」ジャック・ラカン
『ヒッチコックによるラカン−映画的欲望の経済』スラヴォイ・ジジェク

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武道の達人と解剖学者 ― 二人の風狂による経綸問答。
『下流志向』の内田樹と日本の知恵袋、養老孟司が火花を散らす。「ユダヤ人問題」を語るはずが、ついには泊りがけで丁々発止の議論に。それぞれの身体論、アメリカ論、「正しい日本語」、全共闘への執着など、その風狂が炸裂し、日本が浮き彫りになる。なぜこんなに笑えるのか。養老は「"高級"漫才」とこの対談を評した。脳内がでんぐり返る一冊。 (裏表紙より)
 

評価★★★☆☆

感想
内田さんの専門であるユダヤ関連のお話が比重が大きいですが、そこから縦横無尽に話は広がり、日本論やアメリカ論にも繋がっていきます。。

ところで最近読了した内田さんの『私家版・ユダヤ文化論』は名著!だと思いますが、本書の第二章はその補填にもなりますし、対談形式ゆえ噛み砕かれて消化されやすくなっているので、前書を読んで消化不良の方にはおすすめです。逆にこちらを先に読まれても全然困らないと思います。

二人ともスタイルがあり、また熟練した話者でもあるので、会話は変幻自在、個性が発揮されてて楽しめました。

内田氏にとって養老氏は「邪道」の師匠らしい。(笑)
「邪道」的悪意は、無垢で、無作為で、非利己的で、即興的で、かつ骨太の笑い(「くすくす」ではなく「がっはっは」)を伴うものでなくてはならない。 (p252)

肩肘張らないで読める割に刺激的で飽きずに最後まで読める!という内田流は健在。「世間」的常識の間隙をついて繰り出される言葉は心地よいです。

まとめ
第一章 われわれはおばさんである★★★★★
おばさんは話が横に広がるリゾーム状。おじさんの話は次元を上げてくツリー状。バイリンガルで論理の隘路を切り開く。
内田氏の高校受験の話。人間は自分の知的パフォーマンスをコントロールできない。脳は宵越しの金は持たねぇ。
世間には責任を取る人がおりません。
武道の心は「ナカをとる」、敵味方のスキームでなく折り合いの心。ぼくの身体と相手の身体を二つながらに含む「第三の身体」、その「主体の座」をどのように略取するか。
死体は武器になる。脈絡のない死体、体の断片。物語を考えちゃうのは人の性、もしくは逃げちゃうか。

第ニ章 新・日本人とユダヤ人★★★★★
「対偶」の考え方に共感。
選民意識は利己的な人種差別より人を傷つけるのかも。
遅れてきたもの、前のものの痕跡、被投性、イノベーションの可能性、有責性。
レヴィナス『時間と他者』→時間とは主体と他者との関係そのもの。「同じ」に括り込めない同一性の不調そのものが「時間」として析出してくる。
造形芸術の禁止、なぜなら神の時間先行性こそが神性を構築するから。
ユダヤ教会堂を意味するシナゴーガは目を覆われた若い女の像として表象される。盲人の目を開くキリストの奇跡との比較。視覚と聴覚の対比。

第三章 日本の裏側★★★☆☆
インターナショナルは辺境にあり。例えば対馬。
歴史的に中国が大きくなると日本は鎖国してきてる。遣隋使、遣唐使の廃止など。
小泉さんの靖国参拝は無意識的な反米のシグナルか?迂回したルサンチマン。
政治的であることは、主観とは関係ないという論法は日本的。全共闘は実は日本人の中の日本人?!欠性的な仕方で受け取り蘇る日本の情念。

第四章 溶けていく世界★★☆☆☆
プライバシーとはその状況を共有した他者がいてはじめてプライバシー。相手に配慮する必要があるから秘匿する必要がある。
個人情報保護法はナンセンスではという意見。。(→フーコー的監視社会を考えると問題はそんなに簡単じゃないはず)

第五章 蒟蒻問答主義★★☆☆☆
ケースバイケース、オープンクエスチョンは大人の知恵。混乱に耐える丈夫な脳をもちましょう。
「個性」とは他人の目にどう映るか。人を見る目がなくなった年寄りは役目がなくなった。自己評価と外部評価のズレの補正は黙々とすべし。
古典落語の蒟蒻問答、やりとりされるものはコンテンツでなく解釈だった。世界の深さのすべては世界を読む人自身の深さにかかっている。

第六章 間違いだらけの日本語論★★☆☆☆
英語のオーラル中心教育は植民地的。知的な位階差は絶対に埋められない。だから文法、読み書きが大切。
日本語もいろんなタイプの日本語が使い分けられるというのは生きていくうえで有利。フィジカルな浸透力のある日本語、官僚的なフラットな日本語どちらも身につけたいところ。官僚的文体は結構使えるツール。
身体の他の部分が唱和する声はいい声、響く声。(自分が内容に納得しているから)
人に説教させるのも、受け答えの上手。

第七章 全共闘の言い分★★☆☆☆
江戸時代は結構気楽な現場主義。福沢諭吉は実は実学の人というより、非常識なイデオロギーの人なのでは。
党派性なく自分の価値観でものをいう人がどんどん減ってきている。(肯定より否定は楽)

第八章 随所に主となる★★★☆☆
アメリカの単純化圧力は、アメリカ人の知性を損なっている。大人になれない国。日本も同様に「成熟」という概念がなくなりつつある。
アメリカの政治では漸進的な改良はなく、建国の理念に立ち返りそのつど再生するという物語でしかシステムトラブルを修正できない。
「額」で囲んで現実から距離をとる。「これは嘘ですよ」と無意識に叩き込むような言語表現でシステム全体を表現することを学ぼう。
翻訳は裸でする、エヴァのシンジ君のようにフラジャイルな状態で入ってく。それは結構恐いこと。
師匠についていくのは「命がけの跳躍」。師弟関係は未熟な価値判断を括弧に入れて成立。基準がないのに選ぶしかないところに弟子の側のブレークスルーが生起する。師匠は必要、でも師弟関係に等価交換を期待しちゃいけません。
考えて考えて考え抜くと底が抜ける。底が抜けて落ちたら、どんどん掘るのも手、自分だけの金鉱が。
日常性は架空だから退屈しません。そこにも無限の情報があるのだから。

養老斬手 ― あとがきにかえて★★★★★
とにかく笑いました!!!妙に漢文調で楽しかった。お二人は大変ウマがあってることが伝わってきました。

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思い切って言うと、頭のよい学生のレポートといった風情。(まえがきを除く)。それも今風の。あぁ言っちゃった。
アタマがいいからって、ちゃんと勉強してないんじゃあ、、、って疑い。
あくまで素人の印象です。あんた大胆。

自身がホントに使える「道具」(トクヴィル、欲望分析、レヴィナス)?で、論じてるところは面白い!、、でもいかんせん間違った使い方をしている「道具」あり。1章のフーコー理解、そんなにお気楽でいいの?!、6、7、8章のフェミニズム理解にいたってはヒドすぎる。
内田さんの著作は、また同じこと言ってる!と「道具」の使い回しがよく非難されてます。。
よく使えるのは分かったヨ。
そこは気軽につっこみ入れつつ読みたいところ。

アメリカって特別な国、恐ろしい国だ!ってことがわかり、光と影が極端であるわけが実感された。やっぱり読んでよかった。文句つけてごめんなさい。

個人的にはやっぱり「まえがき」が一番面白かった!
やりたいのは欲望分析、「なぜ日本はアメリカを欲望するのか?」って問いだから、非専門家であるっていう特権的ポジションを利用したいと書いてある。アメリカについての言説生産を促してきた不可視の力を明らかにすることは、その言説のオーラを減殺させる(すなわち知の権力構造と相容れない)から、専門家には語りえない。この点で意義深いです。

気になるところ
まえがき ― 自立と依存★★★★★
私たちのアイデンティティを支えるのは、そのほかのすべての点が同じであるにもかかわらず、そこだけが違うような「一点」を析出してくれるような他者なのである。(p9)
その一点とは、すべての個々の国民がすっかり忘れている一点であり、それが思い出されるという形で国民意識は覚醒される。ところが、フロイトの分析的知見によるならば、「すっかり忘れていて、それをある日思い出すような何か」はたいていの場合一度として存在したことのないものなのである(p10)

「ナショナリズムは国民意識の覚醒ではない。ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を発明することだ」(p12)ベネディクト・アンダーソン

日本は1850年代にアイデンティティーの基礎付けとしての他者を、気づかずに中国からアメリカにシフトさせたっていうのが、内田さんの思考起点。

改憲による交戦権の確保、駐留米軍の退去、真に双務的な日米軍事同盟の締結によるアメリカからの自立を夢見ていた江藤淳は、その「自己同一性の回復」は「アメリカの善意と寛大」によってしか実現できないと考えていた。(p18)

「親米は反米、反米は親米」アメリカは日本人が決してアメリカに対して「すっきり」した関係を取り結ぶことができないような呪いをかけた。憲法九条と自衛隊のねじれはこの呪いの端的なかたち。

日本の「アメリカ問題専門家」はこのねじれた構造を不可疑の前提としてその仕事を行い、メインストリームの政治的言説は「アメリカへの従属なしに、アメリカからの独立はありえない」というねじれたロジックを戦後六十年間繰り返してきた。

しかし私たちが「アメリカの圧倒的な力」と思いなしているものの一部は明らかに私たちが作り出した仮象である。それに依存することだけが選択できる唯一の生存戦略であるような「強大なもの」は、おそらくそれを欲して止まない私たちの側の懇請に応じて呼び出されているのである。

他国への従属のうちにのみ自国の独立の可能性を見るという背理的なナショナル・アイデンティティの持ち方は、アメリカが日本に「押しつけた」ものではない。日本人はこれを自分で選んだのである(p26)

1章:歴史と系譜学 ― 日米関係の話
そういう種類の想像力のことを、私はミシェル・フーコーにならって「系譜学的思考」と呼ぶことにします。(p56) 歴史学的思考が、過去から未来に向かって一直線に進む「鉄の法則性に貫徹された」歴史の流れを創造するとしたら、系譜学的思考はその逆に、現在から過去に向かって遡行しながら、そのつどの「分岐点」をチェックして、「どうしてこの出来事は起きなかったのだろう?」というふうに考えてみることです。(p56)
歴史と系譜学との対比で言う分にはそれでいいけれど、物語的思考から脱却できない限り、むしろアンチフーコーだと思います。フーコーは欲望分析も禁止していたはず。

この章の言いたいこと。
歴史は複雑系。歴史に「もしも」を導入するというのは、一人の人間が世界の運行にどれくらい関与することができるのかについて考えることであって、それはそのまま自分が今投じられている世界の構造について溢れるばかりの好奇心をもって観察することに、さらにはこの自分自身の一挙手一投足がそのまま未来に対して決定的な影響力を及ぼすこともあるのだという希望を持つことに通じる。(p61)(←消極的サルトル?)

2章:ジャンクで何か問題でも? ― ファースト・フード
「スローフード」はグローバリゼーションの反動という単純な現象ではないのでは。その発祥の地はファシズム的古層の残る北イタリアの都市。排外主義に陥らないようにしよう。

3章:哀しみのスーパースター ― アメリカン・コミック★★★
アメコミの「理解されないヒーローもの」、日本の漫画の「無垢な少年しか動かせない巨大ロボットもの」、繰り返し描かれてきたこれらの物語はそれぞれ両国の欲望を反映する。「少年」は「自衛隊」、「モビル・スーツ」は駐留米軍。おおー、なるほど。欲望分析冴える。

4章:上が変でも大丈夫 ― アメリカの統治システム ★★★★
アメリカのような国はアメリカ以前には存在しなかった。(p96)まずリアルでアモルファスな共同体があったのではなく、まず「共同体はいかにあるべきか」についての理念があり、その理念に「契約」的に合意した人々によって共同体が構築されたのです。(p97)

「アメリカが今より悪い国にならない」ための制度の創出。
独立宣言の起草者たちは、アメリカの政体が被統治者にできるだけ多くの自由を保障するものであることをむしろ優先的に配慮した。(p114)(ホッブス、ロックの思想からひとひねりして導く)
「少数の賢者が支配するシステム」<「多数の愚者が支配するシステム」

かくして、物語の国アメリカではしばしば物語的粉飾に多くの人が騙されて、統治者の選択を誤るのでした。

5章:成功の蹉跌 ― 戦争経験の話★★★
わずかの軍功を過大評価し、戦争被害も過大評価する、、、勝利も敗北も、伝説的なものに仕立て上げて「アメリカ史」を物語的に装飾する傾向。
アメリカが短い歴史で学んだこと。戦争しないことよりも戦争に勝つことの方が同盟者を増やす上では効率的である。(p128) ローマかよ。成功の呪縛。
ゲーティド・コミュニティの誕生。((過剰な自己防衛としての)銃の所持などなど、も付け加えたい。)今度は中世かよ。敵が国家ではなくなり、かつ貧しいアメリカ市民が富めるアメリカ市民の潜在的な敵になるという前代未聞の状況に今までの「成功経験」は通用できない。
ヒスパニック系の台頭、WASPが相対的少数集団となり、「多数の支配」という統治原則と社会の現状の間に亀裂(p134)。没落の予感。

6章:子ども嫌いの文化 ― 児童虐待の話 スルー
どうして子ども嫌いな母親がいるのかを解かない限り、母親ばかりが悪者です。
7章:コピーキャッツ ― シリアル・キラーの話 スルー
この流れで読むと、フェミニズム運動にコミットする女性の子どもはシリアル・キラーになるのかよ。父の存在も無視。ダブル・バインド的抑圧が子どもに与える影響に震撼。
8章:アメリカン・ボディ ― アメリカ人の身体と性 スルー
ジェンダー論者を困ったものだっていうお得意のポーズ。アメリカでの階級と身体の関係のシビアさに驚く。

9章:福音の呪い ― キリスト教の話★★★★★
『アメリカの反知性主義』、スター宣教師の登場など、驚き。

10章:メンバーズ・オンリー ― 社会関係資本の話
「インビジブル・アセット」とか「社会関係資本」だって、つねに身体性に担保されているという話。

11章:涙の訴訟社会 ― 裁判の話
陪審の信頼性。「色と欲」のスキームで説明しきることのできたほうが、事件の記述にそれ以外のファクターを挟み込んでしまった弁護士よりも陪審員の理解を得られやすい。(p247)

精神医学と精神分析は個人の自由意志を否定し、すべてを個人の外部にある「病因」に帰することで、社会を「非人称化」しようとしている。(p247) 盗人は「クレプトマニア」、放火犯は「ピロマニア」と、自分の外部に自分の行為の責任を転嫁する風潮がむしろ犯罪を増加させているのでは?という疑問を提示。
では「なぜこのような他席的なスキームで嗜好や犯罪を論じることが好まれるのか?」
他責的スキームは、社会矛盾を「戦い」というタームで語り、ヒロイズムの幻想を提供してくれるから。善玉悪玉を擬制的に分離することは「解決先延ばしソリューション」に過ぎない。責任転嫁もそのひとつ。
訴訟社会は煩瑣や不合理性よりも市民の成熟への意欲を侵食するという点に危機があるのではないか(p255)。

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もともと企画して村上春樹論を書こうとして生まれた書籍ではなく、方々で書いていたテクストをまとめたアンソロジーらしい。ちょっとがっかり、だけど凄く納得する章もあってやっぱり面白かった。

村上春樹が「文壇」的に孤立していること、ある種の批評家たちから憎まれてる!ことを知らなかった。確かにノーベル賞候補に挙がっていたときも、(文壇的)世間はクールな反応だったよなぁ。。賞を取っていたとしても、結局認めようとしなかったんじゃなかろうか。。なんとなくそんな気がする。。
だから筆者が堂々と村上春樹を擁護しているのは偉い!と思う。論戦を挑んでるんだろうけれど、それもスルーされているのかしらん。文芸批評って全然、空気しか読みませんが、著者の挑戦にちゃんとまともに答えてくれるならば読んでみたい。

多くの人にとって村上春樹は卒業する作家という認識だと思う。「雪かき」は、誰にとっても少しは必要なことだけれど、あくまで準備や予防に過ぎない。作中の「僕」のようにいくら「雪かき」を洗練させても、そればっかりじゃぁ。。。本人はそれ以上の作家だし。

「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」というのが村上文学に伏流する問いだと書いてある。(善の起源の問題、内田さんの研究テーマであるユダヤ教とそこが似ていて、そして結論は違うといいたいのかな。)
とにかく、なっとく。きちんとした生活と小さな親切が大事ってこと。

後半では村上作品のテーマは「邪悪なものが存在する」っていうことだとも書いている。うーん、そう?少なくとも「ノルウェーの森」には感じなかった。無意味に傷つけられ損なわれてしまう人間は出てくるけれど、だからって、そこには邪悪なものが存在するというふうには読まなかった。

また、内田さんは、異界からの人はダミーでそのメッセージには特に意味はないと言っている。これまた疑問。特に羊男のメッセージ、わたしは意味があると思ってる。
「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。」

■私見
自発的に身体が動きステップを踏む。ステップにはもちろん正しいステップってのがあって、それをその通り正しく踏む。そうすることで何か自分にとって大切なことがいつの間にか為し終わってるといったことがあるんじゃないか?回復の儀式というか。
だから、「ダンス・ダンス・ダンス」での「僕」の遍歴はダンスのステップのように、自分(の身体)を信じて正しくしっかり踏みしめていった話なんじゃない?(うろ覚えだからまた読み直したくなってきた。。。)(身体に返って善を基礎付けるのは、一神教の人にはできないことだからそこは大胆だと思う。)

ただし、初期の作品から「僕」と関わっている人はよく死ぬ。普通に考えたら「僕」自身が一番イーブルなんじゃないかと疑念が生じる。(「父」がいないってことは善悪の基準も相対的で根っこがない。→この不安はきっと無意識に伝播するし、でもそれがただちに悪かどうか?わたしにはジャッジできないけれど)
たとえば、「ダンス・ダンス・ダンス」では、結局「僕」自身その疑いに気づいているがどうしようもないために事を起こせず(何をしたいのかの自覚もないし)、ただダンスを踊る。同時に損なわれている自分のためのステップ。一見迂回に見えるが、損なわれた(であろう)ものを取り戻す唯一の正しい方法(だと「僕」は無責任に信じている、己の身体は疑えない)。ダンスは自然発生的に始まり、ドルフィンホテルで羊男に促されてから、慎重なステップへとクライマックスの契機となり、ばたばたと周りの人間が死に、そしてキキの行く末を知るのである。そう、「僕」はそれを知りたかったのだ。前作「羊をめぐる冒険」の最後でキキは失踪するが、「僕」は、その時にそれをきちんと引き受けなかった。

(厳格な一神教徒とは違って)村上文学世界ではダンスが悪ではない。結局ダンスに巻き込まれるくらい位弱ってる人、五反田くんとかはしょうがないらしい。彼を救う手立てはなかったのか?
五反田君が一番イーブルな存在だから、彼の自殺でカタルシスを得てそれで終わり、でいいのだろうか?
死の無意味さを正面から捕らえ続けているのも、彼の自殺に無責任にであるための開き直りに見えなくもない。ここでちゃんと喪に服さないと(←ここでは責任を引き受けるということ)、再びより厳しいダンスのステップを踏む羽目になるのではないだろうか。そしたら今度は弓吉さんあたりが巻き込まれて死んじゃいそう。
そもそもキキが五反田君に殺されたのも、キキが前作「羊をめぐる冒険」に巻き込まれたせい、、、だと思う。

「僕」にご用心。

卒業したはずなのに、また読み返したくなるので、

内田樹にもご用心。

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