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ついに、本日子供手当て法案が衆議院を通過いたしました。 このまま、参議院も通過するでしょうから、成立となるで しょう。 何故に日本の国会議員は、国家百年の計という観点からも のごとを考えられないのでしょう。 夏の参議院選を目当てに数ヶ月先のことしか考えていませ ん。 越後長岡藩には米百俵という話があります。戊辰戦争の時 戦争に負け、武士が食うに困ったとき支藩の三根山藩から 米百俵が届けられた時家老の小林虎三郎が子弟の教育のた めその米を使うべきと唱え、食べるものも削って教育に当 てたという話である。 その成果が山本五十六などの秀才を生んだといわれていま す。 親に金をばらまき、まともな親と子が育つと思っているの であろうか? 世も末である。 以下に米百俵の由来を長岡市のホームページから紹介する。 幕末維新の風雲は、戊辰戦争で長岡城下にも及んだ。長岡藩は、軍事総督・河井継之助の指揮のもと、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と徹底的な戦闘を行った。このことは、司馬遼太郎の歴史小説「峠」で広く紹介されている。その結果、250年あまりをかけて築き上げた城下町長岡は焼け野原となり、石高は7万4千石から2万4千石に減らされた。 幕末に江戸遊学をし、佐久間象山の門下生であった虎三郎は、独自の世界観を持ち、「興学私議」という教育論を著していた。戊辰戦争の開戦に際しては、長岡藩が参戦することに反対の立場をとっていた。敗戦後、文武総督に推挙された虎三郎は、見渡すかぎりの焼け野原のなかで、「時勢に遅れないよう、時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう」という理想を掲げ、その実現に向けて動き出した。明治2年(1869)5月1日、戦火を免れた四郎丸村(現長岡市四郎丸)の昌福寺の本堂を借りて国漢学校を開校し、子どもたちに「素読」(論語などの読み方)を教えた。 翌年5月、長岡藩の窮状を知った三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られてきた。藩士たちは、これで一息つけると喜んだ。食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米であった。 しかし、藩の大参事小林虎三郎は、この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして米百俵を売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込んだ。こうして、明治3年6月15日、国漢学校の新校舎が坂之上町(現大手通2丁目、大和デパート長岡店の位置)に開校した。国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可された。国漢学校では、小林虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、情操を高める教育がなされた。ここに長岡の近代教育の基礎が築かれ、後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥……。 この国漢学校は現市立阪之上小学校に引き継がれ、「米百俵」の精神は長岡市のまちづくりの指針や人材教育の理念となって今日に至っている。 この国漢学校創立時の故事をもとに、文豪・故山本有三氏が戯曲として書き下ろしたのが<米百俵>である。この戯曲は、虎三郎に関する詳細な研究と合わせて一冊の本にまとめられ、昭和18年(1943)に新潮社から出版された。 山本有三の戯曲<米百俵>の中で、虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかける。 「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……」 教育と反戦の思想で裏打ちされた戯曲<米百俵>は大ベストセラーとなったが、時代は軍部の支配下にあり、反戦戯曲だと強い弾圧を受けて絶版となり、自主回収の憂き目を見た。 それから約30年後の昭和50年(1975)、長岡市が<米百俵 小林虎三郎の思想>を復刻出版すると、大きな反響を呼んだ。また、昭和54年(1979)と平成13年の2度にわたり歌舞伎座で上演され、多くの人々に感銘を与えた。 米百俵が来る 虎三郎が弟雄七郎にあてた手紙には、「長岡藩は極度に窮迫し、士族の中でも日に三度の粥すらすすることのできない者がいる」とある。 こうした状況の中で、明治3年(1870)5月、長岡藩の支藩である三根山藩(現西蒲原郡巻町)の士族たちから長岡藩士族へ見舞いとして米百俵が贈られてきた。米百俵は当時の相場でおよそ金270両前後。そば一杯がおよそ24文、金1両は約10,000文であったので、いかに大きな贈り物であったかがわかる。 文政11年(1828年)8月18日、長岡藩士小林又兵衛の三男として生まれる。崇徳館で学び、若くして助教を務める。23歳の時、藩命で江戸に遊学、兵学と洋学で有名な佐久間象山の門下に入り、長州の吉田寅次郎(松陰)とともに「象山門下の二虎」と称せられる。象山に「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである。」と言わせるほど、虎三郎は教育者であった。 教育の重要性を説く虎三郎の思想は、帰郷後に著した「興学私議」に詳しい。 戊辰戦争に敗れ焼け野原となった長岡で、「国がおこるのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ。」と教育第一主義を唱え、三根山藩からの救援米百俵をもとに、国漢学校を設立し、多くの人材を育て上げた。 虎三郎は明治4年、自ら「病翁」と名を改めているように、終生を病にさいなまれた。明治10年、湯治先の伊香保で熱病にかかり、8月24日に弟雄七郎宅で死去。享年50歳であった。 |

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気になったんでのぞいちゃいました!
2010/3/17(水) 午前 0:12 [ BASE5235 ]
福祉とは自分が犠牲になって社会に尽くす、心の篭った金こ福祉だと思うが、人が汗水流して収めた税で、未来に借金してまで、金のバラマキするとは庶民感覚では理解出来ない。納税側から見れば誠に不愉快である。
国民の税での冷たい心のない金銭ではない。即ち、福祉と言う名の下で政治や商売に利用すべき事では当然ない。
「三日乞食をすれば止められない」と言う言葉がある。補助金とか、手当て等はしない方がよい。人間を卑しくする。堕落は国家存亡に関わる事である。
福沢諭吉曰く「国を支え、国に頼らず」。だが今の日本は「国を支えず、国に頼る」。
之では国は持たない。未来がない。ここまで日本の精神文化は堕落しているのだ。
其れを助長するような政策は絶対に禁物だ。
寧ろ行なうべきことは、働き易い社会インフラ造り、健全な経済的環境造り、即ちそれを担う景気経済対策、働き斐のある社会、健全な精神を後世に残すことである。
政治の本命は、如何に現在行なっているような福祉をしなくてもよい社会造りを如何にして創るかが政治のバロメ−タ−である。
2010/3/17(水) 午前 0:47 [ tas ]
こんばんは。PONKOさんのところから来ました。
米百俵の話しは素晴らしいですね。
傑作&トラバさせて頂きます。
2010/3/17(水) 午前 1:19
良い話です 国語の本に載せるべき話です
ユダヤ人を想像していまいます 教育だけは大切にしたと・・
傑作です。
転載させてもらえないでしょうか?
2010/3/17(水) 午前 2:32
tasさんこんにちは、政府は国民に奴隷根性を植え付けたいと思っているのでしょうか?
国民の人気取り政策を推し進めた、古代国家と同じです。
アメとムチで奴隷根性を植え付ける。
DV被害の妻が夫の暴力に耐えるのは時々しめす夫の優しさといいます。
日本政府は古代国家なみの水準になってしまったようです・・・・
2010/3/17(水) 午前 9:57
あかびーさんこんにちは、是非米百俵の戯曲を読んでみてください。
涙が出てきます。
新潟県の誇りです。
2010/3/17(水) 午前 10:00
bostonさんこんにちは、お返事が遅くなって申し訳ありません。
どうぞ転載してください。
私のブログ記事で、気に入ったものがあれば何でも転載してくださって結構です。
どんなに国は小さくなっても、しっかりした教育をしている国は強いです。
フインラント゛のように国民が団結して戦い、ロシアを追い払いました。
団結して戦った国は例えその時敗れても尊敬されます。
長岡や会津のように。
2010/3/17(水) 午前 10:19
感謝します
コピー転載します。
2010/3/17(水) 午後 6:50