さむらい行政書士 庭山行政書士事務所

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学校で教えない歴史 10 日本を陥れたもの 序章
 
 
・・・
悪夢の十五年。
満州事変から敗戦まで、我々の日本はまるで熱病にでもつかれた如く、
軍国調一色に塗りつぶされてきた。
思えば、軍歌と、日の丸の旗と、万歳の声で埋めつくされた戦争狂騒曲の連鎖であったが、
この熱病の根源は果たして何であったろうか。
そしてまた戦争狂騒曲の作者は誰であっただろうか。
 
今日の一般常識は、軍部だ、軍閥だ、ということになっている。
しかしながら、この軍閥の演じた戦争劇は、果たして、
真実彼らの自作自演であっただろうか。
 
熱病の疾患部は、確かに軍部であったし、
戦争狂騒曲のタクトを振り「無謀な戦争劇」を実演したのも確かに軍部であったが、
その病原菌は何であったか、また作詞、作曲者は誰か、脚本を書いたのは誰か、
という問題になると、いまだ何人も権威ある結論を出していない。
これは極めて重大な問題だ。
 
尾崎・ゾルゲ事件、企画院事件の内容、昭和研究会の性格などが、
なぜ、今日まで世間に知られていなかったかという点である。
共産党関係の事件の如き、こと国体問題及至は皇室に関係ある事件は、
一般に及ぼす思想的影響を恐れて世間に公表しない建前になっていたのだ。
顧みて言えば、このため一般国民は、
自らの運命に重大な関係を有する重要問題の前に立ちながら、
目かくしをされて、問題の本質を知る機会すら与えられなかったのである。・・・・。
 
このように書いたのは三田村武夫氏でありました。
氏は昭和36月から71月まで内務省警保局に勤務し、
共産主義活動を精密に調査研究する事務に携わってきました。
昭和710月から106月まで拓務省管理局で朝鮮、満州、支那の
国際共産党の活動に関し表裏両面の調査研究に没頭し、
昭和112月に衆議院議員となり、
爾来10年間、戦時運動に身を投じて、共産主義運動の世界革命を注視し研究してきました。
 
氏の著書「戦争と共産主義」に岸信介氏がこのように書いています。
「読むほどに、私は、思わず、ウーンと唸ることしばしばであった。
支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、
日本をして対ソ戦略から対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、
遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人はソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、
日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者尾崎秀実であった、ということが
実に赤裸々に描写されているではないか。
 
近衛文麿、東條英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、
支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば
スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。
私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、
今思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人はスターリンでなければならない。
しかるに、このスターリンの部下が東京裁判の検事となり判事を務めたのだから、
まことに茶番というほかない。・・・」
 
この「戦争と共産主義」は昭和25年に発売されましたが、
当時は占領中でありGHQ民政局ではアメリカの共産主義者が主導権を握っており、
検閲官によってこの本は発売禁止になりました。
その後もこのような真実の本が消されて偏向した本ばかりがどんどん出回る日本。
この本やヴェノナ、尾崎やゾルゲの手記、その他の書籍を元に、
彼らのやってきた一端だけでも書いてみたいと思います。
・・・
 
192612月に第二次日本共産党が結成されました。
27年テーゼによって、
「ブルジョア政府を倒してプリレタリア共産党政権を樹立せよ」
と労農革命戦術を行います。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は
破壊と非合法の暴力革命闘争を行い、
資本主義崩壊と天皇制打倒の革命闘争を行います。・・・
 
当時の社会情勢は、
まさに経済恐慌であり、世界は不景気となり、
日本も年々不景気となっていきました。
米価は下がり、農家の負債がどんどん増え続け、
ついに農家は田畑を売り、首をつるもの、親子心中する者などが多くなっていきました。
 
また、都市でも倒産者が相次ぎ、失業者があふれ、
資本家は労働者の首切りや工場閉鎖を強行していきました。
これに対抗するため、労働者の組織的闘争が急激に増えはじめ、
「資本主義制度はもはや末期症状だ」
と言われはじめ、社会主義運動に拍車がかかっていきました。
 
1928315日、
内務省は共産党関係を一斉検挙しました。
これにより530人が収容され、5000人以上が取り調べを受けました。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は
内務大臣より結社禁止処分を受けました。
 
この事件は当時の新聞で大々的に報じられ、
「天皇様の噂をしただけで不敬罪になる」
「天子様をじかに拝むと目がつぶれる」
と思っていた一般国民は、
天皇陛下を倒して共産党の天下にしようと企てていたものが日本に
何千人もいたことを知って驚き日本社会に一大衝撃を与えました。
これが、いわゆる三・一五事件であります。
 
この三・一五事件があった同じ年、
モスクワで「第六回コミンテルン会議」が開催されました。
 
その中で資本主義国家同士の戦争に反対するのではなく、奨励推進し、
しかもその国の政府の敗北を助成し、
ブルジョア政府とその軍隊を自己崩壊に導き、戦争を通じてプロレタリアート革命を遂行する。
「資本主義戦争を敗戦革命へ」の戦略コースを巧妙に実践せよという、
レーニンとコミンテルンの敗戦革命への戦略戦術論が日本の軍部と政府に巧妙に適用されました。
 
これはどういうことかというと、
コミンテルンの究極目標は全世界で共産主義革命を完成させることでした。
そのために資本主義の支柱である米・英・日・独の強大国を倒さねばならない。
倒すにはその国の共産勢力を強化して革命を起こし内部から崩壊させること、
外部から武力で叩きつぶすことでした。
 
しかし、これらの国では共産党の力が弱く革命は成功しない。
また外部武力で叩きつぶす力がコミンテルンにはなかった。
ならば資本主義国家同士二つの陣営に分かれて大戦争をやればどちらかが負け、
戦時中の消耗で経済も弱まり資本主義体制が弱体する。
このための第二次世界大戦が好ましい。
 
まずヨーロッパではドイツが邪魔でありました。
ドイツと英・仏を対立させ米国を戦争に引き込む。
ドイツとイギリスのどちらが負けても欧州の地図は一変し混乱するはずである。
 
また、極東で邪魔なのは日本と米・英をバックにした蒋介石である。
そこで日本と蒋介石を戦わせる。
すると背後にある米・英は必ず乗り出してくる。
そうすれば支那と南方植民地を舞台に戦いが起き、
日本が敗北する寸前に我がソ連が兵を進めてその止めを刺す。
日本と蒋介石が崩壊し後には中国共産党が残る。・・・
 
1928年の段階でこのような方針で謀略を立てていきました。
日本と支那を戦わせることは1918年のユダヤ人による日支闘争計画にもありました。
 
そして、実際に支那事変が起きたのは1937年、大東亜戦争は1941年です。
 
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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さくらの花びら様よりの転載です。
現在GHQによる言論、出版の規制と、占領軍にとって都合の悪い書籍を図書館・書店から没収したことを知る国民は少ないと思います。
戦前は言論・出版の自由がなかったが、戦後自由になったと学校で教えられました。
しかし、戦後の占領下は逆でした。
焚書となった書籍にはすばらしいものが多くありました。
復刻を期待いたします。

2011/2/26(土) 午前 10:43 庭山行政書士事務所


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