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「いつ迎えに来てくれるの?」。
少年は母を待ち続けた。
だが、自分を愛してくれた人はもういない。
東日本大震災で両親を失った“震災孤児”の実態が見えてこない。
宮城県石巻市の市立小学校の避難所。
同小1年の少年は母親の迎えを待ち続けた。
少年の両親は車で避難する途中、津波にのまれて命を落とした。
学校にいた少年は難を逃れたが、両親が亡くなったことは知らされていなかった。
避難所には近所の住民も多く、親代わりを務めて一緒に遊んでくれたが、
避難所にいる親子連れをみると少年の目から涙がこぼれた。
泣きながら大人たちに聞いた。
「お母さんはいつ迎えに来てくれるの?」
地震から1週間ほどたったころ、
少年は一家の安否を心配して避難所を訪れた親族に引き取られた。
避難所を出るときまで、母親の迎えを待っていたという。
避難所で少年を見守り続けた男性は
「子供に必要なのは親や親族だった。自分たちの無力さを痛感した」と、声を震わせた。
(3月30日 産経新聞)
・・・・・・
戦前の日本の学校では修身という道徳教育をしていました。
仁愛 瓜生岩子(うりゅういわこ)
東京浅草の観音にお参りすると、本堂に向かって左手の庭に、
やさしい笑いをたたえたおばあさんの銅像があります。
これこそ貧しい人や、みなし子の母と慕われた瓜生岩子の銅像です。
岩子は福島県の喜多方に生まれました。
早く父に死に別れ、続いて火事にあい、小さい時からいろいろと苦労をしました。
結婚してから、若松で呉服屋を始め、子供も生まれ、店もおいおい繁盛して、
やっと暮らしがらくになったころ、夫が重い病気にかかって、
七年の長わずらいののちに死にました。
岩子はそれから店を人にゆずって、喜多方へ引っ越しました。
たび重なる不幸にあっても、岩子はそのため世をはかなむようなことはなく、
かえって同じような不幸な人に対する思いやりの心を深くしました。
喜多方へ引っ越してまもなく戊辰の役が起こり、若松は戦争のちまたとなりました。
岩子は「どんなときにも、女には女の仕事がある」といって、
銃火の中をくぐって、負傷者の介抱や、炊き出しなどに、
かいがいしく立ち働きました。
このとき、会津藩士の家族は、多く喜多方の方面へのがれてきましたが、
泊まる家もなく、飢えと寒さに苦しんでいました。
岩子は見るに見かねて、わが家に連れ帰り、
また近所の家や付近の農家にたのんで、泊まらせることにしました。
そうして、これらの人に、着物や食べ物などをととのえてやり、
病気の者には、自ら薬を煎じて与え、老人をなぐさめ、おさない者をいたわり、
働ける者のためには、仕事をさがしてやるなど、わが身を忘れて世話をしました。
とりわけ、岩子があわれに思ったのは、父兄を失ってたよる人もない子どもたちのことでした。
さぞかし名のある武士の子であろうに、武士らしいしつけも受けず、
毎日遊び暮らしているのを見て、岩子はその行く末を案じました。
そこでよい先生をたのみ、ささやかな学校を開き、古机・古本・古すずりなどをもらい受けて、
勉強ができるだけの用意をし、九歳から十三歳までの子供を集めて、
読み・書き・そろばんを学ばせました。
このとき集まった子供は五十人ばかりありましたが、
岩子はその親ともなって、親切にみちびきました。
明治五年に初めて小学校ができたので、岩子の学校は閉じられることとなりました。
岩子は、それから世の貧しい人を助け、みなし子を育てることに全力をつくしました。
その行いが世間に広まり、お上から何度もほうびをいただきました。
ついで養育院が初めて東京にできたときには、その最初の幼童世話係長に選ばれました。
(国民学校修身教科書 初等科)
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転載感謝いたします。
☆
2011/4/2(土) 午前 8:07
さくらの花びら様よりの転載です。
喜多方にこんな素晴らしい偉人がいらっしゃたとは知りませんでした。
全国民に知っていただきたいと思います。
是非教科書に載せるべきです。
2011/4/2(土) 午前 8:14