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樺太に 命をすてし たをやめの こころおもへば むねせまりくる
終戦直後、樺太の真岡郵便局の電話交換手である九人の乙女たちは
最後まで交換業務をしていました。
そして、ソ連軍が上陸し襲いかかった時、
ソ連の手にかかる前に自ら服毒自殺した。
昭和43年9月5日、「九人の乙女の像」の前で稚内市長の説明を聞かれた昭和天皇は
後日、上のような御製をお詠みになられました。
また、皇后陛下もこのような御歌を賜りました。
樺太に 露ときえたる をとめらの みたまやすかれと ただいのりぬる
・・・
大きな揺れの後、津波の来襲と高台への避難をひたすら呼び掛け続けた。
東日本大震災で津波に押しつぶされた宮城県南三陸町で
防災放送の担当職員だった遠藤未希さん(24)。
いまだ安否が分からない。
「しっかり頑張ったね。でも、何も命を張ってまで…」。
いたわりと無念さに揺れる母親。
秋に結婚式を控え準備を進めていた。
「ないよね」。
避難所に張り出された身元不明者、死亡者の特徴を書いた紙を指で追いながら、
母親の美恵子さん(53)がつぶやいた。
震災から2週間以上が経過し、更新される情報も日に日に少なくなっていく。
震災翌日から2日間はがれきの中を歩き続けた。
「見つけられなかった。自分たちの手ではどうしようもなかった」。
隣に寄り添う父親の清喜さん(56)はうなだれた。
3階建ての防災対策庁舎は津波にのまれ赤い鉄筋だけが無残に立ち尽くす。
11日、未希さんは2階で放送していた。
「6メートルの津波が来ます。避難してください」。
冷静で聞き取りやすい呼び掛けが何度も繰り返された。
海岸にいた両親にもその声は届いた。
庁舎に残った職員約30人のうち、助かったのは10人。
高台の高校に避難した人からも波にさらわれる職員の姿が見えた。
未希さんは勤続4年目の昨年4月、危機管理課に配属された。
介護の仕事に就くことを考えていたが、両親の希望を聞き入れ町職員を選んだ。
昨年7月に婚姻届を出し、今年9月の披露宴に向け楽しそうに準備していた。
景勝地・松島のホテルを早々と予約。
昨年12月、初めて衣装合わせをしてみた。
「3月にはウエディングドレスの新作が出るの。お母さん一緒に見に行こうね」。
そう約束していた。
美恵子さんは「放送が途中で切れた」と知人に聞かされた。
最後の方は声が震えていたという。
「放送するのに精いっぱいで、逃げられなかったんだろうね。実際は怖かったと思う。
母親の私が守ってあげられなくて。申し訳なくて」
町は人口約1万7千人。
約8千人の所在が分からず被害の全容はまだ把握できていない。
それでも避難所へ逃げた女性(64)は
「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」
と思いやった。
「『ご苦労さま。ありがとう』という言葉をかけてあげたい」と清喜さんは涙ぐんだ。
「未来の未に、希望の希」。
美恵子さんは娘の名前をそう説明した。
壊滅した町には新しい電柱が立ち、がれきの間に道が通るようになった。
少しずつだが、未来に向けて動き始めている。
(3月29日 産経新聞)
彼女のぎりぎりの恐怖心とぎりぎりの使命感を思うと、いたたまれない気持ちです。
昭和天皇の「こころおもへば むねせまりくる」に迫るものを感じます。
数年前、中西輝政氏は著書でこのように書いています。
「戦後の日本をつくった人々。
それは生き残った復員兵たちでした。
彼らの多くが戦後、慙愧(ざんき)の念を抱えながら、
死ぬまで繰り返し語ったことがあります。
『いいヤツはみんな戦争で死んだ。
他人に先駆けて真っ先に突撃したヤツは、
生真面目に命令通り自己犠牲の精神を貫いたヤツらだった。
そういう真面目なヤツはみんな死んだ』・・・」
「人間が人間的であるゆえんは、まさに集団のため、みんなのために
身を賭して尽くすことにあるのですから、自己犠牲ほど人間として尊い価値はないのです」
・・・・・
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さくらの花びら様からの転載です。
感動しております。
テレビで遠藤未希さんの放送を聞きましたが、とてもきれいな分かりやすい言葉でした。
この放送でたくさんの方々が避難され命が助かったと思います。
南三陸町でこれから先忘れられることのない人物となるでしょう。
日本人の誇りです。
2011/4/5(火) 午後 6:17
いつまでも語り継がれることでしょう。
転載感謝いたします。
☆
2011/4/5(火) 午後 8:10