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尖閣の件に関して9月27日の産経新聞には米紙の記事を取り上げていました。
 
「アジアにおける力関係の変化を示す最新の例」
「尖閣諸島の領有権を巡っては長年紛争が続いてきた、と米紙が述べるなど、
尖閣諸島をめぐる緊張を領土問題と位置づける見方が今回の事件で国際的にも定着してしまった」
・・・
 
今年、赤坂にあるプリンスホテルに宿泊した時、隣にあった清水谷公園に行ってみた。
ここは明治政府の大久保利通が暗殺されたところです。
薄暗く、人もまばらな中、大久保の哀悼碑が忽然と立っておりました。
 
今、尖閣諸島のチャイナ船長釈放で日本国民の多くは政府の対応に納得せず、
怒り心頭で呆れていることでしょう。
政治家が不甲斐ないと国民までチャイナに馬鹿にされてしまいます。
されど、今では知る人も少ないかもしれませんが、
大久保利通こそ自国のために支那に乗り込んで主張した政治家でありました。
・・・・・・
 
かつてチャイナが日本を敵国として意識したのは尖閣のある沖縄がきっかけでした。
それは1871年のことです。
宮古島から首里へ向かった年貢輸送船が台風で遭難して台湾の南部へ漂着しました。
その時に乗組員66人が台湾の先住民・パイワン族に拉致され54人が殺害されました。
翌年に生き残った12人が那覇に戻り、このことが鹿児島藩を通して明治政府に伝えられました。
時の政府は清国に賠償を求めましたが、清国側は
「琉球は清国の属国であるから、これは清国の内政問題である。日本が口をはさむことではない。
また、台湾の住民は化外の民(野蛮人)であるから清国が責任を取るものではない」
と日本の要求を拒否しました。
 
琉球は徳川幕府の時代から薩摩藩です。
しかし、琉球は清国に対しても朝貢しており、そういう意味では帰属が明確ではありませんでした。
これは琉球王が帰属をはっきりさせると他方の国から攻められると恐れていたからです。
ですから琉球は薩摩藩の駐在を認め、一方で清国に朝貢をしていました。
 
明治政府は清国の態度に苦虫を噛みつつ、3年後の1874年、
征韓論を抑えた大久保利通が宮古島島民の仇を討つべく台湾出兵を行います。
西郷従道の率いる三千人の兵が台湾に上陸。
一方、清国は五千人の兵士を台湾に派遣し、福建艦隊が向かいました。
しかし清国の総指令が
「日本は鉄甲艦二隻を持っているが、我々はすべて木造艦であるのでとても戦えない」
と戦わずに逃げ帰ってしまいました。
その後、大久保利通は北京に乗り込み、日本の出兵は義挙であることを清国に認めさせ、
賠償金五十万両と清国の琉球に対する属国を放棄させて日本に戻りました。
 
この当時、チャイナは日本を「東海の小島の小国」とか「東夷」と言って馬鹿にしていましたが、
チャイナは日本政府の毅然とした態度に手が出せず、
逆に日本恐るべしと感じ、その後の北洋艦隊を急いで作るべきだと思うようになりました。
・・・・・
 
現在、時代はもちろん違いますが、このような政治家は少なくとも日本の政権の中にはいない。
今回、尖閣諸島で衝突させたチャイナ船長を釈放したことはどう考えてもおかしいことで釈然としない。
本来は徹底的に取り調べて、チャイナが何を言おうが日本の法律で裁くのが当然であると
国民は感じていたはずです。
その上でチャイナには海上保安庁の巡視船への修理費用、
さらには損害賠償を要求すべきであるのに、そういう声すら上がっていない。
逆にチャイナから謝罪と賠償を要求されるとはまことに情けない。
 
今後二度と尖閣諸島にチャイナ船を近づけてはならない、
万一近づいた場合には乗組員の命の保証はないと、
厳しく通告するくらいの強気の発言があってもいい。
 
さらに政府はフジタ社員四名の身柄を早急に返すようにも強く求めるべきではないか。
それとも何かやましいのか、民主党・・・。
 
927日の産経新聞に元インド海軍中将 K・K・ナイヤール氏が
今回の尖閣のことをみて、このように書いています。
「もし中国が軍事的に日本に挑んできても、日本は対応するすべを持っていない。
日本は核武装を余儀なくさせられることになるだろう。
日本の自衛隊は強力で特に海上では中国に劣っていない。
だが、中国の核兵器に対しては、日本は丸裸同然の状態にある。
その状態をどうするかは日本人自身が考えなければならないことだ」
 
今回のチャイナの強硬な姿勢の裏には強大な軍事力、そして核があるのは明白です。
私は戦争をすることをよしとするものではありません。 しかし、
日本はもうそろそろ核の議論や憲法も含めて議論していくべき時期であることを自覚したい。
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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満州から強盗どもを追い出した関東軍。
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  満州事変で日本は支那を侵略した・・・大方の人はこんな歴史を信じてしまっています。しかし、なぜ事変が勃発したかはしらないし、満州と支那が別の国であることも知らないでしょう。満州事変は関東軍による自警行為の発動であり、満州国は満州の正当な所有者である満州族・清朝の復活です。

  「侵略」の英語はAggressionです。プログレッシブ英和中辞典によると「 1 (…への)侵略行為, 侵犯, 攻撃;(権利などに対する)侵害((on, upon ...))  a war of aggression 侵略戦争」となっています。国士舘大学講師の倉山満氏によると、これは誤訳であり、本来の意味は「挑発もされていないのに先に手を出す行為」であり、重要なのは「挑発の有無」と述べています。どうも東京裁判のときに一般的な「侵略」を当ててしまったためのようです。これは重要な話でしょう。

  清朝崩壊後、満州も支那も軍閥が跋扈(ばっこ)し、治安維持能力が低く、満州にいる日本人の生命と財産が脅かされ、「日支懸案370件」というほどでした。さらに条約違反によって満州の日本の権益が損なわれ、鉱山の爆破のほか、南満州鉄道だけみても1928年から31年の間、運行妨害171件列車強盗189件鉄道施設の略奪92件、電線の略奪26件も発生しています。日本の権益は日露戦争後に条約によって得た正当な権益です。それに対して軍閥は挑発行為を繰り返してきたのです。慣習国際法という概念は当時にもあり、満州にいる日本人の生命と財産が脅かされれば主権者たる満州軍閥は日本人を保護しなければなりませんが、それができないなら主権国家と呼ぶべきではないし、日本の関東軍が自警行為を発動しても法的にはなんら問題はありません。

  1922年に中華民国に関する九カ国条約が結ばれており、中華民国の主権を尊重し、中華民国に独立と自助努力の機会を供与する条約であることを明記しています。これで満州国建国は違法だという人もいるようですが、満州は中華民国のものではありません。条約締結時にブリアン議長から「What's China?」と疑問が提示されましたが、曖昧なまま条約に至っています。歴史的経緯からすると満州は満州族のものであり、支那(China)は漢民族のもので、万里の長城に境界があり、現地の人々の意識もそのような意識でした。蒋介石の北伐は万里の長城が終点です。また中華民国は紛争に対する中立義務がありましたが、それを破って南京、漢口で各国大使館に対して殺人・略奪行為を行っています。もはや条約遵守に値しません。

  1928年にパリ不戦条約が結ばれますが、この内容は現在のGHQ憲法九条の内容とウリ二つで、「国際紛争解決の為に戦争に訴えない」「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」「あらゆる紛争または紛議の解決は平和的手段によること」というものです。結局米国が自衛戦争は禁止されていないという解釈を打ち出し、ここで早くも空文化してしまい、先にあげた「A war of aggression 挑発もされていもいないのに先に手を出す戦争」は侵略戦争として否定されるが、「自衛戦争」は容認するとしています。また英米は「自国の利益に関わることで軍事力を行使してもそれは侵略ではない」としています。しかも各国に自己解釈権まで与えられています。

  これらのことを見ると1931年に関東軍の鉄道爆破によって満州事変が勃発しますが、合法的な自衛権の発動であり、その後の満州国も満州族の皇帝が即位し、各軍閥が従い、関東軍により治安が維持できるようになったということで、侵略でも違法でも何でもありません。


参考文献
  「歴史通」2010.3『国際法違反だと言われたら』倉山満
  「かへるうぶすな」南出喜久治著
  「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一著

関連記事
  満州建国 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21636144.html
  満州事変 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21573096.html
  万宝山事件と中村大尉殺害事件 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21555060.html
  満州の日本の権益を否定する国民党 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21536066.html

添付写真
  1931年9月柳条湖事件の現場を日本側が調べている(PD)

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転載元転載元: 偏った歴史観を見直す「かつて日本は美しかった」

前回の記事では「日本の不毛が続く」と書きました。
日本はこのまま衰退の一途をたどっていくのでしょうか。
 
がんじがらめの日本はいっそうのこと壊滅的な崩壊が起こった方が、
よい再生が出来るのではないかと考えてしまいます。
 
その時こそ「五箇条の御誓文」が必要ではないかと思います。
これは、かつて明治天皇が率先して天地神明に誓ったものですが、
今や多くの国民に顧みられることもなくなったものです。
これを知らないのは日本国民としてもったいないことであります。
学校でも触れるのは明治初年の「五箇条の御誓文」発布のことだけでしょう。
しかし、これは昭和天皇も顧みられました。・・・
 
 
もともと「五箇条の御誓文」は官僚の作ったものではなく、
この御誓文の発布前に明治天皇が直筆で書き上げた、
次のような御宸翰(ごしんかん)という文が元になっています。
 
「天皇である自分が宮殿で安逸に過ごし、国家百年の憂いを忘れるならば、
我が国は外国の侮りを受け、歴代天皇の事績を汚し、国民を困苦に陥らせることになってしまう。
今回の御一新にあたり、国民の中で一人でもその所を得ない者がいれば、
それはすべて私の責任である。
今日からは自らが身を挺し、心志を苦しめ,困難の真っ先に立ち、
歴代の天皇の事績を踏まえて治績に勤める。
そうしてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君である地位にそむかないものとなる。
自分はそのように行う」
 
明治天皇はこのように、国家の元首として、最高指導者として、自らを律し、自ら率先して、
国家の独立と発展、国民生活のために尽力されました。
 
こういうことを現在、政権をとっている政治家たちには学んでほしい。
 
 
「五箇条の御誓文」はかつて昭和天皇が自ら敗戦後の国民に広く紹介されています。
昭和2111日の「新日本建設の詔書」です。
 
これは「天皇の人間宣言」と言った方がわかりやすいかもしれません。
学校ではそう教えられていますし、当時のGHQの思惑もあったでしょう。
しかし、この詔書は天皇が人間だと言っているものではありません。
人間宣言というのは大間違いです。
これは陛下の信頼する国民が、陛下とその心をひとつにして、
国民が助け合い、我が国の伝統の真価を発揮し、大業を成就せんことを願うものです。
 
そして、この冒頭に「五箇条の御誓文」が添えられています。
これは昭和天皇が「五箇条の御誓文」を挿入するように指示したからです。
にもかかわらず、その後の政府案ではこの「五箇条の御誓文」の部分が削られていました。
それを見た陛下は「五箇条の御誓文」を必ず入れるように強く言われました。
 
昭和天皇は明治の精神を示す「五箇条の御誓文」を、
戦後の今こそ日本人は学びなおして、日本の再建に邁進しようとされたのです。
 
昭和50年9月22日、昭和陛下は外国人記者団に対し、
「五箇条の御誓文こそ、日本の民主主義の基盤であったと信じています」
とおっしゃられたことを思い浮かべます。・・・
 
 
日本という国は古来、危機が訪れると必ず天皇が率先して国の再興にとりかかってきました。
大化の改新しかり、建武の中興しかり、明治維新も終戦前後の日本も。
日本という国は天皇陛下がいたからこそ成り立っている国です。
政治がいよいよダメになり、日本が崩壊しそうな時にこそ、
天皇陛下を中心とした国として再建し、そして発展していくべきではないでしょうか。
 
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
昭和天皇の「新日本建設の詔書」(現代語訳)
 
ここに新年を迎える。振り返れば明治天皇は明治のはじめにあたって、
国の基本方針として「五箇条の御誓文」を、おさずけくださった。それは、
 
一、広く会議を開き、あらゆることについて公の議論の場で決定すべし。
一、上の者も下の者も互いに一致協力して、国家秩序を盛んにすべし。
一、役人・軍人から庶民にいたるまで、誰もがその志をまっとうし、途中であきらめたり怠けたりしないよう計るべし。
一、過去の誤った風習や弊害をやめ、何ごとも天地の道理にのっとるべし。
一、新しい智恵や知識を世界じゅうに求め、天皇を中心とするうるわしい国柄や伝統を大切にして国家を発展させるべし。
 
明治天皇の叡智にあふれた御旨は、この五箇条の御誓文にすべて集約されており、
この上、付け加えるべきものはなにもない。
余はここに、改めて五箇条の御誓文をもって、国の運気を開きたい。
すべてはこの御誓文の御趣旨にのっとって、旧来の弊害を去り、国民の意欲を高め、
官民協力して平和主義に徹し、教養も豊かな文化を築き、
国民生活の向上をはかり新しい日本を建設すべし。
 
我が国の大小を問わない都市がこうむった戦争の災禍、罹災民の苦難、産業の停止と頓挫、
食糧の不足、失業者の増加などのあり様は、まことに余の心を痛ませるものがある。
しかし、その一方、我が国民が現在の試練に直面しながらも、徹頭徹尾、
平和な文明を求める決意を固くし、国民どうしの結束をまっとうすれば、
我が国のみならず、全人類のためにも、輝かしい前途が開けることを疑わない。
 
我が国民においては家庭と国家を愛する心が、ことに熱烈である。
今まさに、その精神を拡大充実させ、人類愛の完成に向けて、献身的な努力をすべき時である。
 
余が思うに、これまで長きにわたった戦争に敗れた結果、
我が国民はややもすれば絶望感にかられ、失意の底に沈んでしまう傾向がある。
言動がしばらく過激に流れるようになり、道義に従う心も著しく衰え、
そのために思想の混乱の兆候が見られるのには、誠に深い憂慮の念を覚えずにはいられない。
 
しかし、余は国民とともにある。
常に利害を同じくし、喜びも悲しみも分かち合いたい。
余と国民との間の絆は、いつも相互の信頼と敬愛とによって結ばれ、
単なる神話と伝説を根拠に生まれたものではない。
天皇をもって現人神とし、また日本国民が他民族より優れており、
そのゆえに世界を支配すべき使命を持つといった架空の観念によって生まれた絆でもない。
 
我が国の政府は、国民の試練と苦難とをやわらげるため、
あらゆる政策と国家経営に万全の手段を講ずるべきである。
同時に余は、現在の苦難にあたってわが国民が奮起し、当面の困窮を克服するため、
また産業と文化の振興のため、勇気をもって進むことを心より願う。
 
我が国民が、その実生活において団結し、互いによりそい助けあい、
寛容をもって相手を許すという気風を高めるならば、我が国の至高の伝統に恥じることのない、
日本民族の真価を発揮するに至るだろう。
このように考えるのは、実に我が国民が、人類の福祉と向上のため、
絶大なる貢献を爲すであろうことを疑わないからである。
 
一年の計は年頭にある。
余は、余の信頼する国民が、余と心をひとつにして、みずから奮い、みずから励まし、
もって以上の大業を成就することを、心より願うものである。
 
御名 御璽
昭和二十一年一月一日
 
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

出口宗和 著 答えられそうで答えられない語源から 
    平成22年9月13日
今日の言葉 眉唾(まゆつば) です。
信用できないこと。
豪傑俵藤太が三上山の大ムカデを退治した話が語源。
藤太はムカデの吐く炎で眉を焦がしそうになったが、唾をぬりこれを凌ぎ、ムカデを退治しました。
中国でも鬼に出くわしたら自分の眉に唾をつければ鬼は退散すると云われているようです。
信用しがたい話、これを眉唾と言います。
 
明日の民主党代表選挙どちらの候補も眉唾な話ばっかり。
 
 参考文献 出口宗和 著 答えられそうで答えられない語源から 二見書房 
 
新潟県村上市鳴海金山大切坑道の入り口です。
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鳴海金山へ至る山道 新潟県村上・山形県鶴岡間のスーパー林道から歩いて15分です。
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占守島の戦い

もし、占守島の日本軍の奮戦がなければ北海道はどうなっていたか・・・
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  昭和20年8月17日、千島列島最北端の島、占守島(しゅむしゅとう)にソ連軍が上陸しました。もう戦争は終わっているはずです。「本日未明、敵は竹田浜一帯に上陸開始、目下激戦中、国籍不明・・・」報告を受けた堤師団長は「よし、すぐさま戦車隊に歩兵、工兵をつけて先遣隊として出動、杉野旅団長には、村上警備隊を助けて、敵を海に叩き落せと伝えろ。砂糖旅団はただちに占守島に移動して全軍挙げて殲滅せよ」と指示がでます。北海道の方面司令官・樋口中将からもしばらくして「断固反撃に転じ上陸軍を粉砕せよ」と命令が出ます。

  樋口中将の回想
「18日は戦闘行動停止の最終日であり、戦争と平和の交代の日であるべきであった。(略)然るに何事ぞ。18日未明、強盗が裏木戸を破って侵入すると同様の、武力的奇襲行動を開始したのであった。斯かる(かかる)不法行動は許されるべきではない。若し、それを許せば到る所でこの様な不法かつ無知な敵の行動が発生し、平和的終戦はあり得ないであろう」
  樋口中将はここで食い止めなければソ連軍が怒涛のように北海道まで押し寄せてくるという危機感を持っていたでしょう。

  占守島に上陸したソ連軍は艦砲射撃を加え、カムチャッカ半島のロパトカ岬(わずか十数キロ先)からの支援砲撃を開始します。日本軍もロパトカ岬へ向けて反撃し、粉砕します。上陸用舟艇十数隻撃沈撃破。航空隊も出撃させます。

  占守島には戦車第11連隊(中戦車39両、軽戦車25両)、通称、池田戦車隊がいました。即、出発するわけにはいきません。何しろ戦争は終わったと思っていたので戦車の整備はしていないし、燃料は地中に埋めてしまっており、機関銃や無線機も取り外してしまっています。それらを元に戻してからの出発で2時間はかかりました。そうしている間にも島北東の四嶺山は危険にさらされていきます。池田戦車隊の将校車は歩兵と工兵の到着を待たずに進撃を開始しました。四嶺山に到着した池田戦車隊は敵中へ突入し、敵を竹田浜方面へ追い払いました。

  17日深夜から始まった戦闘も20日には柳岡参謀長が軍師としてソ連側グニチェコ少将と交渉にあたりますが、武装解除手順について齟齬があり、ソ連側は部隊を展開させ攻撃準備を完了したという観測が出て、日本側は再び攻撃再開を計画します。これにあわてた方面司令官の樋口中将は停戦と武器引渡しを師団に指示し、総攻撃は中止となりました。

  この戦闘で日本側の死傷者は600〜1000名、ソ連側の死傷者は1,500〜4,000名と言われています。ソ連側は随分幅がありますが、ソ連政府機関紙イズベスチヤが「8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と述べたところから、ソ連側の被害が大きかったことが伺われます。

  8月23日、停戦協定調印のため堤師団長は柏原港に現れたソ連軍艦に赴きました。そこでソ連軍グネチコ司令官は「我々は占守島を一日で占領するつもりであった」と地図を指しつつ胸を張ってみせたといいます。そこで堤師団長は「そちらがその気とわかっていたら、わが日本軍は君たちを海へ叩き込んで殲滅したであろう」と応酬しました。

  この後、ソ連軍は9月2日まで次々と千島列島を占領していきますが、もし、占守の日本軍の奮戦がなかったら、どうなっていたか・・・占守の日本兵は「ダモイ・トウキョウ(東京へ帰る)」と言われ船に乗り、着いた場所はマイナス20度のナホトカでした。


参考文献
  「指揮官の決断」早坂隆著
  「8月17日、ソ連軍上陸す」大野芳著

添付画像
  占守島の国端崎灯台 国書刊行会「懐かしの千島」より(PD)

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もう一つの硫黄島戦 「占守島の戦い」
http://www.youtube.com/watch?v=dDBF72MbkXU




転載元転載元: 偏った歴史観を見直す「かつて日本は美しかった」

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